「流石に本当に辻でやるわけにもいかないからね。5区のスポーツ公園、そこの陸上競技場を開けさせてあるわ」
「開けさせて?」
「担当者を呼び出して鍵開けさせて」
「……我が儘王女が」
「来年もたくさん叱ってね?」
 ティディアは微笑んだ。
 彼女の顔は、今や仄かに桃色がかっている。それは体温のためではなく、彼女も知らずの内に上がった心温のためであり、その頬は幸福に色めき、色づいた彼女の蠱惑の美貌はより増して魅力的であり、彼女の微笑みを見る周囲からは絶え間なくため息がこぼれている。
 ニトロはそれらとは別のため息をつき、携帯電話の画面に芍薬が表してきた地図を見、
「ここから7kmってところか」
「ええ、歩きながら行きましょう。
 でもその前に、まずはここにいる『我らが子ら』を祝福しないとね」
 法衣をまとう『天使の代行者』の言葉を、周囲は大きな声で歓迎した。一際大きな声を上げているのは熱心な国教徒であろうか、それとも『ティディア・マニア』であろうか。
 白馬の着ぐるみをまとめて紐で縛り終えたヴィタがやってきて、ニトロに一冊の厚い本を手渡す。
「最後の最後まで、やってくれたね」
 ニトロの言葉にヴィタは目を細め、
「このままですと、年の初めの一秒目からも『やる』ことになりますね」
 ニトロは片眉を跳ね上げた。
「ついさっきまでは、人生最悪の年越しになるとは思ってなかったよ」
 ヴィタはマリンブルーの瞳をニトロの皮肉できらめかせ、
「来年も楽しませてくださいませ」
「できればお断りしたい」
 その応えにヴィタは涼やかな口元に笑みを刻み、小さく会釈してまとめた白馬の着ぐるみまで戻った。観客を掻き分けやってきた数体のアンドロイド――いずれも無位の僧侶の着る白いローブをまとっている――の一体に着ぐるみを預け、代わりに受け取ったアンドロイドと同じローブをまとう。型は無位のものと同じとはいえ、生地は違った。最上級の白い羅紗に流れ落ちた藍銀色の髪が正午の光を受けて輝き、彼女が朱字に金糸銀糸で豪奢に飾られた法衣をまとう主人の傍らに控えると、冷色の美と暖色の美が立ち並んだそこには一瞬にして芸術的な“絵”が生まれていた。
 また、ため息がこぼれる。
 ニトロはため息を聞きながら、ヴィタから受け取った本に目を落とした。今では非常に珍しい紙製の本。現在アデムメデスにおいて流通経路を持つ本物の本は聖典以外にない。熱心な教徒や祭事を執り行う礼拝堂関係者は高価なこれを手に入れるが、それでも一般的には電子書籍版が使われているため、ニトロも製本された聖典を手に取るのは初めてだった。
 その手触り、その重量感に奇妙な満足感を覚えながら表紙を見れば、これは最も重要な章節を抜粋しながら編纂された――それ故に最も普及している聖典と知れる。
「ニトロ」
 ティディアが優しい声でニトロを呼ぶ。
 振り返ると、アンドロイドが人々を礼拝堂に正対する形に並べていた。見れば司祭や聖歌隊の少年少女も礼拝堂から出てきていて、その最前列に並んでいる。厳格そうな顔をした老人……先ほどまで人々に祝福を授けていた司祭の畏まる姿を見ていると、どんなにバカなことを繰り返しても、目の前の法衣を着たこの『敵』こそがやはりこのくにの王女なのだと、ニトロはひどく痛感させられてしまう。
「ニトロは私の隣に並んで、聖典の表を皆に見えるように」
「俺はこの姿のままでいいのか?」
「ニトロは『一般の代表』だから。それでいいわ」
 ニトロは苦虫を軽く噛み潰したように頬を固め、
「……年の終わりくらい手を抜けよな」
「それだけ私はニトロを思っているのよ」
「年の終わりになってもお前の言葉は軽いなぁ」
「あら酷い」
 言いながらもニトロはティディアの隣に並ぶ。するとニトロの傍らに一体のアンドロイドが立った。それは背の低い中性型のアンドロイドであり、礼拝に来た一般人(教徒)を介添えする役のローブをまとっていた。
「ハラキリ殿ハ笑ッテイタヨ。差シ入レニ来テクレルッテ」
 小声で囁かれ、ニトロはそのアンドロイドに芍薬がいることを知った。彼は小さなうなずきを返し、それから気を取り直す小さな息をつき、
「まあ、ある意味で一年の象徴かな」
「御意」
 芍薬の声が笑みに揺れているのを聞き、ニトロはもう一度うなずいた。芍薬を気に病ませたまま一年を終えるのは嫌だったから、その声が聞けたのなら、ひとまず、良い。
「さて、始めようと思うんだけど……ニトロ」
「何だよ」
「さっきからお尻が痛いの。説法中、さすっていて?」
「蹴るぞ」
「ありがとう」
「ようし思い切りやってや――え?」
 反射的に蹴り足を引いていたニトロは一拍を置いてティディアのセリフを理解し、目を上げた。すると彼女と目が合う。この一年、もう見飽きるほど見てきた黒曜石の瞳が、濡れているようなまつげの下で笑っている。
「来年からも、ずっとよろしくね」
 ニトロは今日一番の大きなため息をついた。
「せめて『来年も』に限れよ」
「それは短すぎ」
「俺にとっちゃそれでも長すぎだ」
 ニトロはティディアから視線を外し、祝福の始まりを待つ人々に目をやった。
 すると、それを合図にしたかのように、皆が敬虔に目を伏せ頭を垂れる。
 その光景はニトロに人々が従ったようであり、いや、事実そうであった。人々のその態度は、もちろん彼の隣に立つ王女の威光が手伝ったためのものではあっただろう。しかし、それでもその事実は、彼が王女の威光を担うに“当然の存在”として人々に受け入れられていることの証拠でもある。彼にとっては非常にむず痒い思いがする。反面、傍らの王女は満足げに微笑んでいた。彼が順調に得出したモノを年の終わりに確認し、彼女は不思議なほど心から喜びを感じていた。
 そして、その喜びを振りまくようにして。
 ティディアは、威風堂々と右手を人々に向けて差し上げた。

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