「はい!」
 割れた馬の背からビックリ箱の仕掛けのように飛び出したのは、無論、藍銀色の髪の麗人であった。その跳躍力は素晴らしく、周囲の顔が一斉に上向き……周囲の目を一身に受けながら、麗人は飛び出た時の勢いが嘘のように思えるほど柔らかに音もなく着地した。それはそれだけで一つの芸であり、芸を見届けた周囲から再び歓声と歓迎の声が上がった。厚手の生地の白い上下を着た彼女はやはり汗だくであり、しかしその表情は疲れを見せるどころか涼しげで、また、妙に晴れやかな気色さえ窺える。
 王女の女執事は、朱字に金糸と銀糸で緻密な刺繍のされた衣を胸に抱えていた。
 周囲が見守る中、ヴィタは不思議な形に折りたたまれていたその衣を手際よく広げる。するとヴィタの前に、執事が衆目を集めている内に着ぐるみから抜け出してきたティディアが立つ。ティディアは白いTシャツの下に白い絹のロングパンツを履いていた。従者と同じく白づくめのティディアが両腕を、そう、まるで翼のように斜め後ろに広げる――と、すぐさまヴィタが華麗な所作で広げた衣を主人に纏わせていく。直前のヴィタの跳躍が動的なショーであれば、それは静的なショーのようにも思えた。
 やがてショーが終わると、ため息がそこかしこから漏れた。
 希代の王女――そして蠱惑の美女と讃えられる王女が、今、神々しくも眼前に佇んでいる。
 ヴィタの手によりティディアが纏ったのは、法衣であった。それも第一王位継承者のための法衣である。本来であれば、今頃彼女はその姿で大聖堂の祭事に勤しんでいるはずだった。
「さあ、ニトロ!」
 法衣に身を包んだティディアが、両の腕を今度は『恋人』を迎えるために広げる。
「一緒に辻説法に行きましょう!」
「辻説法?」
 何とも奇妙な展開に眉をひそめてニトロは問う。元からそうだが、今日もこいつの考えることは理解できない。
「『二年祈祷』のルーツは知っているでしょ?」
 ニトロはうなずいた。それは有名な話だ。反射的に答える。
「天啓を受けた『五天の魔女』に巡礼の道を示した伝説の女司教メルリナが――」
 そこまで言って、ニトロは悟った。
 口をつぐんだ彼の後を受けて、ティディアが言う。
「そう、年末年始にかけて町の辻で行った説法が始まり。そして年末年始の大祭儀として今の形になるまでは、各地の司祭は町を練り歩きながら辻々で聖典を読み聞かせていた」
「つまり……」
 ニトロは身を引いた。ティディアが、何故、法老長に『それ』を許可されたのか。
「大昔の習慣を蘇らせようってことか」
「礼拝堂の内側で待っているだけじゃあ“神”の言葉を広められないわ」
「ぬけぬけと『聖職者』らしいことを言いやがって」
 アデムメデス国教において王家の人間は、その性質から生まれながらに漏れなく最高位の――名目だけで考えるならばそれこそ法老長より上の――聖職者として扱われる。もしこの場で法衣を着た(つまり聖職者となった)ティディアに洗礼を頼む者があれば、彼女はそれをする資格が無論ある。『天使の代行者にして依代』の辻説法……なるほど、それはテレビで流し見される大聖堂の大祭儀よりも民の耳に、心に、直接訴えかけられるだろう。
 ――だが、
「筋が通っていることは認めるけどな。――断る」
「あら、何故? 善行を積む絶好の機会なのに」
「俺は『一般的なやり方』で年を越すよ。それも立派な善行として認められているはずだろう?」
 すると、ティディアが目を伏せた。
 ニトロが怪訝に思っていると、彼女は哀しげに、まるで周囲に向かって言うように、
「……うん、悪いなぁって、ちょっと思っている。だって来年からはもうできないもの
 ニトロの喉からヒッと小さな音が鳴る。彼は思う間もなく叫んだ。
「そういうのやめろよな!」
「でも将来に向けた予行練習としては良いタイミングだと思うの」
「だからそういうのやーめーろ!」
「法老長もそういうことならバンバンやっちゃえ、と」
「猊下あああ!?」
「その猊下からニトロ様に伝言があります」
「何かなヴィタさん!?」
「『君のツッコミに星の未来が』」
「そういうのをそんな大事おおごとにしないで!」
「『あと、この“天使様”を止めるのわしらじゃ無理。このまま“神”になったら絶望』」
「ッ猊下ああああああああああああああ!?」
 ニトロは頭を抱えた。当代の法老長は庶民的で冗談が通じて、自身もユーモアに溢れる好々爺として有名だ。
 ――にしたって、
「国教徒を導く貴方様が率先して諦めないで下さあああい!!」
「むしろ率先してニトロ様をお認めになっていらっしゃるのかと」
「だからそういうのやーめーてー!!」
「結婚する前から法老長に祝福される前例はないわ。私達、幸せね!」
「俺は不幸せだ!」
 手を組んで瞳をきらめかせるティディアに対し、ニトロは拳を握り、
「ていうかな、お前『悪い』と思ってるんなら何でこんな強引な形で俺を巻き込みに来たんだ! 断られても退かねぇし、寛容の精神は一体どうした天使の代行!」
「寛容も愛の前には無力!」
「突然何を抜かしてんの!?」
 今度はティディアが拳を握った。
「私はニトロと一緒に年越しがしたい!」
 ニトロは一瞬目の前が真っ白になった気がした――が、すぐに我を取り戻し、叫ぶ。
「おっ前何だかんだ理由付けておきながら! 結局! それが本音かあ!」
「だからさっきニトロが私と同じ気持ちで「違う、同じ気持ち違うぞ!」
「私達以心伝心ね!」
「お前はほんっと諦めが悪いなあ!」
「だって、一年の締めの日にニトロといられないなんて楽しくないもの」
「俺はお前といられなくて心の底から楽しかったんだがな」
「そんな強がりはいらないわよぅ」
「いや強がりち「大体! ニトロが私と一緒にやってくることは法老長だけでなく『央天の魔女』も認めてくれているのよ!?」
「――は?」
 ニトロは、呆けた。
 突然何を言い出すのか、このバカ姫。バカだバカだと思ってはいるものの、とうとう最終段階までバカが進行したのか? 言うに事欠いて、央天の魔女が認めている?
 眉をひそめて呆気に取られているニトロに対し、ティディアは夢見るようにうっとりとして、言う。
「さっき央天の魔女にお願いしたのよ、『ニトロと一緒に年を越せますように』って。そしたらいいよーって」
「いいよーって、お前そんな話に何の――」
 そこまで言って、ニトロははたと気づいた。
 自分達を取り囲む人垣。
 その中には、『央天の魔女』を疑いなく信じる年齢の子どもが目に見える範囲ですら多くいる。特に最前列にいる女の子は……そうだ、央天の魔女に必死に『フェリーちゃんのお人形』を頼んでいた子であったはずだ。
 今、ここで央天の魔女の話を否定しては……
「お前なんか、央天の魔女に噛まれて泣くのがせいぜいだ」
 辛うじてそれだけを言うが、ティディアには何の痛痒もない。
「……」
 とうとうニトロはうなだれ、内ポケットに手を伸ばした。携帯電話を取り出すと、画面にはしょんぼりとした芍薬のデフォルメ肖像シェイプがあった。
<近場ノレンタルアンドロイドモ、飛行車スカイカーモ、何モカモ抑エラレテイタヨ……>
 ニトロを見上げて、芍薬が文字を打つ。
<バカノ主張カラスルト『緊急避難』ノ要件モ満タサナイカラ“徴発”モデキナイ>
 加えてこの状況でティディアから逃げるためには交通違反も辞さない必要がある。しかし、周囲にはパレードのための警備に警察が溢れかえっている。逃亡のためにそれらをも敵に回すことになったなら、間違いなく交通違反どころではすまないだろう。
 いざともなれば、ニトロのためになるならば、我が身を捨てて犯罪行為も辞さない芍薬ではある。が、今回、その行為の生む様々なデメリットを甘受してまで『逃亡』を選択すべき案件であろうか――ニトロは芍薬の苦渋の決断を理解する――結論は、否だ。『今後』を見越して勘案すれば、現在の状況は、有体に言って『詰み』である。ティディアにニトロへの接近を許し『辻説法』なる突発祭事を宣言された時点で……負けであった。
<……ゴメンヨ>
 一年の総決算の日に、重い悔しさを滲ませて芍薬はうなだれる。
 ニトロは芍薬の頭を撫でるように画面に指を添え、ため息をついた。
「ハラキリへ、状況を」
 マスターの優しい声を聞き、顔を上げて芍薬はまたすぐ恥じ入るように頭を下げる。
 ニトロは素早くキーを打った。
<来年もよろしく。芍薬無しじゃ勝てないから>
 芍薬は頭を上げない。それでもマスターの慰めフォローを受けて、その頭の後ろには、慎ましやかに喜びを表すアニメーションがキラリと光っていた。
 そして、アニメーションの光が消えるのと同時に、芍薬も姿を消す。
「芍薬ちゃん用の体も用意しているからって伝えて?」
 ニトロの様子に事を察し、ティディアがウィンクをする。
「ウルサイバカ」
 ふて腐れた早口が携帯電話のスピーカーを小さく揺らす。ティディアは微笑み、
「芍薬ちゃんと会えたのも嬉しいことだったわ」
 今度は、芍薬は何も答えない。代わってニトロが答えた。
「それで? どうせお前は何もかも用意周到なんだろう?」
 その言葉は、ニトロがティディアに付き合うということを意味する。成り行きを――最後には『何だかんだ言いながら、ニトロ・ポルカトはティディア姫に付き合うだろう』と思いながらも――見守っていた観衆がざわめいた。それは一芝居を見終えた観客の感嘆の息でもあり、また、思わぬ幸運が自分達に訪れたことへの感激の声でもあった。
「もちろんよ」
 ティディアは満足げにうなずくと、ひらりと手を振った。その所作一つで、聴衆の心が動かされる。彼女は瞳を――ニトロが折れた頃からさらに、特に――輝かせて言った。

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