ニトロ、そして鍛える

(第二部『幕間話』の翌日)

 深夜も近くなると、仕事帰りの運動を楽しむ人間もほとんどいなくなり、人気の高級スポーツジムにも閑散とした空気が訪れる。
 ラウンジカフェには運動後の休息を楽しむ数組の客の会話がある。カウンターから聞こえてくる食器を扱う音、それからヒーリングミュージックを背景に、ハラキリはフレッシュフルーツのミックスジュースを飲み、一つ息をついた。
「体力測定程度でそこまでバテていてはこの先が思いやられますよ、ニトロ君」
 ジュースをストローで吸い上げるハラキリの面前、木とガラスをモザイク状に組んだテーブルに突っ伏すニトロは動かない。相槌の代わりか、あるいは「『体力測定』っつうレベルかあれが! いや、実際“測定”にゃ違いないんだけれども! あと最後のスパーリングが追い打ちってーかトドメだったよね!」という抗議の代わりか、彼は重苦しいうめき声を一筋上げることがやっとのようだった。その体はちょっとばかりぷるぷる震えている。怒りのためではない。柔軟性をチェックし、各種筋肉の最大筋力を全身くまなく計測し、様々な計器を装着しての心肺機能検査を行い、それからみっちり護身術のための復習れんしゅうをした後にマーシャル・アーツ・トレーナーとの(トレーナーに彼の現在の実力を確認してもらうための)スパーリングまで行った結果、つまり疲労困憊極まり彼の全身の筋肉までもがうめき声を上げているのだ。
 だが、それに対してハラキリは耳を貸さぬように、
「一応初回ですからそこまで疲れてしまうのも、回復にそこまで時間がかかるのも無理はないとも思いますが、しかし“状況”によっては致命的です。今日の無様を念頭に置いて、まずはしっかりスタミナをつけて下さいね」
「そんな釘、刺され、なくても……」
 先のうめき声をそのまま言葉に変えて、ニトロが言う。
「『危機感』っていう、ぶっとい釘が既に刺さってる――ッうぶ」
「迷惑ですから吐くならトイレで」
「――……ッ……」
 吐き気を喉の底で何とか押さえつけ、ニトロは顔を上げた。その顔色は白い。目はどんよりと曇り、というか沼地の奥底から覗き込むようにしてハラキリをめつけ、
「今のは、いくらなんでも冷たいんじゃないかな」
 するとハラキリは戸惑ったように小首を傾げ、
「ここに来る前、生き生きとして『厳しくてもいい、むしろ望むところだ』と、君は言っていたはずですが」
「だからって言い方ってものがあるだろう? それに『厳しい』と『冷たい』は、全く違うと思う」
「……ふむ」
 ハラキリはジュースをまた一口飲み、そうして、少し顔を上向けた。
「まあ、それは一理」
「だろ?」
 ハラキリの納得を引き出したニトロは、少し嬉しげに言う。ハラキリは上向けていた顔を戻し、うなずく代わりに肩を小さくすくめて見せる。
 と、その時、受付フロントにロッカーキーを返していた女性客がハラキリの背後を通り過ぎていった。彼女はそのままカウンター席に着くと、肩にかけていたスポーツバッグを下し、心地良い疲労の息をつきながら、
「いつもの」
「かしこまりました」
 見た目は細いものの、黒いベストと薄いワイシャツの下から見事な肩の筋肉を透かし見せている金髪碧眼のバリスタが頭を下げ、明らかに常連であろう女性に軽くウィンクをする。女性は見るからに張りのあるヒップを丸いカウンターチェアの上に乗せた。彼女の褐色の首筋には長い白髪が伝い落ち、薄いピンクのタンクトップからすらりと抜き出たその長い両腕は、ラウンジを明るく照らす白光を受けて大理石の彫刻のように艶めいている。
「……あれって」
 ニトロは女性の均整の取れた逆三角形を見つめながら、つぶやいた。ニトロだけでなく他の客達も会話の口を止め、ドリンクを作るバリスタと談笑するカウンター席の女性に注目している。
「この間の試合は見事でしたね」
 小さな、ニトロにだけ聴こえる小さな声でハラキリが言った。ニトロは「やっぱり」と、もう一度女性を見る。先頃行われたオールドスタイル・テニスの中央大陸大会、その頂点に立ったアツェンダ・フォラバッヂだ。ニトロも声を潜め、
「なんて言うか……オーラが違うね」
 食材を抱えてバックヤードから現れたウェイトレスが、自信に満ちた笑顔を作るフォラバッヂへ祝いの言葉をかけている。その光景を丸い目で見つめるニトロの姿に、ハラキリは苦笑にも似た笑みを浮かべ、
「彼女、ニトロ君のすぐ横でバーベル上げていましたよ?」
「マジでッ?」
 思わず声を高め、ニトロはますます目を丸くする。ハラキリは愉快そうに、
「君がベンチプレスで45kgを持ち上げられるかどうかというところで悲鳴を上げている時、彼女は50で軽い運動をしていました」
「……軽い運動?」
「今日は少し体を動かしに来た、という感じでしたから」
「……アスリート、かあ……」
「まあ重量に関しては初心者と経験者の違いもありますけれどね。それに、君も“アスリートたれ”とは言いませんが、きっと良い刺激になりますよ。このジムは、彼女のような方々が他にも多く使っていますから」
「いや……それは確かに聞いていたけれど……」
「――ひょっとして、気後れしていますか?」
「場違いじゃないか? 俺」
「君は正規の会員です。場違いも何もありません」
「……そりゃまあ、道理か」
「道理です」
 うなずき、ハラキリはストローをくわえた。コップの中で水位を下げていく液面を、何気なくニトロはじっと見つめる。ちょうどジュースが飲み切られ、ストローがコップの底でズゴゴと音を立てた。ハラキリはストローから口を離すと、思い出したように、
「先ほどのお話については、善処することにしましょう」
「さっき?――ああ、厳しい・冷たいか」
「ええ。しかし、こちらもまだ色々と不慣れなのでそこらへんはご容赦を」
「? 何が不慣れ?」
「色々と」
 そこで少し言葉を切り、それからハラキリは続けて、
「例えば、初めてのスポーツジムで挙動不審に右往左往していた友人の付き添いを務めたことなどこちらとしても初めてのことで、そのため不慣れも乗じて至らないところが多々あったように思います。ジムに“友達紹介”をした手前もありますし、初日くらいは付き合おうと思ってのことでしたが……いやあ、それでもこちらとしてはなかなか面白くはありましたけれどね?」
 その言葉の遠回しに示唆するものを悟ったニトロは口の片端を引きつらせ、
「そういうところには、もう触れないのが優しさじゃないかな?」
「例えば、誤って女子トイレに入ってしまったことなど?」
「“など”じゃなくてそのものズバリだチクショウ!」
「誰も入っていなくて良かった」
「本当に誰もいなくて良かったよ! てか見てたんだから止めろよな! あん時こっちは走り疲れてふらふらだったんだぞ!」
「止める間もなくふらふらと入っちゃったじゃないですか。すぐに出てこなかったらどうしようかと思いました」
「出てこなかったら放置しておくつもりだったのかッ」
「だって拙者まで変態にされてしまうじゃないですか」
「じゃないですか、ってお前、そんじゃあ友達が変態にされてしまうのはいいのか!」
「真っ赤な顔して飛び出してきた君を見れば誰だって『ああ、うっかり間違えたんだな』と思いますよ。しかし拙者じゃそうはいかない。だから」
「いやだからっ、って……」
 ニトロは歯噛み、そして、ふと視線を感じた。ラウンジカフェにいる客達が――フォラバッヂまでがこちらに視線を寄越している。ニトロは頬が赤くなるのを自覚して、黙った。すると思わず声を荒げていた少年のその様子に――当の少年が『ニトロ・ポルカト』だと気がついた気配と共に――カフェにはどこか微笑ましい空気が溢れた。
 ニトロが勢いをなくして縮こまるところへ、ハラキリが飄々として言う。
「そろそろ元気になってきたようですが。
 飲まないんですか? ぬるくなりますよ? それに、できれば早めに飲んだほうがいい。『ゴールデンタイム』のことはお渡ししたメニューにも書いてあったでしょう?」
 この展開に誘導したくせに抜け抜けと言うハラキリを再び睨めつけ、……と、ニトロはそこでふと勘付いた。
(――不慣れ、か)
 急にハラキリがこちらの失敗談を取り出してきたことは、話の流れから不自然とまでは言えないまでも、しかし直前のトーンからすれば急展開に過ぎたように思える。もしかしたら、あれは、ハラキリが『色々』に対してツッコまれることへ“煙幕”を張ってきたことに他ならないのではないだろうか。
 とすれば、彼は一体何を煙に巻きたかったのだろう。
 ……あるいは、あの『色々』の中には、それこそハラキリの本心が込められていたのではないか。そしてそれが何かと考えてみれば『友人の付き添いを務めたことなどこちらとしても初めてのことで』というセリフに急所が現れていたように思えてならない。友人、初めて、不慣れ……並べて考えてみれば……つまり我が戦友にして親友であるハラキリ・ジジは、こうして仕事外プライベートでトレーニングを助ける等“親しい友人との付き合い方”に対して試行錯誤の段階。右往左往とまではいかないまでも、もしかしたら、これまでの彼の人生の中でも大きな戸惑いを感じている……ということにもならないだろうか。
 もし、そうだったとしたならば――
 ニトロには、ハラキリの態度が、特に先の『冷たさ』が急に微笑ましく思えてならなくなった。同時にそれがまた、彼の心に奇妙なくすぐったさを感じさせてならなかった。
「どうしました?」
 ハラキリが眉根を寄せて問うてくる。
 顔に出ていたらしいとニトロは気づき、しかし慌てることなく手前にあるタンブラーに目を走らせ、
「『プロテインキング&マッチョ・ド・ブラック』――って名前は、やっぱり初見の人間にはビックリだよ」
 ハラキリは、ニトロが内心と言葉を一致させていないことを察していたが、そちらに踏み込むことはせず、
「次は『マッシヴ・マッスル・ハイアングル』にします? 『ビンビンスリム』や『ナイスバルク』も美味しいですよ」
 ニトロはクリスタル製のタンブラーを黒く満たしている『プロテインキング&マッチョ・ド・ブラック』……ようはこのスポーツジム謹製の最高級プロテインを、ンモッタという東大陸原産のフルーツ――見た目は深緑色の産毛を持つ拳大の玉で、固い皮に守られた果肉は墨のように黒く、食感はなめらかにねっとりとして、味は甘いミルクに似る――と、濃いめに抽出したアイスコーヒーにハインディナッツという黒い木の実のペーストとをカクテルしたものを眺め、それからカウンターの上にあるメニュー表を見て、
「どれもこれも説明を聞かないと何が何やら。『キレてます!』に至っちゃ完全にセリフじゃないか」
「その『キレ』ってもちろん味のキレを言っているわけじゃないですよ? いや、味にもキレはあるんですが」
「知ってる。筋肉のれを讃える言葉だろ?」
「おや、よくご存知で。というか、そういえばニトロ君ってこういう……言っちゃなんですが変なところでやけに博識な時ありますよね」
 変な上に胡散臭い知識のありまくるハラキリにそう言われては苦笑するしかない。ニトロは頭を掻きながら、
「前にプロレス好きだった友達が教えてくれたんだよ。団体一の筋肉自慢を売りにしていたレスラーのムーブ……『ムーブ』って知ってる?」

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