10:03 ―末吉―
午前中に予定されていたテレビ会議の一つを時間通りに終え、早速次の会議の資料に改めて目を通しているティディアへ、ヴィタが言った。
「つい先ほど『学校』でトラブルがありました」
「何?」
「卒業生が母校訪問を悪用しました」
「それで?」
「しかし現在は、あくまで『訪問』であり、不法侵入なんてことを試みたわけではない、訪問に関する規則はよく見ていなかった、懐かしい校舎を見てつい昔の通りに行動してしまった、そもそも『ニトロ・ポルカト』が今日登校しているとは限らなかったのだから計画を立てようもなかった――大体このように申し立てています」
ニトロの通う高校のセキュリティシステムは、常に王家のA.I.にもモニターされている。ティディアは、それがどんな小さなトラブルでも『彼』に関するものなら自分と彼のオリジナルA.I.に報告するようにと命じてあった。
彼女は鼻を鳴らし、
「それで?」
「相手が教え子ですから、対応に当たっている教員はなかなか強く出られないようです」
「それは無理もないけどねー」
そこで、ティディアは口を閉じた。ヴィタも側に控えたままでもう口を開かない。
「……」
ティディアは会議資料に目を通し終え、それと今朝入ってきたモッシェル銀河系の経済動向の新しいレポートとを脳裡で参照し合わせながら、
「誕生日のお祝いに、水を差されたくはないわねえ」
独り言のように言った王女に、執事は目礼だけを返した。
現在、『ニトロ・ポルカト』の周囲は非常に緊張している。誰が最も緊張しているかといえば、無敵の王女様に取り入りたい――そうでなくとも親しみあるお姫様のためになりたい、と思っている人間達だ。
ティディアには、特別彼女自身が何をしなくとも、勝手に彼女の顔色をあれこれと想像して動く、浮遊する透明な手足がうようよと存在するのである。
それは何も彼女だけに限らず、学校のクラスのリーダーから一国の主に至るまであらゆる権力者の周囲に自動的に発生するのであるが、今回のケースにおいて、その手足はまず不逞の輩を許しはすまい。例えその教師が情に流されたとしても、彼の上役は違う、自ら教育者たるものかくあるべしと泣いて“手本”を見せることだろう。あるいは、警備員から相談された警察はコンクリートを掘ってでも愚かな先輩達が後輩に“大きな危害を加えようとしていた可能性”を嗅ぎ当て、その骨を主人の前に差し出そうとするだろう。あたかもそれこそ『クレイジー・プリンセス』の指示と皆が思い、悪いことに彼にもそう疑われてしまうくらいに獰猛に働き、そうして、我こそが貴女の御心に忠実なのだと示してくるだろう。
なるほど、確かに私にはその馬鹿共を懲らしめたい気持ちが強くある。
何故なら、もし彼がこの一件を知れば――そして彼はきっと知っている――間違いなくため息をつくからだ。
ティディアは、しかし思う。
だとしても、それ以上に、私は、彼にこういう事でため息以上にも心苦しい思いをさせたくはない。
――浮遊する透明な手足達とは違って本物の鼻を持つ部下は、主人の心の在り処を周囲にそっと匂わせてくれることだろう。
(……本当に、『クレイジー・プリンセス』ともあろう者が丸くなっちゃったわねー)
そろそろテレビ会議が始まる。
大きな
10:20 ―吉―
思わぬ展開を見せたものの、大事な商談を無事に終え、大切な品物の入った大ぶりのブリーフケースを片手に地下駐車場へと向かう途中、ハラキリは大通りに面したバス停に並ぶ人々の中に見覚えのある顔を認めた。
先ほどまでハラキリの居た店でホール係をしていたサマナという女子大生が、バス待ちの列の中ごろで一人、表情をくるくる変えながら何やら喋っている。どうやら電話をしているらしい。
「――でも、今日は抜けられないの。実習なんだ、そう、その一コマだけはどうしても駄目なの」
歩く内、ハラキリの耳にも彼女の会話が届いてきた。彼女は一つの言葉に一つの表情といった様子で、よく通る声で、
「うん、――ああでも、どうしよう、再販も店頭限定なんでしょ?――やっぱりそうだよね、うん、分かった、終わったら急いで行ってみる。あー、売り切れてなければいいんだけど!」
(……ブランド品か何かですかね?)
通りかかるハラキリに彼女は気づかない。バスはまだかとばかりに右向こうの交差点を何度も見やっている。会話の内容から察するに今すぐバスが来たところでどうにかなることでもないと思うのだが、きっと行き場のない感情を態度で表さなければやり切れないのだろう。彼女が首を振る度にポニーテールが揺れ、最近『キモノ地』と呼ばれている布で作られたリボンがその度に一緒に揺れて鮮やかな色をひらめかせる。陽光の下に見ればその布地は朱と橙と白が複雑に散る柄で、光を受けるとしっとりと艶めく様はとても良くできているものだった。
「――ううん、教えてくれてよかったよ。全然気がつかなかった。ありがと…ううん、そんなことないよ、お仕事中にこうして教えてくれただけで大感謝だよ。……うん。ありがとう、お兄ちゃん。それじゃあお仕事頑張ってね――」
それ以上は、歩を緩めながらも止まらずに進んでいたハラキリの耳には形ある言葉としては聞こえなくなった。
(仲がよろしいんですねぇ)
そんなことを思いながら、目的の地下駐車場の入り口に辿り着く。足早に階段を降りていき、地下二階で重みのある扉を開いて駐車場内に入る。と、すぐ目の前のスペースに止まる車がポジションライトに火を入れた。ハラキリがその飛行車の運転席に乗り込むと同時、エンジンをスタートさせたオリジナルA.I.韋駄天が彼に語りかけてきた。
「無事ニ手ニ入ッタカ?」
「上々だ」
ハラキリはうなずき、ブリーフケースを静かに助手席に置く。
「掘り出し物だ。それに、随分安く手に入れることができた」
「ソレジャア、『本物』ダッタカ」
「それはまだ確認できてない」
「ナンダ、タダノ勘カ?」
「こういうことにおいては直感を信じることも大事だよ」
「ソレナラ直感ガ外レネエトイイナア」
韋駄天は笑いながら車を発進させた。
「マア、正否ハスグニ分カルカ。
ハラキリは苦笑を禁じ得なかった。今回、異星の音楽を収めたアナログレコード――と目されるものを手に入れるに当たって、撫子に検証プログラムを用意しておくように命じていたのだ。それを主となって手伝うのは、プログラム作製及びデータ分析に秀でた『
「ちょっと小遣いやらないと後で面倒かな?」
「モウ面倒ダロウヨ」
「覚悟しておくよ」
「面倒ツイデニ伝言ダ」
「誰から?」
「撫子。放課後迎エニ参リマスノデ、ドウカオ忘レニナリマセンヨウ――ダト」
「ああ、分かっているよ。そっちもちゃんと覚悟している」
ハラキリが堪らず苦笑いを浮かべると、韋駄天はからかうような笑い声を発した。そして地下駐車場出口に向かうルートを徐行し、先にいくワゴンの後ろに続きながら韋駄天は言う。
「待ッテイル間ニ思ッテタンダケドヨ」
「うん?」
「御母堂ノ趣味ニ付キ合ッテタダケノハズナノニ、イツノ間ニカオ前モ深入リシテルヨナ」
「……ああ」
そう言われると、何とも言い難い。確かに言われる通りだし、だからといって反論するつもりもなく……されど――
「まあ、楽しくなったんだろうな」
ぼんやりと、ハラキリは言った。
「
「それもあるけど、それを話すのが」
「――ナルホドナ」
韋駄天はスロープを登って地上に出ると、すぐに周囲の交通システムにアクセスして安全を確認し、その誘導に従って空へと車体を押し上げていった。
今まで目の前にいたワゴンが沈み込んでいくようにフロントガラスから消えていき、次第に緩やかなカーブを描いて伸びる道がやがて街角に消え行く先までを見晴らせるようになり、それも眼下に沈めながら雑居ビルの頂も越えていくと、朝から昼に架かる秋の色を背景に、遠くは黒点に、近くは色彩様々なドットとして、至近距離では車体に描かれた模様を誇示する特に運送に携わる飛行車でごった返す空へ出る。
「制服ハ後ロニアル。コッチモチャント行クンダロウ?」
ハラキリは後部座席にキチンと畳まれてある服とデイバッグを一瞥し、まだ韋駄天に命じていなかったことを思い出し、
「ああ、向かってくれ」
こういった場所では空中交通管制が空に厳密なる道を作って各車に通達している。命じられるや否や、韋駄天は目的地への道にゆっくりと向かい、やがて滑らかに赤いトラックの後ろに取り付いた。スピードを少しばかり上げたトラックの、その加速への反応が遅れた後続車が車間距離を詰めようとするより先に合流する、実に絶妙なタイミングだった。
時々刻々と変化する交通状況に随時対応する交通管制に応じるのみならず、己でも周囲の流れを常時計算し、韋駄天は着実に目的地への最短距離を得られるルートへ最短時間で移っていく。
混雑域から驚くほど順調に抜け出した韋駄天は、即座にスピードを法定速度限界まで上げていった。車の外には、空から見ても活気に溢れているジスカルラ中央市場一帯が広がっている。その光景を見下ろして、ハラキリは再びこの場所を訪れることを思うと、我知らず微笑んでいた。