14:35 ―凶―


 ティディアは王家専用飛行車の広い居住空間の中で口直しのお茶を飲んでいた。
 それはつまらない茶会で刻まれた記憶を上書きするためのものだった。
 先ほどまで耳から流れ込んできていた花壇の肥やしにもならない世辞が両耳の間で腐れそうになっていたところを、ヴィタの丁寧に入れた極上の紅茶の素晴らしい香味が洗い流していく。
 ようやく、一息がつけた。
 飛行車は王城から南東に向けて空を走っていく。
 彼女はカップを片手に、午後になって上がってきた様々な報告書に目を通しながら、ふと口ずさんだ。
「おっぱいおっぱい 大好きおっぱい ひぃやっほう!」
「ボフ」
 妙な音がした。
 ティディアが目を上げると、真向かいの席に座るヴィタが紅茶を派手に吹き出していた。女執事は顔を背けて主人に紅茶を吹きかけることをどうにか避けられたようだが……王女はそれを認めるや、にまりと笑った。
「珍しいわね、ヴィタがそんな風になるなんて」
「不意打ち過ぎて、それは卑怯です」
 汚してしまった革張りのシートを布巾で拭きながら、ヴィタは何事もなかったかのように言う。しかしティディアは執事の目元がかすかに悔しそうに強張っているのを見逃さなかった。パンツスーツを着た藍銀あいがね色の髪の麗人は、主人がニヤニヤしていることを察しながらもあくまで涼しげに言う。
「何故突然『乳房礼賛』を?」
「耳に残る歌じゃない?」
 つまり、大した意味はないということだ。ティディアは最後にニヤッと大きな笑みを見せつけ、それから上機嫌で紅茶を口に含む。と、
「ニトロ様に是非ステージで熱唱して欲しいものです」
「ンブッ」
 ヴィタの描いた光景を思わず克明に想像してしまい、無論ティディアにはそれを堪え切ることなどできはしなかった。
「ウゴホ! ゲホァ!」
 紅茶が見事に気管に入ってしまい激しく咽る王女を、されど意地でもカップの中身をこぼさないよう懸命に手を掲げて体をくの字に折り曲げる主人を、その女執事は助けもせず、ただひたすらにうっとりと見つめる。
「素敵です、ティディア様」
「やってくれるじゃない」
 何とか息を整えたティディアは、荒い息遣いでヴィタを見返した。
 それは、まさにライバルを睨み返す闘士の眼であった。
 ヴィタはその眼を真っ直ぐに受け止め、しかし、やおら小さく首を振って言った。
わたくしも不覚を取りましたから、自慢できることではありません」
「引き分けか……」
「引き分けです」
 ティディアは折り曲げていた体を起こし、一つ息をつく。ふいに勃発した戦いは終わった。ノーサイドを迎え、それでは感想戦とばかりに彼女は言った。
「王立放送局もやるものね」
「はい」
 ヴィタが真剣な顔でうなずく。
「『文芸祭レトワーザート・フェス』の主催者も苦笑いの模様です」
『文芸祭』とは、もう二千年近い歴史のあるアデムメデスの一大イベントだ。文学のみにとどまらず戯曲や演劇、また歌詞のある楽曲等あらゆる『言葉』に関係する芸術と、文学論や作家研究にとどまらず翻訳や批評、キャッチコピー等のあらゆる学術から文筆までをも扱う大きな祭典であり、特にここで発表される文学賞・脚本賞・作詞賞・論文賞等はアデムメデスで最大の権威を有している。そしてまた、ここには権威だけがあるのではなく、例えば多種多様な銀河の各星の言語に対しどのように翻訳することが良訳となりうるか、時に書物の行く末を決める批評はどうあるべきか等という実務的な方向性にも多大な影響力もある。そのため出版社をはじめ関連企業にとっても協賛するほかない事案であり、巨額の資金も集まる極上の蜜箱でもあった。
 今月頭から王立放送局で始まった子ども向け番組『面白文学史』は、名目上は“高尚”なだけではないアデムメデスの文学史を紹介するということで企画されていたようだが、しかしそこには――とりわけ今月のテーマには、虚実共に非常に大きな影響力を持つ文芸祭の、その『虚』ばかりがあまりに先行していないか? という強烈なあてつけが含まれていた。
 何しろ今年の文芸祭は中期の偉大なる女流作家シェルビー・ハーマンの『狼の乳、羊の牙』から上梓1千年目を記念し、同時に来年で生誕400年を迎えるアデマ・リーケインの功績を改めて検証していくというテーマを掲げている。リーケインの処女長編は『乳房』だった。そこに、文学史初期に大きな名を遺す戯曲家ルカドーの大迷作『乳房礼賛』を取り上げてくる根性。しかも子どもにも大ウケの見事な出来の風刺パロディである。
 これは、実に(製作者達は全くその気はなかっただろうが)『クレイジー・プリンセス』好みのことでもあった。
 今宵、ティディアは、謹慎中の第二王位継承者の名代として文芸祭前夜祭に出席する。
「乾杯の時に話に触れてみるのも面白いかもね」
 主人の言葉に、ヴィタはふと思いついたように、
「それとも、ティディア様にお電話をおかけしましょうか」
「それもいいわねー」
 紅茶を一すすり、銀河の五大基軸通貨の一つ『ゴット』を有するハイデルヤード連星れんぽうの動向を伝える文書を読み、それからティディアは言う。
「王女が流行に乗るのも小技になるわ」
 最近、世間では電話の着信音に『乳房礼賛』を設定するという罰ゲームが流行っている。
「では、そのように? ただ、自分から言っておきながら少々狙いすぎにも思いますが」
「んー、でもまあ一応仕込んでおいて。ノリ次第じゃ使えるだろうから」
 ヴィタは目礼し、早速作業を始めた。今は己の預かる主人の仕事用の携帯モバイルを操作し、問題の歌曲をダウンロードする。片手でできる簡単な仕事だ。ヴィタは鼻歌でも歌い出しそうな様子で紅茶を飲んでいる。その様子をどこか心ここにあらずの瞳で眺めていたティディアは、ふいにつぶやいた。
「――そうね。本気で検討してみようかしら、ニトロ、オンステージ」
「ゴッフォ!」
 自らが構築したイメージ映像が思わぬタイミングで跳ね返されてきて、ヴィタは再度紅茶を盛大に吹き出した。

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