後日談

 トレーニングを始めてからそろそろ二ヶ月。
 ニトロはウェイトトレーニングの正確なやり方フォームを身につけ、狙った筋肉に的確な負荷をかけられるようになった。ストレッチで体を柔軟にし、水泳や低酸素マスクをつけたジョギングを続けることでスタミナもついてきた。マドネルとのスパーリングにもやっと慣れ、最近ではパンチを“計画的に避ける”ことも――二十回に一回くらいは――できるようになってきた。初めの頃はトレーニングを終える度に歩くのも億劫なほど疲労困憊となり、時に吐き気に襲われることもあったが、今となってはそのようなこともない。トレーニング後にはいつも心地良い達成感と疲労感に包まれてシャワーを浴びることができるようになっていた。
 そのため、そもそも『危機感』から始めたこのトレーニングに対して、いつからかニトロは元々の目的に対するものとは別の充実感を感じ始めていた。
『運動不足の高校生』であった以前からは考えられないその感覚。これこそ運動の楽しさというものだろうか。それとも体を鍛えることの喜びというものだろうか。
 ニトロがそのような感傷を覚え出したちょうどその頃、
「ポルカトさん、良いマッスルになってきましたね」
 ある日、スパーリングを終えた後、ニトロはマドネルにそう誉められた。
 マドネルは誉めて伸ばすタイプであるので、格闘術の上達――例えばミット打ちの時などにニトロは彼に何度も誉められてきた。だが、マドネルがこうして肉体について誉めたのは、初めてである。記憶にある限り、彼が他のトレーニーに対して肉体について世辞は言っても誉めている光景も見た覚えがない。
「そうですか?」
 少し驚きながらニトロが問うと、ナチュラル・ボディビルディングをこよなく愛する元プロMAファイターは白い歯を見せ、
「ええ、貴方が実に真摯に、そして真剣に励んでいることが伝わってきます。癖のない体型だからこそでしょうか、形もいい、バランスもいい。どうです、いっそ今後はビルダーも目指してみませんか。マッスル、どでかく鍛えませんか」
 大胸筋をぴくぴくさせながら――最近分かったことだが、半分冗談、半分本気の言葉を口にするときのマドネルの癖だ――言われたニトロは、半分喜びに笑み、半分気持ちを引いた空笑みを頬に刻み、
「いえ、せっかくですがそれは『メニュー』外ですから」
 コンテストが近いため体脂肪率4%まで絞られたことでより迫力を増したマドネルは、そこで大胸筋の動きをぴたりと止めた。とはいえ顔には失望はない。彼は納得を頬に刻み、
「あのプログラムは良くできている。それならばそれがいいでしょう。マッスルは生涯のパートナーですから、この調子で大事にしてやってください。ただ、もっと素敵に育ててあげたくなったらいつでも相談に乗りますので」
 と、未練なく誘いを打ち切った。『王女の恋人』に対しても媚びず、こだわらず、他の客に対するものと変わりない朗らかさを見せる(かつ誉めて育てるタイプとはいえ練習中は何気に容赦のない)このトレーナーを、ニトロは信頼していた。
 そして、その夜のことである。
「……」
 洗面台で歯を磨いている時、ニトロはふと目の前の鏡を意識した。
 そこに映るのは、無論、ニトロ・ポルカト。
 己の鏡像などいつも目にしながらも特に“意識”することはなかったが、今夜は違う。
「……」
 マドネルに誉められた、筋肉。
「……」
 実際、ニトロ自身、例の“充実感”と共に、己の体の変化を意識しないでもなかった。
 間違いなく人生で最も多く運動量を積んできたこの二ヶ月。暇さえあればジムに通い、ジムにいけない時も自宅でできることを行ってきた。栄養補給も的確に、研究熱心かつ優秀な芍薬のサポートもあって一流アスリートもかくやという充実したトレーニング環境。体が変化しないわけがない。それもおそらく可能な限り効率的に、速やかに、堅実に、一朝一夕では衰えぬ基礎を固めて。しかし、ジムでトレーニングをする彼の周囲には常に非常に鍛えられた人々がいる。マドネルはもちろん、以前見たフォラバッヂのようなアスリートと比べるのはおこがましいことだと分かっていても、それでも比べてみれば己の肉体はまだ緩い、緩すぎると言ってもいい。……だから自身の体の変化を意識しないでもなかったとはいえ、ニトロの認識はどこまでも『段々引き締まってきたな』という程度に留まっていたのである。わけても『いい筋肉がついてきた』などとは思ったこともなかった。
「……」
 ニトロは歯を磨き終え、うがいをした後も鏡の前に立ち続けていた。
「……」
 Tシャツの袖を肩までまくり上げ、おもむろに両腕の力こぶを作ってみる。
「……」
 それは、確かに『力こぶ』であった。
「ぉぉ」
 小さく、ニトロは感嘆の声を上げる。
 以前には力こぶを作ってみたところで、それは“こぶ”と言うよりも単に“ふくらみ”というものだった。押せばなるほどそれなりに固い塊が皮下にあるものの、どれだけ力を込めても上腕は全体的になだらかであって、何となく凹凸はありながら、しかしどこから二頭筋でどこから三頭筋かはよく分からない。
 だが、現在は違う。
 ここには間違いなく“こぶ”がある。上腕には薄っすらと筋肉のれがある。ここからここまでが二頭筋だと分かる境界線が。
「おおお」
 ニトロは、嘆息をついた。
 そしてTシャツを脱ぎ捨てる。
 彼は改めてポーズを取った。
 例の筋肉自慢のプロレスラーが決めていたあのポーズ……鏡に対して横を向き、体の脇で左肘をおよそ直角に曲げてその手首を右手で握り、前面へぐっと大胸筋を張りながら肩から脚にかけるラインを通して側面からの肉の厚みを強調する――サイドチェスト!
 ニトロの意識は鏡の中の自分を超えて、思い出の中へと飛んでいた。
 プロレス好きだった友人。
 しばらく前に中央大陸西岸部へ引っ越していった彼と、例のプロレスラーのポーズを真似し合ったことがある。体格の良かった友人はなかなか様になっていたが、反面自分は形ばかりをなぞるだけ。しかし、当時に比べれば自分も格好付けられるくらいにはなっている。
 今度は体を前傾に、握りこんだ両拳を鳩尾の前、そうして首から肩、肩から腕と上半身の筋肉を強調する――モスト・マスキュラー!
 友人は、そのレスラーが大好きだった。
 フィニッシュ・ムーブは膨れ上がった上腕二頭筋で顎をかち上げるラリアット。
 定番ムーブは相手が倒れている間に行う三つのポージング。
 ポージングからフィニッシュ・ムーブにつなげることが最も華やかではあるが、そのレスラーは大抵失敗するのだ。もちろんポージングをしている間に相手が回復するからである。立ち上がった相手に手酷く迎撃されたり、ラリアットをかわされて派手に反撃を食らったり……そういう時に観客が大きなため息をつくのも半ばお約束だったけれど、やっぱり一連のムーブが決まった時の爽快感は格別だった。
 数年前のことなのに、今もまだ昨日のことのように語られる伝説がある。
 そのレスラーは、チャンピオンベルトには縁が薄かった。
 タッグチームチャンピオンの経験はあったが、シングルでは無冠であった。
 実力は認められていた。しかし実力を認められながらもファンの人気の勝る花形レスラー、不人気極まる(逆に言えば大人気の)絶対的なヒールレスラー、あるいは売り出しが成功した次世代エースと目される新人にトップの座を取られ続けていた。たまにタイトルマッチに挑むこともあったが、善戦止まり、あるいは引き立て役……実力があるからこそ、また少しコミカルに味付けされたキャラクター性もあって、それが完全に彼の定位置となってしまっていた。
 しかしある時、流れが変わった。
 それは強者乱立の際に訪れる、まるで誰かの悪戯のような、潮目とでも言うべき瞬間であった。
 当時チャンピオンであったのは、怪我のための長期休業からカムバックしてきたAPWアデムメデス・プロ・レスリングのレジェンドレスラー。花形レスラーも悪役ヒールも次世代のエースも敗れ、そして彼にチャンスが回ってきた。それは興行側からすれば花形レスラーのリベンジまでの繋ぎだったのかもしれない。しかし単なる“噛ませ”では盛り下がる。ならばそれなりの実力者を噛ませておこう……その思惑は、決戦までの道程に組まれたチャンピオンとの抗争において、至宝ベルト奪取へ向けて並々ならぬ闘志を滾らせるそのレスラーのファイトが観客の心を掴んだことで、予断を許さぬものへと変わった。レジェンドも同じくパワーファイター。タイトルマッチは両者のスタイルも噛み合い、ファンの期待に応える壮絶な死闘となった。
 友人の大好きなプロレスラーは、激闘の最中、肋骨を折り、自慢の上腕二頭筋を不全断裂したばかりか古傷の頚椎をも痛め、満身創痍になりながらも、いや、満身創痍であるからこそ生涯最高のムーブを決めた。汗に輝く雄々しいポージング、5万を超える観客が一体となって彼に声をかける、体ごとぶつかっていくようなラリアット、爆発音そのもののような歓声に会場が震える。カウントが入る。チャンピオンは動かない、観客の唱和と共にカウントが一つ、二つ、しかしチャンピオンは動けない。
 悲願達成の瞬間だった。
 ゴングが激しく打ち鳴らされる。
 一緒にテレビ観戦していた友人は始終興奮して大声を上げ、最後には涙を流して手を打ち鳴らしていた。その時の興奮を今もニトロは忘れていない。本当に素晴らしかった。
 それから三ヵ月後ことだった。あのプロレスラーは、リングを去った。表向きには首の怪我を理由にしていた。無論それは偽りない理由ではあったが、後に聞こえた話によると、急死した父の事業……息子がプロレスラーになることを反対していた父がプロスポーツ選手の第二の人生をバックアップするために始めた遺業を、自ら引き継ぐためであったという。
 そして友人とは、彼が引っ越した後には当然のように疎遠になってしまい、彼は『ニトロ・ポルカト』が有名になった際にメールをくれて、事情はともかく久しぶりの交流が嬉しくてすぐに返信もしたが、結局また疎遠となった。
 ――さあ!
 最後の三つ目のポーズは、両腕に、あの頃の自分にはなかった『力こぶ』を作り、リングを囲むオーディエンスへ大いに誇って魅せる――ダブル・バイセップス!
「フンッ」
 鼻息も荒く渾身の力でマッスルを盛り上げる!
 その時だった。
「ナイスバルク!」
 突然、声が上がった。
 鏡の前で己がマッスルを誇示するニトロを讃える声が。
 そして、その掛け声が、彼を一気に思い出の中から現実へと引き戻す!
「ンフィッ!?」
 ハッとすると同時に全身に込めた力が甲高い音を立てて鼻から抜ける。
 彼は慌ててポーズを解いた。
 我に返ると恥ずかしさが急速にこみ上げてくる。
 掛け声の主、芍薬のその声音は、とても明るかった。マスターが喜ぶと、楽しむと、それを我が事のように喜び楽しむ芍薬である。きっとマスターが己の筋肉の付きっぷりに満足し、ご満悦である、心底からそれを楽しんでいると思ったのだろう。いや、確かに楽しんでいたことは否定しない。否定しないが、
「――ッ違う!」
 ニトロは思わず大声を上げた。本当に楽しんでいたのは思い出との戯れなのだ。断じてマッスルに愉悦していたわけではないのだ。Tシャツを着るのも忘れ、顔どころか胸元まで真っ赤にし、オリジナルA.I.のカメラに向けて彼はぶんぶんと手を振り、
「違うよ芍薬! これは筋肉に惚れ惚れしてたんじゃなくて筋肉で懐かしんでたんだ!」
 即座に我ながら阿呆なことを言ったと理解したニトロは、芍薬が「エ?」と聞き返す暇もあらばこそ、わたわたと手のみならず腕まで振りながら叫ぶ。
「あああ、違う! そうじゃなくって、えっとね! 誤解しないで聞いてね!? 問題は、マッスルなんだ!」
 正直パニックに陥ったニトロが誤解なく芍薬に意図を伝えられたのは、それから十五分後も経ってのこと。それも彼の説明が何とか整頓されたためではなく、しっちゃかめっちゃかな彼の言動から何とか要点を拾い上げて主張を理解した芍薬の努力の賜物だった。

 後にはニトロと芍薬の間で笑い話になる出来事ではあったものの、その夜、ニトロがベッドの中でひどく身悶えたことは――言うまでもない。

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