「得意技や、そのレスラー独自の動きやパフォーマンス。でしたっけ」
「うん。フィニッシュ・ムーブとか、定番ムーブとかね。で、そのレスラーが定番のポーズを取る度に観客がお約束で叫ぶんだよ。計三回、ワンポーズにワンコール――ナイスバルク! デカいッ、キレてる! ナイス上腕二頭筋ッナァァァイス!――そして続けての豪快なラリアットで大盛り上がり」
「それはなかなか楽しそうですね」
「楽しかったよ」
 懐かしそうに笑いながらタンブラーに目を戻し、それからハラキリを見て、
「スポーツジムの中で売ってるドリンクは、どこにでもこんな感じなのかな。それともここが特別?」
「さあ、他にもこういう洒落を利かせている所もあるとは思いますが」
「洒落ってレベルかなぁ。『筋肥大』ってのはまあコンセプトが分かるからまだしも、『肉』ってのは間違いなくドリンクじゃないと思うよ? 初めはフードメニューとばかり思ってたよ? つか、フードにしたところで『肉』の一言ってのはなかなかないと思うよ?」
「本日の肉料理は『肉』でございます?」
「完ッ全にノーガードツッコミ待ちだよね」
 ニトロが笑って言うと、ハラキリも笑いながら、
「なら、調べてみます? 他ではどういうオリジナルドリンクが売られているか」
 その言葉は会話を続けるためだけの“その気のない”ものであったが、ニトロは愉快気に口の片端を持ち上げ、
「まさか、飲み歩きでとか言わないよな」
「そこのジムに“ビジター”があれば、ついでにトレーニングして、そうして飲んでもいいかもしれませんねぇ」
「そりゃえらい健康的な飲み歩きになりそうだ」
「何だったらハシゴもしましょうか」
「ジムのハシゴってのも聞いたことないなぁ」
 ふと、自分たちの談笑を耳にしてだろうカウンターのバリスタが満足そうにしている様子がニトロの視界に入り込んだ。その表情には含み笑いのようなものがあり、どうやらこれら一連の“(ともすれば悪ノリであることについては自覚的らしく、それぞれに振られた番号での注文も可能だという)凝ったドリンクネーム”にはこうして客の会話を弾ませる意図もあったらしい。まあ、もちろん、初見の客が、まさに自分が示したような反応をすることもきっと楽しいのだろうが。
 ニトロはまだちょっと力の入らない手で――これは相当酷い筋肉痛を覚悟しておかなければならない――タンブラーを持ち上げ、口をつけた。まずハインディナッツ特有の風味が鼻腔を抜けて、それを追いかけるようにして甘くとろりとした液体が喉を通り抜けていく。正直、ニトロは驚きを隠せなかった。『マッチョ・ド・ブラック』という響きからは想像もつかない繊細なバランス。吟味された素材の質の良さ、材料それぞれの味を相互に活かす分量も洗練されていて、
「ああ、こりゃすごく美味しい」
「それは良かった」
「こんなに美味しいとは思わなかった、次回は『ホワイト』を飲んでみるよ」
「ええ、いっそ五色とも制覇してください」
 笑いながらハラキリはモザイク模様のテーブルの一角に指を這わせる。するとテーブルの表面にメニュー表が現れ、と、そこで彼はニトロへ訊いた。
「胃の調子は?」
「まだ固形はきつい」
 言ってニトロはプロテインドリンクをゆっくりと飲む。ハラキリはふむとうなずいて、
「一応言っておきますが、運動後の栄養補給はそれこそトレーニングの一環として忘れずに行ってくださいね。トレーニング前・中の栄養素についてもあのメニューに書いた通りに、面倒臭がらずに」
「うん。面倒なんて思わないし、芍薬も手伝ってくれるからそこらへんは大丈夫」
「それなら安心。とはいえ、自分で色々用意する時間がない時や、気分を変えたい時にはここを使うのもありですよ、と。言えばトレーニング前にも、終了時間に合わせても作っておいてくれますし、テイクアウトも可能ですから」
「ああ、だからここに誘ったのか? それを“案内”してくれるために」
「それもありますが、今日もこれほど君が疲れていなければ拙者にビックリ眼を向けるだけでなく、きっと勢い店員さんにツッコんでいたと思うんですがねぇ、いや残念です」
 ハラキリらしい皮肉の風味を利かせて悪戯っぽく言われ、ニトロは思わず苦く笑う。
 確かに、もし元気な時にここに初めて来ていたらビックリした勢いで何か言ってしまっていたかもしれない。というか、実際、さっきも疲れた横隔膜が反射的に声を吐き出すのを許さなかっただけで胸には言葉が溢れていた。己を窮地に追い込みもしたこの『悪い癖』。それを、しかしそうやって気軽にからかわれっぱなしなのも癪に障るとニトロがハラキリへ軽く嫌味を返してやるべく口を開きかけた――ちょうどその時、
「お待たせいたしました」
 ハラキリの注文の品を携え、ウェイトレスがやってきた。カフェラテを注文客の前に置き、代わって空いたミックスジュースのコップをトレイに載せる。
 ニトロは口を閉じ、一連の作業が終わるのを見つめていた。
 大人しそうな風体のウェイトレスは一歩下がって丁寧に辞儀をする。そしてその去り際、そのほんの僅かな一瞬、彼女はニトロに対して個人的な好奇心を覗かせる視線を送った。だが、それも一息もつかぬ間に完全に消し去ると、彼女は足音も軽くカウンターへと向かっていった。
「……」
 このジムのどこででもそうだったが、有名人も使うことの多いここで働く人間にはそれ相応のコンプライアンスが徹底的に備わっているらしい。設備の充実度については言うまでもなく、標準よりずっと高い会費がむしろ安いと思われるほどのサービスも、ホスピタリティも行き届いている。ハラキリが口にした“ビジター”……当日限りの利用者制度もなく、通常は一日体験制度もない(指定された『体験日』のみ予約可能である)ため素性の知れない人間が入り込むこともない。ハラキリがここを勧めた理由が実感を伴って良く解るというものだ。
 ニトロはタンブラーの中身を飲み干し、
「――今日は、ありがとう。昨日の今日で付き合ってくれて」
「いえいえ、今日は暇でしたから」
 言って、カフェラテを飲むハラキリの口元は隠れて見えない。
「それからまあ、先ほどはああは言いましたが、例のトレーニングメニューは無理なくできるように作ってありますので、ニトロ君も今後は真剣に全力で疲れながらも決して無理だけはしないで下さいね。君の現状と、その目的からして、もしかしたら君は様々な力を“早く身につけたい”と焦ってしまうこともあるかもしれません。もちろん時には練習量を増やすのもいいでしょう、たまには倒れこむまでやるのもいいでしょう。しかし無理を続けて体を壊せば本末転倒ですし、トレーニングの効果も薄れてしまいます。そしてもしそうなれば、君を殺すのは、他の誰でもない『ニトロ・ポルカト』ということにもなり得ます」
「うん、そこは気をつける。芍薬にも俺がそうならないよう監督してもらうけど、ハラキリも『抜き打ちチェック』の時に気がついたら遠慮なく叱ってくれ」
「承りましょう」
 ニトロは目元だけを緩ませ――話しているうちに胃も元気になってきたし、実は先ほど親友の飲んでいたジュースが気になってしょうがなかった――テーブルにメニュー表を呼び出して追加注文する。
「ところでさ」
 メニュー表を閉じながらのニトロの問いかけに、
「はあ」
 ハラキリは気のない生返事をする。が、気のない生返事とはいえ、それが本当に“気のない”ものではないことをニトロは知っている。
「あのマドネルさん、本当に“無勝のMAマーシャル・アートファイター”だったの?」
「本人の言ったとおりですよ。0勝5敗で、そのまま引退。ですが――」
 ハラキリは、ニトロの疑問の底を汲んで応える。マドネルさんことドルドンド・マドネルは、ニトロのマーシャル・アーツ・トレーニングのサポートを担当するトレーナーだ。ニトロの言う通り元プロのMAファイターであり、
「恐ろしく本番に弱いタイプ、というんでしょうかね。所属ジム内での練習では一階級上の中央大陸チャンピオンとも良い勝負ができるくらいの実力を発揮するのに、リングに上がるとてんでダメだったそうです」
「そうなんだ――って、チャンピオンといい勝負って、物凄く強いじゃないか」
「身をもって体験したでしょう?」
 それが聞きたかったのだろう? と、にやりとハラキリは笑う。ニトロもつられて笑ったが、その笑みは歪んでいた。
「どうりで……ああ、なるほど、どうりで……」
 本日最後のトレーニングとして行ったスパーリングにおいて、凄まじいスピードでフットワークを刻み、にこにこと微笑み手加減しながらも、ていうか本当に手加減してやがんのかと怒鳴りたくなるほど目にも止まらぬ速度でパンチ・キックを繰り出してきた身長187cm・体重120kg・体脂肪率10%の巨漢。体格にも恵まれ、縦も横も奥行きも分厚い――そんな人が勝てなかったとはプロとはどんな恐ろしい人種なのかと思っていたが、それを聞いて妙な安心感を得てしまう。
 ニトロが半ば呆然としていると、先のウェイトレスがミックスジュースを持ってきた。そして先ほどと同じく――ただ今度はニトロに全く好奇心の目を向けず――空のタンブラーを下げ、カウンター内に戻る途中新しくテーブルに着いた三人連れの客に呼ばれてそちらへ足を向ける。どうやらそちらも初利用の客らしい。やり手のサラリーマンといった風情の青年が、メニューについて笑いながらウェイトレスに問いかける。ウェイトレスは客の笑みを写したような笑顔で説明をしていた。
「本人も苦しんだようですが、加えて当時のチームメイトが心底不思議がって、また腹立たしく思っていたそうでしてね。それで段々と居辛くなって、元々ボディビルにも興味があったため、ツテを頼ってこのジムにやってきたそうです。初めは格闘技からはさっぱり離れるつもりだったそうですが、指導する方には才能があったんでしょうねえ、今じゃ朗らかな性格もあって一番人気のトレーナーですよ」
「へえ、苦労人なんだね」
 ジュースのストローを触りながら、ニトロはふと気づき、
「元々ボディビルに興味があったってことは、その頃からあんなにマッチョ?」
「現役時はライトヘビー級で、体重制限もありますから今ほどではないです。とはいえマッチョと言うなら当時でも十分“マッチョ”でしたけどね。名前で検索すれば写真も試合映像も出てきますよ」
「そっか……」
「ちなみに当時は“ダフ・シャーク”にしていました、ミスター・マドネル」
「マジで!?」
 ダフ・シャークとは細かく三つ編みにした髪の一束一束を黒と金に交互に染め分けるヘアスタイルのことだ。初めは“キラービー”と言われていたらしいが、三十年ほど前に大ヒットしたアウトロードラマの主人公の髪型に採用されて以来、その主人公の名で定着している。
「眉毛も剃り落として今とは完全に別人です。一見の価値有りですよ」
「へえぇ……そうなんだ……」
 こげ茶色の髪を爽やかなスポーツ刈りにした現在のマドネルから過去の姿を想像しつつ、ミックスジュースに口をつけようとして、ふと、ニトロは気になった。
「あのトレーニングメニューをしっかりこなしていったら、ひょっとして俺もあんなマッチョになるの?」
 カフェラテを口に含もうとしていたハラキリは、一瞬、何を思い出したのか激しく噴き出しそうになり、しかしそれを何とか堪えて笑って言った。
「そんなことはありません。持久力重視で組んでいますし、特別筋肉を大きくする意図もありませんから……そうですね、外見を形容するなら『ごつい』や『筋骨隆々』ではなく『引き締まった』というタイプで――」
 と、ハラキリの顔に悪戯心が浮かび、それを目にした瞬間、ニトロの脳裡には一つのセリフが閃いた。ハラキリがその言葉を言わんとする最中、一方ニトロの喉の底には自動的にそのツッコミが装填される。
 そしてハラキリが、口火を切った。
「きっと『たくましくなって』と彼女もょ「下がるわモチベーション!」
 思わぬほど速くニトロに迎撃されたハラキリは目を丸くする。ハラキリを驚かせたニトロは得意気に笑む。それを見てハラキリは目尻を下げ、
「ならば、どちらにしろ君は彼女を喜ばせることになるわけですねえ。上がろうが下がろうが、そのモチベーションに関わらず」
「――う」
 会心の打ち返しをあっさり切り落とされたニトロは、抵抗を試みようとして言葉を探すも結局言うべきことを見つけられず、得意気に口角を持ち上げるハラキリから渋々と逃れるように顔をそむけてミックスジュースをストローで吸い上げる。
 それはとても甘く、実に美味しかった。
「……」
 そして、それはとても甘く、実に美味しいのに……何故だか色止めのレモンの酸味が、それはほんの少しだけ入っているはずなのに、それなのに、やけに酸っぱく感じられてならなかった。
「また『冷たい』ぞ、ハラキリ」
 せめてもの、負け惜しみ。
「これが予言にならないよう祈っていますよ」
「……そのフォローは『善処』の結果?」
「いかがでしょうか」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 ラウンジカフェに聞こえる数組の客の会話。
 カウンターからまるで何かの楽器のように聞こえてくる食器の触れ合う音。
 それからヒーリングミュージックを背景に、今は加えて『クレイジー・プリンセスをグーで殴った少年』へのかすかな細波のような注意も身に浴びながら、ニトロはミックスジュースを飲む。ハラキリはカフェラテを飲む。
 互いに言葉を止めた、その隙間。
 何を思ったのかハラキリがぼそりと言った。
「……『キレてます』」
 それはあまりにも不意打ちで、ニトロは鼻からミックスジュースを盛大に噴き出した。

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