――12月31日、午後11時50分。
 一体どこで時間を計っていたのか……ティディアはその時刻になると同時に『時の書』の暗誦を終え、口を閉ざした。
 すると、彼女を目の前にしていた陸上競技場内の者達を初め、そこを中心にしたかのように静けさが広がっていった。
 お祭騒ぎの喧騒が音を下げていく。
 公園の人出を見込んでやってきた移動販売車からの威勢のいい掛け声も、大道芸人や楽器を持ち出した人間の囃し立ても鳴りを潜める。
 身じろぎや囁きさえ憚られるような静けさの中、競技場に入ってくる三つの影があった。
 先頭に立つのは、白いローブを着た藍銀色の麗人である。
 最後尾には背の低い介添え役のローブを着たアンドロイドが聖典を胸に続いている。
 そしてその二人に守られるようにして、カジュアルフォーマルなコートを着た少年が、白地に金糸と銀糸の刺繍の入った法衣を携えて歩いてくる。威風堂々というわけでもなく、しかし『漫才コンビ』の経験も手伝った自然体で、自然体であるが故に『ニトロ・ポルカト』には眼前を歩く麗人に劣らぬ存在感がある。
 それを後に『王の片鱗』と語る者もいただろう。
 飾り気のない朝礼台にヴィタが上がり、ティディアの法衣を脱がし、降りる。
 ティディアは上下共に純白の姿となり、スポットライトの中、赤と青の双子月の光を夜と混ぜ合わせたかのような黒紫の髪を揺らした。
 その時、静けさが一瞬崩れ、ざわめきが起こった。
 それは息を押し殺した嘆声であった。
 何故なら、光を集める白一色を身につけた王女の姿が、まさに自ら輝いているように見えたからである。輝きの中に揺れる黒紫の髪は、まるで幻そのものの影であった。
 これまでにも増して美しい。
 誰かが呟く必要もなく、その姿を見る者の心は彼女の美しさによって一つとなる。
 ざわめきの中、ヴィタに代わってニトロが朝礼台に上がった。
「美味しかった?」
 ヴィタの合図で集音マイクがオフとなったのを目の端で確認し、ティディアが小声でニトロに問う。
「お前の分も辛うじて残ってるよ」
 ティディアに――流石にたどたどしく(周囲から見れば微笑ましく)――法衣を着せながら、ニトロは同じく小声でそれだけを答えた。
 だが、ティディアはそれだけでもニトロの感想を完全に理解した。
「楽しみね」
 微笑み、ニトロに法衣の紐を止めてもらい、なお微笑む。
 彼女の微笑みはざわめきの音量を押し上げていた。
「ね? キスしていい?」
「ンなことしたら今度こそケツを蹴り上げる」
「そんなことされたら私、天国まで飛んじゃうわ」
「何言ってる、お前は途中で墜落して地獄行きだ」
「あ、でも、悲鳴と共に年明けってのも面白いかしら」
「この流れで悲鳴はドン引きだなぁ」
「ドン引かせるのもまた一興」
「大不興の間違い」
「やー、ツッコまれ続けて年の際まで気持ちいいわー」
「……」
 一瞬、本当にケツを蹴り上げてやろうかとニトロは思った。が、流石に自重する。蹴られたら蹴られたで、このバカはまた自分に優位な状況を作り上げてくるだろう。
 ――ふいに、これまでのざわめきとは違う、大きなどよめきが上がった。
「ソロソロダヨ」
 芍薬が台に上がってきて、聖典をニトロに手渡す。
「芍薬ちゃんもここに残る?」
 ティディアの誘いに芍薬は反射的に否定を返そうとしたが、思いとどまった。
「ソウサセテモラウ」
 言って、ニトロの傍に寄る。
「嬉しいわ」
 ティディアは目を細め、その瞳を整然とした大群衆を作る『我らが子ら』に向けた。
 どよめきが、時を数え始めている。
 初めは飛び飛びに、やがて、連続し。
「ニトロ、挨拶は何がいいと思う? 今年もよろしく? 新年おめでとう? 良き年にお祝いを?」
「その衣に見合った定番があるだろ」
「それじゃあそれを一緒に言いましょう」
「断る」
 皆が「1分」と合唱した。
 その時、ティディアがちょいちょいと指を動かした。
「?」
 ニトロがその示す先を見ると、
「……やろう」
 そこには王立テレビのカメラを引き連れて、白いローブを着たハラキリがやってきていた。同じローブを着たヴィタと合流し、朝礼台の真正面に陣取った後、彼はニトロの視線を受けても悪びれることなく肩をすくめてみせる。
 ほくそ笑みを頬の裏に隠して、ティディアが言う。
「一緒に言いましょう?」
「ハラキリに、か?」
 30と数えられる。
「共通の友人に挨拶するのがそんなに嫌?」
 20――ハラキリとヴィタが、競技場内にいる白いローブを着たアンドロイドが、また王女の手伝いにやってきた国教関係者達がハンドベルを手にする。
「……嫌と言えると思うか?」
「笑顔でね?」
「うるさいよ」
 10――大合唱が起こる――9――競技場の外からも声が聞こえてくる――8――空気が震えていた。同じく時を重ねる地域の全てで、今、目を覚ましている者の全てが合唱しているようにさえ思えた――7――過ぎ去りし一年は「もう戻ってこないように」賑やかに送るものとされている。良いも悪いも、同じことが繰り返されませんようにと。過ぎ去りし一年が、今、送り出されていく――6――新たに訪れし一年は「過去の一年のどれよりも素晴らしいものとなるように」賑やかに迎えられる。良いものは以前のどれよりも喜び深く、悪いものは以前のどれよりも悲しみ浅くと。たった数秒先に、今、新しき一年が歩み寄ってきている――5――ティディアが右手を差し上げた。その左手はニトロの聖典を抱える腕に触れている。ニトロは彼女の手を振りほどこうとして、やめた。空気を震わす歓喜の声。それは幸福の時を呼ぶ声だ。それを濁らせるわけにはいかない――4――ティディアの笑顔が国民の顔に笑顔を感染うつす。クレイジー・プリンセスと恐れられながら、反面、深く親しまれている希代の王女――3――つくづく、ニトロはとんでもない奴に目を付けられたと内心嘆息する。右腕に触れる力はさほど強くないのに、そこに底知れぬものが秘められていると思うと恐ろしさすら感じてしまう――2――ニトロは息を整えた。とにかく、これは『ティディア&ニトロ』の営業だと思えばいい。いつもと違うのは舞台ではなく朝礼台の上ということ。聖典を胸に抱き、カメラに笑顔を向けて、時々こうして細かく裏切ってくれる親友に言葉を向けて投げればいい――1――そうは思ってもニトロの顔の下には渋面が刻まれそうになる。と、その時、ニトロの背に小さな力が加わった。芍薬の手だった。その瞬間、ニトロは自然と微笑みを浮かべ――……0。
 そこかしこでハンドベルが振り鳴らされた。
 礼拝堂からは鐘が鳴り響く。
 新年を告げる刻の音の中、人々が歓びを声にする。
 ニトロはティディアと息を合わせた。
 カメラの横ではハラキリとヴィタが口を動かしている。
 一年に幸福を願う歓声の中、ニトロとティディアは声を揃えて叫んだ。

「皆共に、幸深き素晴らしい日々を!」




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