「……」
 ニトロは携帯電話をコートの内ポケットにしまった。
 胸には、ちょっとの不安と共に快い高揚感がある。
 年末年始を家族とではなく、友人の家で友人と夜通し過ごして新年を迎えるのはニトロにとって初めてのことだった。中学の頃に十人ほどの友人達と新年を迎えたことはあるが、それは礼拝堂の敷地内でのこと。周りにはたくさんの人がいて、ニトロ自身、新年を迎えるというよりは単に新年を迎えるお祭を楽しんでいるだけだった。今回のように、本当に激動であった一年を、その一年の間に自分を少なからず支えてくれた親友と落ち着いた“大人な過ごし方”で終え、そうして新しい一年を迎えるのは……正直、楽しみでしかたがない。
 ニトロは横目で二匹の猫と熊が組み体操を始めたのを見ながら、足を公園の中心――礼拝堂に向けて踏み出した。
 程良く広い公園の人の流れは、木立の向こうに見える尖塔に向けるものと、そちらから帰ってくるものの二種類に大別できる。ニトロは出店の並ぶ道を、礼拝堂に向けて進む流れに乗って歩いていく。そろそろ昼食時ということもありスナックやジャンクフードの強い匂いが腹を刺激するが、いや、そろそろ昼時だからこそ人の数も落ち着いている。この時間帯に目的を――礼拝を済ませておきたい。
 しかし、礼拝を目的としながらも、ニトロは元より礼拝堂の内部に入るつもりはなかった。
 何しろ礼拝堂の内では帽子を脱がねばならない。それでは流石に『ニトロ・ポルカト』だと気づかれてしまう。だが、幸いなことに今日明日は大挙して訪れる人々のため、礼拝堂の扉は開け放たれているのが常だ。内に入らずとも、祭壇と、アデムメデス国教の太陽を模した象徴イコンに面することはできる。そこで小さく頭を垂れて、心の中で聖言を唱えよう――礼拝としては取り繕いにもならない形だが、ニトロは「それくらいは」と、そのために足を伸ばしてここに来たのだ。
 礼拝堂の面前に広がる中央広場は、公園のどこよりも賑わっていた。
 遊歩道から広場に入ると、ちょうど公園を挟んで鎮座する礼拝堂が目に飛び込んでくる。第7区中央公園の礼拝堂は、国教の様式として東に鐘楼、西に『日の見の尖塔』を持ち、本堂には千年前の流行であった円い屋根のこぢんまりとしたデザインを採用していた。このタイプはアーチ型の大きな扉を持ち、開け放たれているその大きな出入り口からは少年少女で編成された聖歌隊の歌声が流れ出している。
 広場の中心部はがらんと空いていた。おそらくそこには、最も人の集まる時分には礼拝堂に入ろうとする人間の列が伸びてくるのだろう。他方、広場の外縁には店が所狭しとあり、温かな飲食物の店と、とりわけ護符関係の店が並んでいて、今はそこに人が集まっている。
 空いた広場の中心を歩きながら――先ほどの猫や熊と同じ宣伝用だろうか、ニトロはある店の脇に座り込んでいる白馬の着ぐるみに目を引かれた。そこから店の看板に目をやって、ふ、と彼は内心苦笑する。
 その店は様々な他星のお守りを扱う店だった。馬を初め動物を象ったものや、どこかの国や星の神の偶像であるらしいアイテムが棚に並んでいる。ふと多くの女性を集めている店を見つけて見てみれば、それは恋愛運を高める流行の“おまじないグッズ”の店だった。もちろん国教由来の護符を売る店が一番の客を集めているが、そのすぐ隣ではセスカニアンこくの占い師の弟子という触れ込みの女性が水盆を覗き込んでいる。
 いくらアデムメデス国教の教えが寛容を旨としているとはいえ、
(節操がないなぁ)
 しかし、まあ、節操がないと思いながらもこの光景を許容している自分も『節操がない』のだろうと、ニトロはまた内心で苦笑する。
 ニトロは広場を抜け、礼拝堂の前に差し掛かった。
 ――それにしても不思議な雰囲気がここにはある。
 背後では稼ぎ時だと張り切る店々が俗な空気を擦り合わせて発熱しているが、そこには礼拝堂内から少年少女で編成された聖歌隊の歌う今年一年の暮らしを優しく包む詩曲が流れ込んでいて、一方世俗から切り離された礼拝堂の中には俗な熱気と声が流れ込み、太陽を模した象徴イコンを戴く質素な祭壇の下では礼拝に訪れた人々が敬虔な様子で頭を垂れ、朱字に白い刺繍を施した法衣に身を包む司祭の祝福を受けている。
 俗と聖が交じり合い、溶け合い、感情を掻き立てながら真摯に心を整える情景。
 一年の境目として相応しい独特の空気。
 礼拝堂の直前で、ニトロは自身も敬虔な気持ちになっていくのを感じていた。これ以上進めば祭壇に向かう流れから逃れられない。彼は一歩脇にずれ、ゆっくりと歩を止めた。すぐ脇を、赤子を抱いた女性と畳んだベビーカーを持つ男性が通り過ぎていく。
 ちょうど祭壇では十数人の礼拝者に司祭の祝福の言葉が投げかけられている。ニトロは帽子のつばに手を触れ、胸中で『年送りの聖言』を唱えながら、聖歌と共に堂内から響いてくる司祭の言葉に合わせて小さく頭を垂れた。
 彼の様子を不思議そうに見上げながら、祖父母に連れられた小さな男の子が通り過ぎていく。
(――よし)
 目的を果たした満足感を噛み締め、ニトロは小さく息をついた。顔を上げ、踵を返す。自分と同じような格好をした少年の二人組み――会話からは受験生であるらしい――とすれ違い、ニトロはこの後の予定を脳裏に描く。
 まずはここを出て、5ブロック先の惣菜店『ドキル』で(友人のクレイグに名を借りて)予約しておいた名物のグリルチキンを買う。それから芍薬が待っている駐車場に戻って、途中でファストフードのドライブスルーに寄り、小腹を満たしながら少しドライブと洒落込んで、頃合を見てハラキリの家に向かおう……いや。ニトロはふいに思った――その前に、
(お土産でも買っていくか?)
 ジジ家に、何より芍薬に、お守りでも。
 芍薬も含めジジ家の皆はそのような縁起を担ぐ性質ではないが、こういうのは気持ちの問題だと思う。最近はオリジナルA.I.用のお守り、なんていうのもあるし、邪魔にならない程度なら……そうだ、車につける護符なら場所にも用途にも困らないだろう。
 そこまで考えたニトロは改めて周囲の店を見渡し、何か良さそうなものはないかと探そうとした。
 と、その拍子に、彼は気づいた。
 広場の真ん中に、先ほど見かけた白馬の着ぐるみが佇んでいることに。
 その白馬の着ぐるみは、改めて見ると愛嬌のある不細工な形にデザインされていた。その外見は、基本的に太い。前足も後ろ足も共にやけに太い。馬のラインは辛うじて守ってあるものの、あんまり丸すぎて牛にも見える。首の長さと鬣がなければ牛だと断言しても差し支えはないだろう。足の太さを鑑みるに、どうやら前と後ろの二人がかりで動かすタイプのためであるらしく、であれば着ぐるみを二つ並べてくっつけているようなもので、無論、それなりに大きい。顔の各部分のデザインはアニメチックだ。目も鼻も大きくて丸々としている。口は開閉できるらしく、その間からはプラスチック製の歯がむき出しになっていた。まっすぐ礼拝堂に向けて鼻先を向けているから、ある種、突然現れた礼拝堂のためのオブジェのようにも思えてしまう。
 すなわち一度その立ち姿を見止めれば、物凄い存在感であった。
「?」
 ニトロは眉根を寄せた。
 何だろう、白馬から、その存在感以上に物凄い視線を感じる。
 自然、ニトロの足が止まる。
 すると白馬がのそっと動き、礼拝堂に向けていた鼻先をニトロに向け直した。
 当然、白馬に集まっていた視線の何割かがニトロに移る。
「……」
 目深に被った帽子の下で、ニトロは口の端が軽く引きつるのを感じていた。
 胸の内には『嫌な予感』が急速に湧き出してきている。
 彼はコートの内ポケットに手を差し入れるや携帯電話のショートカットキーに触れ――と、その瞬間、まるで嘶くように白馬が後ろ立ちとなり高々と前足を振り上げた。
 そして、
 なんとそのまま二足歩行で走ってくる!

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