11:09 ―中吉―
大幅に遅刻することになったものの、車両操縦に特化したオリジナルA.I.韋駄天の技により四時限目の始まる11:30には余裕を持って間に合ったハラキリは、もう昼時も間近になり、『ニトロ・ポルカト』目当ての人ごみもようやく薄れた正門に向かってデイバッグを背にのんびり歩いていた。
そう、ようやく薄れた――である。未だに門前にはいくらかの人が残っている。
(そんなに暇なんですかねぇ)
友人がちゃんと一時限目から登校していることは確認済みだ。それなのにここまで門前にたむろしているということは相当ミーハーであるのか、相応の『ニトロ・マニア』であるかのどちらかだろう。数人が『ハラキリ・ジジ』に気がついて声をかけてくる。ハラキリは足を速め、小さく会釈しながら人の間を縫って門内に入っていこうとし、
(おや)
意外にも門が閉め切られていることに気がついて減速し、2m丈の鉄柵門の前で止まった。授業時間中でも、西の校門と違って、来客や購買部に納品に来た業者などのために正門は完全には閉まっていないはずなのだが……
「生徒手帳を」
ハラキリに、門の向こうから警備員が声をかけてくる。彼は明らかにこちらが生徒であることを認識しながらもそう言っていた。その背後には、物陰から覗く形で警察車両が見える。
「何があったんですか?」
胸ポケットから生徒手帳を取り出し、警備員に渡す。彼は困った顔をするだけだった。非関係者の多いここでは応えられない、ということだろう。
「結構です。お通り下さい」
彼は横に向けて合図した。そちらには警備アンドロイドがいて、片手で軽々と重い門をスライドさせる。人一人分の隙間からハラキリは校内に入り込み、警備員から生徒手帳を受け取った。そして門に背を向けた時、彼にだけ聞こえる声で警備員が言った。
「――卒業生が、少々。あとは受付で聞いてください」
ハラキリはうなずいて礼を言い、正門の正面に建つ事務棟の玄関に向かった。ガラス戸を押し開き、中に入るとすぐ横に細長い小窓があって、そこには何やらぴりぴりとした様子で仕事をしている事務職員達が見える。
受付の窓口に立つ人影に気がつき慌ててやってきた中年男性が、強化プラスチック製の戸を引き開けた時、ちょうど『11:15』――三時限目終了のチャイムが鳴った。
「やあ、大遅刻だね」
見事なビール腹の男性は、相手が生徒で、それもハラキリであることを認めて笑顔を作った。顔見知りの職員に、ハラキリは軽く頭を垂れる。
「そのせいで何か見逃したようなんですが、何があったんですか?」
「ああ、君になら話してもいいね。それはね――」
事のあらましを聞き終ったハラキリは、第一教室棟に足を向けた。
なるほど、では、正門が閉め切ってあったのは侵入を防ぐためではなく、逃亡を防ぐためだったのか。
(今後また母校訪問に制限が増えるかな)
その他の色々な面倒ごとを考えながら、ハラキリは事務棟から第一教室棟に抜けていった。第一教室棟に入ってすぐに表れた階段は使わず――今その階段を上がれば三時限目のアデムメデス史の教師と鉢合わせしてしまうかもしない――そのまま長い廊下を歩いていく。第一教室棟の北には並行して建つ第二教室棟があり、それとの間にある『中庭』には授業を終えて休息に出た生徒がちらほら見えた。
(……面倒事の質によっては、ニトロ君が必要以上に嫌な思いをするかもしれませんね)
そう思ったところで、ハラキリは考えを改めた。
(いや、それはないか)
このデリケートな時期だ。きっと『彼女』が気を遣う。それを予測できず、今頃会議室で警察官をオーディエンスに不法侵入を企てた卒業生相手に大演説を振るっているであろう校長は、後日きっと己の思い違いに冷や汗をかくことになるだろう。――彼は、だからこそ彼女にとって非常に扱い易い道具でしかないのだが。
と、そこまで思ったところでハラキリはまた考えを改めた。
(いやいや、ニトロ君はどちらにしろ変に気を遣いますかね?)
お人好しの親友は、そういう人間だ。
(――ふむ)
必要ならフォローを入れておこう。
ハラキリが歩を進める第一教室棟一階には、主に二年生の教室が並んでいる。
廊下に出てきている生徒達が『ハラキリ・ジジ』を見て、ある者は態度を変えず、ある者は先輩に対して頭を下げ、ある者は『ニトロ・ポルカトの親友』へ好奇の目を向けてくる。
教室棟のちょうど半ばには、教室の切れ間といったような小さなスペースがあった。そこには非常階段への出入り口がある。ハラキリは厚い扉を開けて建物の外に張り出す踊り場に出た。棟の左右にある階段に比べて人がすれ違える程度の幅しかない螺旋階段をすいすいと三階まで上っていく。周囲を柵に囲まれた階段は日当たりがよく、次第に目線を上げていく景色もなかなか見ごたえがある。放課後などにはここで飲食を楽しむ生徒などもいる、隠れた名所だった。
非常階段から三階に入ったハラキリは、一階と同じく目の前に現れた小さなスペースに置かれているロッカーに立ち寄った。自分にあてがわれたロッカーを開き、デイバッグを押し入れ、代わって
教室に入ったハラキリは、数人のクラスメートに囲まれたニトロ・ポルカトの姿をすぐに認めた。
教室中頃の窓際の席にミーシャがいて、その隣にクレイグがいる。ミーシャの机に座る華奢で黒髪をロングにしているのはクオリアだ。クレイグの後ろの席には小太りでファッションメガネをかけたフルニエがいて、ミーシャの後ろの席に座るニトロの傍らには筋肉質で背の高いダレイがいた。
皆、ニトロ・ポルカトが『ティディアの恋人』となった以降、それでもニトロが気の置けない相手として付き合えている連中だった。
「今日はどうしたんだ?」
真っ先にハラキリに気がついたニトロが声をかけてくる。
「寝坊しました」
ハラキリはそう答え、皆の側に寄ってきたところでボードスクリーンのシステムを起動した。即座にこの教室のシステムを統括する管理コンピューターにアクセスして空席情報を得ようとすると、
「ここがあいてるぜ」
フルニエが椅子から立ち上がって言った。
「ありがとうございます」
ハラキリはフルニエと入れ替わって席に着いた。フルニエは椅子から今度は机に腰を下す。
「来るのが遅すぎたわね、ハラキリ」
と、クオリアが言った。ハラキリが目を向けると彼女はこけた頬に笑みを刻み、
「のん気に寝てないで二限から来ていれば良かったのに」
「またその話?」
ミーシャが眉間に皺を寄せて言った。ハラキリは静かに訊ねる。
「拙者は何か、見逃したようですね?」
クオリアはミーシャの非難の目を物ともせず、
「凄かったのよ? ミーシャとニトロのルカドー」
「ルカドー?」
ハラキリはオウム返しに言い、しかし相手の返答を待たず、にやりとして、
「今流行のあれですか?」
「そんなわけない!」
ミーシャが悲鳴じみた声を上げた。
「あんなの皆の前で歌えるわけないだろ!?」
「『おっぱいおっぱい 大好きおっぱい ひぃやっほう!』」
「くぉらフルニエ、セクハラだ!」
ミーシャの怒声に皆が笑う。
「クレイグ!?」
ミーシャの怒声に、やはり皆が笑う。
その歌は、大戯曲家ルカドーが遺した詩を元にして作られた歌だった。今月になって、その詩に曲をつけ、愉快なアニメーションをつけた作品が何と王立放送局の子ども番組で放送されたことで話題になり、一気に全地域で流行した。もちろんそれを不適切と非難する声もあったが、何しろ作詞が大古典時代の大戯曲家だ。番組も文学史を素材としたものであるため正当性もある。現在でもその番組は堂々と放映されており、その歌は子どもには大人気だし、ある程度年齢のいった者達の間では笑いのネタ、あるいは、いや、むしろ罰ゲームのネタとして大人気だった。
「冗談ですよ」
あまりからかってはミーシャの怒りが増してしまう。場を治めるためにハラキリはそう言って、ミーシャに目を向け、
「『魂の家』でしょう?」
「……性格悪い」
ミーシャに睨まれたハラキリは飄々として、
「それで?」
と、クオリアに目を向けた。
ケラケラと笑っていたクオリアは、頬杖を突いてむくれているミーシャを見て、それからニトロを見、
「文学部の一員としては、次の朗読会に是非参加して欲しいわ」
「またその話か?」
と、今度はニトロが言った。クオリアはうなずき、
「何度でもするわ。それくらい凄かったもの」
「ああ、確かに」
同意の声を上げたのは、腕を組んで立つダレイだった。口数の少ない彼の同意は、それだけに説得力がある。
「始めはさ、ニトロも普通に読んでたんだよ」
椅子に横座りするクレイグが、ハラキリに顔を向けながら説明した。
「だけど、途中から熱が入ってきてね。段々と本当の舞台の読み合わせみたいになっていってさ。こっちはもうただの授業の朗読でニトロもノリノリでよくやるなあって感心するばかりだった」
「いや待てクレイグ。あれはノリノリでやったんじゃなくて、皆が明らかに『その程度?』って顔をしてたからだ」
ニトロが口を挟んだ。
「俺は普通に読み通すつもりだったのに、クレイグなんてあからさまに残念そうな顔してたじゃないか」
「そりゃ、ニトロは舞台慣れしてるだろ?」
忌憚なく遠慮なく、クレイグは言う。ニトロは苦笑し、
「そしたら同じような顔をしてフルニエがメガネをくいってやりやがるんだ」
「あのままだったらまずブーイングしてたね」
フルニエが笑い、クオリアとクレイグも笑う。ダレイは微笑んで、ミーシャは頬杖をついてむくれている。ニトロは言った。
「助けはどこにもない。皆してそんな顔されたらこっちは『こんにゃろう』と思うさ。そしたら――」
と、そこでハラキリを見る。
「つい、ね」
「そうやってニトロが空気を読んだおかげでこっちは大変だった」
むくれた顔のままでミーシャが言った。
「そっちはいいよ? そういうの慣れてるし、漫才がらみでそういう特訓も受けてるんだろ? でもこっちは完璧素人だ」
「そんなことないよ。すごく良かった」
ふいにクレイグが言った。ミーシャの顔色がぱっと明るくなる。それをニトロは微笑ましく思いながら、好々と目を細めているハラキリを見て言う。
「そういうわけで。気がついたら、ワンシーンどころか一幕やり通させられてたよ」
「終わった時は大拍手だったんだよ!」
クオリアが身を乗り出し、目を輝かせた。
「先生も大拍手。実際、ミーシャの“棒”をもうちょっと直せばお金が取れるくらいだよ」
「ボーで悪かったな」
むくれるミーシャにクレイグが笑いかける。
「いや、あれは棒読みだからこそいいんだよ。だって自分の心を物扱いするヒロインだぜ?」
と、フルニエが言う。
「それは私の解釈と違うわ。そうありながらも心の神性を信じているのよ、彼女は。だからもっと隠れた温もりがないと」
クオリアが反論する。
「どちらもいいな」
と、ダレイが言った。それは低音の利いた一言で、やはり異様な説得力があり、自然とその場が治まった。もし、これでも治まっていなければ、その時はクレイグがなだめていたことだろう。それで追いつかなければニトロが取りなし、それでも駄目ならミーシャが話題をぶった切る。ハラキリは、よほどのことがない限りは見ているだけだ。
――そう、見ているだけ。
「……」
ニトロは、話題を軌道に乗せてからはただ大人しく話を聞いているだけの親友を見て、その猫の被り方に内心――もう何度目だろうか――苦笑していた。
今のやり取りの中、ニトロが知るハラキリ・ジジなら気の利いた皮肉を、あるいは皮肉に聞こえるフォローを一つ二つは入れていただろうに……
ふと、ハラキリがニトロを見た。
ニトロと目が合ったハラキリは、意図の読めない笑みを浮かべた。彼は言った。
「色々なものが、きっと君を助けますよ」
不思議な響きを持つ言葉だった。
「――例えば、芸か?」
ニトロは言ってみた。ハラキリは言葉を返さない。だが目を細めて意味を作る。
「もう助けてるだろ?」
呆れたようにそう言うのはフルニエだった。
「ニトロ・ザ・ツッコミ。いつだってニトロはツッコミ芸が命綱だ」
ニトロは苦笑した。皆は笑う。ハラキリは否定の色を浮かべず大人しく輪に溶け込んでいる。ニトロの苦笑は、いつしか笑いに変わり出していた。
「それじゃあもし食いっぱぐれそうになったら、それに縋って
ニトロが言った『冗談』に、皆はまた笑った。
静かに笑っているハラキリを目の片隅に、ニトロもまた皆の笑いに誘われて、とうとう声を上げて笑い出した。
授業開始のチャイムが鳴る。
慌ててめいめいが席に戻っていく。
それを眺め、前の席で何事か囁き合う恋人達を見、それから隣の席でこちらのことなど何でもなさそうな顔で授業の準備をする親友を一瞥し、ニトロは、息をついた。
――これが、例え『偽り』を重ねた上のことであったとしても。
「……」
ニトロは心底からの笑みが己の口元から決して消えないことを、確かに感じていた。