「うわ!?」
思わずニトロは驚声を上げた。
ただでさえ存在感のある大きな馬の着ぐるみが腹を見せて前足をばたつかせてえらい勢いで二本足で突進してくるのだ。よく見れば足には無駄に本物の蹄鉄が打ってある。宙を掻く前足は、つまり、凶器だ。全身を支える後ろ足が石畳を蹴るたびにガゴンという恐ろしい音が鳴り響く。ついでに一歩の度に大きな口が空を噛むように開閉を繰り返し、プラスチック製の歯がガッチンガッチンと気味の悪い音を打ち立てている。
「うわわわわ!?」
白馬の接近に伴いニトロの驚声が悲鳴に変わる。
「うわわわわ!!」
さらに白馬までもが悲鳴を上げ出した。
その声はニトロの記憶の中に黒カビよりも深く根を張るものであり、その着ぐるみの中から漏れ聞こえてくる声を聞いた瞬間、ニトロは逆に悲鳴を止めた。
「ちょ、ヴィタ! 前! 空しか見えない!」
「私は何も見えません!」
「まさかの設計ミス!?」
白馬の中からは悲鳴を追って、そんなやり取りまで聞こえてくる。
――さて、どうしたものか。
ニトロは、刹那、考えた。
このまま自分があの暴走馬を避けたらどうなるか。背後には人もいる。怪我人が出るのはよろしくない。では、受け止める? 無理だ。女性二人に着ぐるみの重量、そこに怪脚力が加わっている。まともにぶつかれば無事では済まない。
ならば、
「ニトロどこぉ!?」
その問いには答えず、ニトロはすっと脇にずれ、白馬の突進をかわし様、その後ろ足を掬い上げるように蹴り上げた。
「あ」
ヴィタの声が、近くで見るとかなりの高級品らしい生地の向こうから聞こえてくる。
「ああ!」
白馬の口からは悲鳴が吹き出る。
おそらくは、白馬の中身の現状は、後ろ足担当のヴィタが前足担当であるティディアの腰を両手で抱え、例えばダンサーのリフト技のように持ち掲げている状況であろう。
白馬は見事に足を取られて、腹から落ちるように倒れこんでいく。
――もし、ティディアが上手いこと着地できたなら、何の被害も出なかったことだろう。無論、転ばされたことに気づいたティディアもそうしたかったのだと思う。
だが、彼女は先ほどまで足をばたつかせていた。加えて、重い蹄鉄を履いていたことも災いした。ただでさえ目隠し状態だ。転ばされたことへの反応が遅れた上にばたつかせていた足の勢いが余りすぎ、彼女は適切な体勢を整えることができなかったのである。そのため足を振り上げた反動で馬の前半分はのけぞり――つまり、中身の王女は半ば後転するような姿勢であった。
それがどういう結末を迎えるか。
高々とヴィタに抱えられていたティディアは、まるで振り下ろされるハンマーのように尻から着地することとなったのである。
広場の石畳と肉と骨が、ドン、と怖気のする音を奏で――
「ッふぅンッ!!?!」
その激痛を物語るくぐもり重い悲鳴が礼拝堂の開け放たれた出入り口を突き抜けた。そして悲鳴は祭壇に到達し、よく音の響く堂内で何度も反響する。
その直後、
「痛くない!!!」
己の悲鳴が反響する最中にあっても敢然と叫び、白馬が前足を揃えてぴょんと飛び上がった。その動きに後ろ足も見事に合わせて飛び上がり、そして白馬は、二人四足でしっかと地を踏みしめる。
……されど、白馬の前半分だけが産まれたばかりの仔馬のように小刻みに震えている様はいかんともしがたいようではある。
ニトロは流石にちょっとだけ哀れになって声をかけた。
「おいバカ女、何でお前がここにいるんだ」
「うわひっど! もうちょっと優しい言葉の掛けようってものがあるんじゃない!?」
声の方角からニトロの位置を察し、ぐるりと白馬がその鼻先を彼に向ける。
ニトロは――周囲に『ニトロ・ポルカト』と名を呼ぶ声のあることを耳にし、嘆息をつきながら帽子のつばを上げ――着ぐるみの構造を見て取るや乱暴に馬の鼻を掴んで首を引き抜いた。すると、するりと、中から白いTシャツ姿の女の上半身が現れる。
「いや〜ん」
白馬の中から現れたティディアは妙になまめかしい声を上げ、言葉とは裏腹に胸の谷間を強調するポーズを作った。
着ぐるみの中が暑かったからだろうか、それとも痛みのためのものか、彼女のシャツには汗が滲んで純白の下着のラインが透けて見えている。それも彼女の狙いの一つだろう。白馬の中から『王女』が現れたことに対する驚き、継いで上がった歓迎の歓声と共に、それらとは別種の歓声も大いに上がる。
しかし、ニトロにはそんなことはどうでもよかった。軽い頭痛を覚えながら眉間の皺を指で叩き、
「もう一度聞くぞ」
と、ティディアに問うた。
「何でお前は重要な大祭儀をほっぽり出してここにいられるんだ?」
半人半馬の様相となったティディアは、よく見るとちょっと涙目であった。やはりまだ激痛が走っているのだ。それなのに彼女は笑顔を浮かべる。ひょっとしたら尾てい骨をやっちゃっているかもしれない苦悶を凌駕する喜びで頬を染め、ポーズを取るのをやめると手を腰に置きニトロを下から覗き込むように見つめ、そうして心の底から楽しそうに、やっと手に入れた玩具を自慢する子どものように、
「あ、会場入りする私を見た? あれアンドロイド。やー、芍薬ちゃんにばれないようにカメラの角度とか着る服とかここに来るまでの手順とか散々知恵を絞ったかいがあったわー」
ニトロの頬が引きつった。
「そういう意味じゃあない」
「それなら私の『役目』のこと? それはミリュウが私の分も全部やってくれるって。頼りがいのある妹がいてお姉ちゃん嬉しい!」
ニトロのコメカミが波打った。
なるほど、
「確かに、ミリュウ様が代行を務めてくれるんなら儀式に支障はでないだろうさ。ミリュウ様はお前のためなら徹夜なんてへっちゃらだろう。それに病気なり低年齢なり正当な理由がある欠席の前例なら、確かに、いくつもある。だからパトネト様は元々欠席だろう? ミリュウ様はお前のためなら、そりゃあ24時間たった一人で大役の全部をこなすはめになっても文句の一つも言わないだろうさ。ただし、ミリュウ様がもし姉がずる休みするための身代わりに『頼りがい』をいいことに使われているってんならそいつは姉バカの滑稽ってもんになっちまう」
畳み掛けるように言い募りながらニトロは腕を組み、集まり近寄り出していた周囲の人間が思わず足を止めて後退するほどの怒気を乗せ、問うた。
「さて? お前の正当な理由は何だ」
「法老長に許可もらった」
「……」
一瞬、ニトロはティディアが何を言っているのか理解できなかった。
「……は?」
「法老長に許可もらった」
ティディアに嘘をついている気配は、ない。
いやいやこいつは真正面から嘘をつき通せる奴だ! しかし――しかし?
「は?」
ニトロはもう一度訊ねた。
ティディアはもう一度答えた。
「法老長に許可もらった」
「猊下ああああああ!?」
大聖堂のある方角に向けてニトロは叫んだ。この声が届かないとしても、この思いはどうか届いて欲しい。アデムメデス国教会の最高位にある者よ、あんた何考えてんだ!
「っつーか、マジで!?」
ニトロは翻ってティディアを見た。彼女はけらけらと笑っていた。この寒空の下、汗に濡れたTシャツ一枚であるのに全く寒くも痒くもないといった風体で。そういえば身を折り曲げて着ぐるみの下半身に入りっぱなしのヴィタは結構苦しいのではないのではなかろうか?――じゃなくて!
「猊下が何でそんな許可出しちゃったりしてんの!? もしやお前、人質でも取って脅したな!」
「そんなことしないわよぅ。だってほら、うちのモットーは『寛容』じゃない?」
「程があるわ! 大体『恋人と過ごすために大祭儀サボります』ってのを認めるのは寛容と違うだろ!」
言い切り、その瞬間、ニトロは己の大失態に気がついた。
ティディアの頬が、激しく緩む。緩みきった頬は口の両端を蕩けさせ、彼女に至福の笑みを刻ませる。
ニトロは慌てて口を開こうとした、が、
「ごめんね? 私、なかなか貴方と二人で静かに過ごせなくて」
先にティディアがしんみりとしてセリフを決める。
すると周囲に、憂いを帯びながらも王女の責任感を忍ばせつつも『恋人』への深い愛を告げるティディアのその言葉、その表情に、ため息が漏れた。
(――しまった!)
流れの中とはいえ、よもや自ら『ニトロ・ポルカトはティディアの恋人である』――その虚構を前提としたセリフを公衆の面前で吐いてしまうとは。しかも周りの皆様には、ティディアの返しのせいで、自分がティディアと二人きりで過ごせないことに拗ねていると受け止められている、絶対に。
ニトロは必死に考えた。
今の発言とやり取りの効果を打ち消す一言は、ないか!?
「それに『ニトロと過ごすために』なんて、私は一言も言ってないわよ?」
しかしニトロは、ティディアのたった一言で挽回のチャンスを永久に奪われてしまった。
確かに、彼女は一言もそんなことは言っていない。
例えニトロの指摘が“真”であったとしても、彼女が自ら言っていない以上それを“真”と決め付けることはできないのである――いや! 逆に、決め付ければ決め付けるほど、『ニトロ・ポルカト』は『ティディアの恋人』であると自ら強調する結果となってしまうのである!
たった一言の失言の産む力。
この頃には周囲には“観客”の作る人垣が完成しており、そこには携帯端末のカメラの音や録画モードを報せるランプが見え隠れしていた。
ニトロは、絶望に沈んだ瞳で、ティディアを
が、一方のティディアの瞳は実に希望を湛えてキラキラと輝いていて、
「ヴィタ!」
彼女の呼び声に、白馬の背中がジーーーッと割れた。