15:00 ―大吉―


 六時限目の数学は、予定より15分早く終わった。
「それじゃあ、何か質問のあるやつはおいで。後は自由にしていい」
 今回行うべき範囲をこなした後、見事なブロンドの髪が自慢の教師がそう言うと、数学を苦手とする生徒が早速席を立った。
「ハラキリは――」
 教室用板晶画面ティーチング・ボードの前に立つ教師が生徒それぞれから質問を受けている光景を横目に、ニトロは隣へ振り向いた。
「これからどうするんだ?」
 隣の席のハラキリは、既に半ば席を離れていた。今にも「ではまた」とでも言いそうな様子で足を止めた彼は少し思案顔を見せ、
「買い出しに行きます」
「買い出し?」
 その言葉にニトロの前の席に座るミーシャが敏感に反応して振り向いた。それを目にしたハラキリは苦笑して、
「母の趣味に関係することですよ」
 彼は、半分嘘をついた。本当はオリジナルA.I.撫子の趣味に付き合うのだが、そう言うとニトロから芍薬に話が伝わった時、そちらにも敏感に反応されてしまうかもしれない。
 それに、半分の真実だけでもニトロを納得させるには十分だった。
「それじゃあ、こっちには付き合えないな」
 納得しながらも残念そうなニトロへ、ハラキリは訊ねた。
「そちらは?」
「服を作りに行くんだ」
「あ」
 と、その時、吐息のような声が漏れた。それにニトロが振り向くと、ミーシャがこちらに半身を向けて力なく眉を垂れていた。
「どうかした?」
「何でもないよ。もし暇だったら息抜きにでも、って思ってたんだ」
 それは、もしかしたら今朝彼女を手伝ったことへのお礼でも兼ねていたのだろうか。ニトロは残念そうな彼女へ、こちらも残念だと眉を寄せ、
「ごめん、わりと急ぎの用なんだ」
「みたいだね」
 ミーシャは、目に残していた未練を消した。
「次、暇だったら付き合いなよ」
「分かった」
 うなずき、立ち上がったニトロはハラキリに声をかけた。
「下まで一緒に行こうか」
「ええ、いいですよ」
「ニトロ、ハラキリ、またな」
「ああ、クレイグ、またな」
 ミーシャの隣で――恋人の様子をひどく気にしながら――こちらへ手を振る友人に笑みを返し、また方々から飛んでくる言葉に挨拶を返しながらニトロはハラキリと共に廊下へ出た。五時限目の体育で汗を吸った運動着の入ったバッグをロッカーから取り出し、同じようにロッカーからデイバッグを取り出してきたハラキリと廊下を歩いていく。
 他の授業が行われている教室の窓は、廊下向きの窓も外向きの窓も、外側からは特殊フィルムの機能により曇りガラス様になっている。電気を切れば透明に戻るが、授業中はずっとこのままだ。逆に、内側から外を見ることはできる。それを知っているからなのか、ニトロにはガラス越しに視線が感じられた。廊下に並ぶ教室からも、中庭を挟んで並行して建つ第二教室棟の教室からも。二人は互いに己のA.I.に連絡を入れながら、絡み付いてくる視線から逃れるように足早に静かな第一教室棟を降りていった。
 一階まで降りたところで、一度教室棟の外に出る。そこから事務棟を迂回して駐車場へ行こうとしていた時だった。
「ニトロ! ハラキリッ」
 背後から呼び止められ、二人は足を止めた。
 振り返ると、制服のチェックのスカートを翻し、黄色いラインの入ったスニーカーを軽やかに跳ねて昇降口を駆け抜けてきたミーシャがそのままの勢いで追いついてくる。彼女は小ぶりのスポーツバッグを手にしていた。だが、彼女に伴ってくるはずの少年はそこにいない。
「どうしたんだ?」
 怪訝にニトロが問うと、ミーシャは息を弾ませて言った。
「これ!」
 スポーツバッグの中から小さな袋を取り出して、ニトロに、次いでハラキリに押し付ける。そして彼女は、突如勢いを失った。
「……ただ混ぜて焼いただけのものだけどさ」
 自信無げに、言う。
「でも、クレイグは美味しいって言ってたから、あのさ、二人とも、色々手伝ってくれてホントにありがとう。ホントに、助かった」
 ニトロは、ああ、と理解した。
 今朝、彼女に弁当作りを教えている時に目にした物は、このためだったのか。
「クレイグ、すっごく喜んでくれたよ」
 そう言う彼女の顔は、おそらく、そのクレイグのものよりも大きな喜びで輝いていた。
 押し付けられた袋の中には、十枚ほどの手作りクッキーがある。
 ニトロはハラキリと目を見合わせ、ミーシャに目を戻した。彼女は戸惑っているような二人の様子に顔を硬くしてしまっていた。それがあんまり緊張した面持ちだから、ニトロは思わず笑ってしまった。
「彼氏を毒見役にしちゃ駄目じゃないか?」
 その軽口に、そしてその声に含まれた感情に、心をやわらげられたミーシャが頬をほころばせた。
「いいんだよ。初めてはクレイグにって決めてたんだから」
 言って、そこで彼女ははっと口をつぐんだ。
「……」
 ニトロは笑みを張り付かせたまま、何も言えなかった。
 ミーシャは、別に他意を込めてそれを言ったわけではあるまい。だが、自らの言葉への別解釈を自覚してしまったからには――照れ屋のミーシャが涙目になって顔を真っ赤にすることは必然だった。そしてそのような反応を示されては、別に他意を無理矢理汲み取ろうというわけでもなかったニトロもどうしていいのか、すぐに判断がつかなかった。
 まずい。
 このままでは事態がおかしなことになる。
 早く何か手を打たねば恋する乙女の羞恥が爆発する!
「ありがたく、いただきます」
 と、その時、状況に反して実に気楽な声が流れた。
 ミーシャがはっとして彼を見る。
 今にも悲鳴いいわけを叫び出しそうだった少女を前に、あくまでも平静に、あくまでも何事もなかったかのように、ハラキリがしれっと言う。
「これはコーヒーに合いそうですねえ」
 敵わないなあと感嘆しつつ、ニトロも続く。可愛らしくリボンのかけられたクッキーの袋を差し上げ、
「ありがとう、ミーシャ。大事に食べるよ」
 ミーシャは飄々としたハラキリを、それから笑顔のニトロを見つめ、そして、とても嬉しそうに笑った。

15:30 ―大吉―


 王都第二区にある王立馬事公園には、王家の公務や祭事において使われる馬を飼育する王厩がある。
「見事ねー」
 厩舎前の小さな広場に引き出されてきた白馬は、その肌がまさに純白の絹そのものであるかのように輝いていた。陽光に透く鼻はうっすらと桃色で、それほどに血の色を透かす色素の欠如は神秘的でさえある。綺麗に刈り込まれたたてがみは白銀にも思える美しさ。その一方で、薄い皮膚に覆われた筋肉は素晴らしい盛り上がりを見せている。
「前に見た時も良いと思ったけれど、これほどだったかしら」
 白馬を惚れ惚れと見つめて、ティディアは言った。
「姫様がご覧になった時は、まだこちらに来たばかりのことでしたからな」
 手綱を持つ調教師が言う。
「それに周りに人の多いここが気に入っているようです。水も合うんでしょう」
 五十絡みの小柄な男に首筋をポンポンと叩かれる白馬は一歩も動かず、まるで白石の彫刻のように微動だにしない。
「人が多い方がいいの?」
 パンツスーツ姿のティディアが問うと、調教師はうなずいた。
「こいつはなかまよりも人間の方が好きな性質たちでして。どこにいても常に人間が来るのを待ってるもんです、そわそわしてね。あんまり長く放っておくとヒンヒン悲しげに鳴きますな。しかし人間が近くにいる時は安心して、こうしてこちらの言うことに忠実です」
 調教師は手綱を引っ張り、ティディアを中心として一周歩いて見せた。白馬は手綱を張らず、緩めず、調教師の速度に合わせてゆったり歩くと、元の場所でまたぴたりと止まった。
「頭がいいのね」
「ええ、本当に。どんな指示にも従いますし、跳びでも演技でもよろしいです。勇気もありますな。どんな祝砲にもびくともしません」
「ただし、人間が側にいれば?」
「ええ、変わりモンです」
「面白いコね。私にも引けるかしら?」
「ええ、どうぞ」
 ティディアは笑み、調教師から手綱を受け取った。引き歩いてみると、白馬は調教師に引かれた時と調子を変えずに歩き、そして止まってみせた。
「素晴らしい」
「ただ、気をつけて欲しいことが一つあります」
「何?」
「こいつは人間が好きなだけでなく、甘えたです」
「そうなの? さっきからそんな様子はな――」
 手綱を緩め、首筋を撫でていたティディアはそこで言葉を切った。
 白馬が急に首を曲げ、ティディアに擦り寄ってきたのだ。
「おっ――と」
 馬にとっては小さな動きでも、人間には大きい動きだ。文字通り馬力も違う。危うくバランスを押し崩されそうになったティディアは巧みに体勢を立て直し、頬擦りしてくる白馬の頭を抱えるようにして鼻筋を愛撫した。
「うん、甘えたがりね」
 馬と戯れる王女から少し離れたところで、執事が熱心にカメラのシャッターを切っている。その写真は、機会があれば広報にでも使うことがあるだろう。
「それにしても、急にどうしたの?」
 ティディアは馬へ問いかけるように言った。すると調教師が答える。
「こいつは頭が良すぎるところもありましてな。お前は今仕事をしているんだぞ――という意識を常に持たせておかないといけないんですわ」
「ということは、こっちが常にそう思っておけば、それに従ってくれるということね?」
「はい」
 試しにティディアは手綱に込める力を強め、白馬がまた動かないでいるよう意識を強めた。すると、それを敏感に察知した白馬は立ち姿を整え、以降微動だにしない。
「うん、いいコね」
 目を細め、ティディアは白馬の首筋を優しくぽんぽんと叩いてやった。白馬はやはり動かない。が、きっとその内心には喜びがあるのだろう。
 ティディアは調教師に手綱を返し、少し距離を取ると改めて白馬をしげしげと眺めた。
 この美しい馬が鎧を纏い、その上に己が騎乗している姿を思い浮かべると心が奮える。その人馬一体の姿を、彼はどのように見てくれるだろう? 無論、私が期待することはただ一つではあるのだが――
「……」
 ティディアは一つ息をつき、素敵な一時いっときへの想いを掻き消した。
 夢を見るにはまだ早い。早すぎる。
「ヴィタ」
「はい」
 呼ばれた執事が折り畳まれた板晶画面ボードスクリーンを胸ポケットから取り出し、その形状記憶機能を働かせて自動的に開かせる。折り目もなく開かれたボードスクリーンには今朝、ティディアがまとめた書類があった。
「ロディアーナ宮殿への馬の移送、及び騎兵隊への協力指示、そして宮殿内への通行許可証と、施設使用許可証よ」
 調教師は近くで――といっても王女に近づくのは恐れ多いといった様子で控えていた厩務員を呼び、白馬を馬房へ引いていくように命じた。それから頭を下げ、ヴィタからボードスクリーンを恭しく受け取った。
「……確かに」
 内容をざっと読み、特に大事な箇所はしっかりと目に留めた調教師がうなずく。
「それにしても、あれを宮殿に運び込むだけのことに随分手間のかかることをしなさりますな。わたくしとしちゃ馬っこ達のまたとない晴れ舞台になりますんで、構いはしませんが……」
 白馬とは逆に、人間なかまよりも馬を好く無骨な調教師は不思議そうに言う。
 ティディアは困ったように笑い、
「これくらいは手間をかけないとすぐに私の企みに気づいちゃう子がいるのよ」
「はあ、姫様のお考えを? それはそれは優秀な方なんでしょうなあ」
「ええ、本当にね」
 調教師の物言いに、ヴィタも面白そうに目を細めている。
 ティディアは小さく肩を揺らして、言った。
「だから大変なのよ、色々と」

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