アデムメデスのその年の終わりは、年の終わりになっても話題に事欠かない王女について持ちきりであった。
 報道各社はこぞって王都第5区スポーツ公園に中継班を飛ばした。
 王都第5区スポーツ公園は『五天の魔女』のパレードを見物していた者が全て流れ込んできたかのような混雑で、主場である陸上競技場の周囲にはティディア直属の王軍、王家のA.I.の操るアンドロイド、それらと警察の指示で作られた人の列が大河を作っていた。混雑のわりに混乱もないのは、即席とはいえ場に神聖な空気が流れていたためでもあるだろう。グループ分けされ順序良く陸上競技場に入る者は、簡素な朝礼台の上でスポットライトを浴びる『天使の代行者』の姿を眼にした。そしてその姿を見た者は口々に彼女の神性を湛えていた。
 ティディアは、聖典を見ることなく、一字一句漏らさず『時の書』にあたる章節を暗誦していた。その華やかな声は歌うようであり、マイクを通して公園中のスピーカーから聞こえる声でさえ、まさに『天使』のものであるように思えてならない。競技場に入れない者は自らの端末や所々に映し出された宙映画面エア・モニターで蠱惑の――いや、聖廉なる美女の姿を見つめ、彼女の声に酔いしれていた。
『ニトロ・ポルカト』は、聖典を胸に、ティディアの立つ台の下に控えていた。運良く最前列に並べた者の笑顔に応え、時折には求めに応じて握手をし、あるいは混雑の中で疲れた子どもの世話をする。「トイレ」と叫び出した子どもの声を聞き、民衆の中に自ら分け入り、その子どもと手を繋ぎトイレへと案内する姿は――善意で動いたニトロに取っては皮肉にも――評判となっていた。
 そう、結局、ニトロはその真面目な性格とお人好しのために、しっかりと己に期待された仕事を全うしていたのである。
「もうちょっとちゃらんぽらんにやったらよろしいのに」
 ――12月31日、午後11時20分。
 ティディアの法衣を変える準備、という名目で競技場スタンド内の一室で休憩に入ったニトロは、約束通りに差し入れを持ってきてくれた親友にそう指摘され、
「う」
 と、うめいた。うめくしかなかった。
「まあ、ニトロ君らしいですけどねぇ」
 苦笑なのか呆れ笑いなのか、それとも単純に面白がっているだけなのか。ニトロはハラキリの笑い顔から目をそむけ、軽く口を尖らせながら言った。
「悪かったな」
 その様子にハラキリがまた肩を揺らす。
 二人の前には小さなテーブルがあった。そこにはハラキリがニトロに代わって受け取ってきてくれた『ドキル』のグリルチキンと、ハラキリが家から持ってきたやけに底の深く白い器が四つ並んでいる。
「悪クナンカナイヨ」
 と、言ったのは芍薬だった。介添え役のローブを着たアンドロイドに入ったまま、芍薬はハラキリが持ってきた温蔵箱ウォーマーボックスを片付けている。その傍らでは、撫子の操るイチマツ人形が黙々と携帯用の蒸気再熱器スチーマーを操作していた。
「まあ、確かに悪いことではありませんねぇ」
 そう言いながら、ハラキリは底の深く白い器――アデムメデスにも同じ物はあるものの“あちら”ではドンプリというらしい食器に、慎重に軽量スプーンで測りながら合わせ調味液を入れている。
「それは?」
 興味を引かれ、機嫌を直したニトロが訊ねる。
「ソイソースに、塩や調味油などを混ぜたものです」
「ソイソース?」
「文献を漁ってみるに、これ以外に考えられないもので。あちらの豆とこちらの豆にどれだけ差があるかは分からないので、その点が不安と言えば不安ですが」
「いや、それはそうだけど……でも、ソイソースに塩? 辛すぎないか?」
「これを魚の乾物などから取ったスープで割るんです。『ソヴァ』の名のつくものには色々手法があるようでしてね。その中でもこれが一番分かりやすかった――故に大失敗はないだろう、と」
「へぇ」
 ハラキリはドンプリの三つまで調味液を入れた後、四つ目には何も入れずにおいた。
「後で作ってやってください」
「かしこまりました」
 二人の横で同じテーブルに座る――グリルチキンを前にお預けをくらっている――ヴィタがうなずく。彼女の視線はずっとグリルチキンに注がれており、その様子に、ニトロは小さく笑った。彼女の凝視しているものは、秘伝の配合のスパイスを合わせたヨーグルトソースに漬け込んだ後、石釜で焼き上げた『ドキル』の名物のグリルチキン。保温されていたそれを齧れば、スパイシーさの中にほのかな酸味、それらをまとった鶏肉の旨味が口一杯に広がるだろう。
 と、そう考えただけでニトロの口の中にヨダレが吹き出す。
 ちょうどその時、イチマツ人形の前で蒸気再熱器スチーマーがチンと音を立てた。イチマツ人形が蓋を開けると、蒸気で瞬間的に温め直された白い麺が現れた。
地球ちたまのは、こう、ねずみ色がかっていたんですがねえ。どうも製粉方法が違うようで」
 ぶつぶつというハラキリはポットを手にしていた。その中身をドンプリに注いでいく。綺麗な琥珀色のスープだった。丁寧に漉したのか、混じりけのない澄んだスープは黒い調味液を溶かすように巻き込んでいき、やおら白い器の中で透き通った黒褐色に変じる。
 そこに、イチマツ人形が掲げ持つ器から、撫子の指示を受けた芍薬が静かに麺を落としていく。ニトロとハラキリは当分に、二人の二倍の量をヴィタに。
「ちゃんと『麺』になってるじゃないか」
「結局、ちょっと反則をしました」
「反則?」
「そば粉だけでは硬かったりブツブツ切れたりとどうにもならなかったので、少々小麦粉を“つなぎ”に」
「それくらいいいじゃないか」
「それもそうですね」
 ハラキリはあっさりとうなずく。
 なるほど、彼くらいのいい加減さがあれば良かったのかな、そんなことを考えてニトロは苦笑してしまう。
 ドンプリの中では、透き通った黒褐色のスープの中に白い麺が静かに沈み、また浮いている。見た目にはいっぱしの麺料理だ。
「これに色々具を載せることもあるわけですが」
 ハラキリがスティックスを配りながら言った。
「今回は味見、ということで、これで」
「毒見の間違いじゃないか?」
「それならおひいさんも無理矢理ここに連れてきていますよ」
 飄々としたハラキリのそのセリフに、ニトロは堪らず大声で笑った。つられて芍薬が笑い、二つに増えた笑い声に引きずられてハラキリと撫子も笑い、とうとうヴィタまで吹き出した。
 部屋の外からは、流麗なティディアの暗誦が届き続けている。
 ひとしきり笑った後、ハラキリは時計を見、
「さあ、食べましょう。『トシ・コシ・ソヴァ』は31日に食べないと意味がない」
「そういうもんなの?」
「縁起物らしいですから」
「そっか。そういうことなら」
 ニトロはハラキリが手を合わせるのを見て、小首を傾げながらもそれに合わせた。
「あちらの作法です」
「これまでそんなことしたっけ?」
「縁起物らしいですから」
「それなら、まあ、そっか」
 早速食べようとしていたヴィタも渋々従う。
 三人共に合掌したところで、アデムメデス国教の神の神性を伝える文言を聞きながら、
「いただきます」
 ハラキリが言い、ニトロとヴィタも言う。
「麺を食べる時は、豪快に音を立てて啜るのがマナーだそうですよ」
「そりゃ珍しい」
 感心しながら、ニトロはまずスープを啜った。魚の乾物で取るスープは聞いたことがあるが、この調味液との組み合わせは初めてだ。口にするのにギリギリの温度のスープは口腔内で薫り高く広がり、
「――うん。こっちも珍しい味だけど、美味しいよ」
「それは良かった」
 二人の傍らでは豪快に音を立てながらヴィタが麺を啜っていた。その表情は涼やかであるが、口元は愉しげに緩んでいる。食べるのが愉悦を誘っているということは、少なくとも不味くないということだ。
 ニトロの感想に、ヴィタの愉悦。
 さすがにハラキリの頬もほころぶ。
「料理って、いいだろ?」
「いやいや、面倒ですよ」
 ハラキリの応えに――ほころんでいるくせにと――笑いつつ、ニトロはヴィタに倣って豪快に音を立てて麺を啜った。
(うん、麺もなかなか)
 初めて試みたというにしては上出来だ。というよりも、美味しい。このスープにこの麺は違和感がある気もするが、それでも、美味しい。
「温まるね」
「温かいですからねぇ」
 そういう意味で言ったのではないが……ニトロはそれでもいいかと納得し、再び麺を啜ろうとして、
「あの、麺のおかわりは」
 横手から入り込んできたヴィタの言葉に吹き出しそうになった。目を丸くし、見れば確かに彼女のドンプリから白い麺が消えている。
「もう食べたの?」
「少々危うい感じもしますが、なかなか乙です。これはいつか現地のものも食べてみたいですね」
 そのセリフに、ニトロはハラキリと目を合わせ、また笑った。

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