山中の公園には緩やかな起伏があり、広場の傍らには小さな高台がある。ニトロはしばらく美しい花景色の中を歩き回った後、その高台の端に腰を落ち着けていた。
 高台――といっても池に面する広場との高低差は5m程度だが、池を一望するには十分で、何より、ここから見える景色は公園の中で最も素晴らしい。ニトロはそう思った。
 湧水を湛える池と、広場を包み込む桜の群れ。背後からは花吹雪が開けた広場の上空に舞い流れていく。
 最高の花見スポット。
 ――ニトロは、未だに信じ切れなかった。
 この光景が、つい数日前に作り上げられたものだとは……
「始めは意心没入式マインドスライドで楽しんでもらおうかなーと、撫子に仮想空間にこういう風景を作らせていたんですよ。ですが、ちょうど良いタイミングでおひいさんに会いましたので、頼んでみたんですね」
 地面に敷かれたブルーシートの上でちょこんと正座して、まだ少々目を回したままハラキリは『言い訳』を続けている。
「グリワレント廟のある山に有名なヤマザクラがあるんですが、知ってます?」
「知ってるよ。樹齢千年を超えた老木。母さんが一度生で見たいと言ってた」
 ニトロは、バカ女が持ち込んだ貝の中にあった通信機を用いて――王女の執事いぬにコンタクトを取り――手に入れたサンドイッチを齧りながら答えた。もちろん、サンドイッチは先に一千切りハラキリの口に突っ込んで毒見をさせてある。
「それで、それが頼みごととやらに関係あるのか?」
「ええ。あの老桜はちょうど見頃のはずですから、そこで宴会させろと」
「いや……あそこは十四代の王墓じゃないか」
「敷地全てが墓ではありませんて」
「まぁ、そうだけど……さすがに不謹慎だろ」
「ですからブレーコー」
「それはもういいって」
 ニトロは苦笑し、プラスチックコップに継いだコンソメスープを一口飲んだ。一度は食べたことのある――しかしどうもいまいち味を覚えていない名店のスープは、素晴らしい味と香りを口内に広げる。
「で、そうしたらお姫さんが『それならもっといい案がある』と仰って、結果はニトロ君が目にしている――と、そういうことです」
「そういうことです、って軽く言うなぁ」
 ハラキリの言葉に呆れ声を返し、ニトロは一つ息をついた。
「でもなぁ、それなら、俺は仮想空間で良かったよ?」
「またまた心にもないことを」
 そのハラキリの切り返しは速かった。ようやくダメージが抜けたらしく、足を崩して一度衝撃のため詰まった首を伸ばすようにストレッチをし、
「どれだけ深度レベルを高めたところで、仮想空間より現実こちらがいいでしょう? その味だってこっちでなければ味わえない」
「……」
 ニトロには、反論はできなかった。
 確かに、この絶景を前にした感動は――どんなにそれを『現実そのものだと思い込んでしまう』レベルまで脳を仮想空間に繋げたところで味わうことはできなかっただろう。廃人になるほど仮想空間に長期滞在していれば話は別だが、少なくともハラキリに誘われて行く程度の短期滞在では無理だ。
 それに……ハラキリの言う通り、このサンドイッチは現実にしかない。
「でも」
 それでも何となく悔しくて、ニトロは反論を試みた。
「このバカが一緒だと楽しめない」
「そのバカのお陰ですよ。これ」
「そうだけどさ……」
「まあ、いいじゃないですか。『このバカ』なんかこの絶景を楽しむためのコストと割り切っちゃえば」
「うわひっど。ハラキリ君、その言い草いくらなんでもひっどい!」
 と、二人の横から抗議の声が上がった。しかし二人はひとまずそれを無視して話を進めることにした。
「ハラキリからしたらただのコストでも、こっちにしたら異常な危険物だよ」
 抗議を無視され、しくしくしく……と哀しげな泣き声が届いてくる。
「それは否めませんし否定もしませんが」
 ハラキリも、ニトロと同じサンドイッチを手に取って、それを齧りながら気楽に言った。
「まあ、そのうち慣れますよ。危険物の取り扱いにも」
「慣れそうにないし、慣れたくもないんだが」
「そうは言っても慣れてしまうのが人間の悲しい習性で」
 しくしくしく……と哀しげな泣き声が続いている。
「そうは言われても慣れる前に神経やっちゃいそうな予感がバリバリなんだけどな」
「相談くらいならいつでも受け付けますよ。限界迎える前に遠慮なくどうぞ」
「……つうか、限界以前にハラキリがもっと助けてくれたりガードしてくれたりするとずっと楽なんだけど」
「それはかえってニトロ君のためにならないでしょう。拙者はいつも近くにいるわけではありません。結局人は一人ですから、程度問題はあるにせよ、それなりに一人で身を守れるようにならないと。特に、君の『立場』にあっては」
 ハラキリにこうもばっさりと言い切り続けられては、ニトロは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「厳しいなぁ。もうちょっと友達には優しくしようよ」
「君の相手はそれだけ厳しい敵ってことですよ」
「それは否めないし否定もしない」
 先ほどハラキリが口にした言葉をそのままニトロが返す。そのやり返しにハラキリが笑い、ニトロも笑った。その傍らには、未だしくしくしく……と続く哀しげな泣き声が。
「ああ、そうそう」
 ひとしきり笑ったところで、ハラキリは言った。
「ところでニトロ君。今、君は例の異常な危険物を前にしているわけですが、どうです、そのサンドイッチは美味しいでしょう?」
「信じられないくらい美味しいけど……何で?」
 しくしくしく……という哀しげな泣き声が、ぴたりと止んだ。
「この前は味わえなかったと言っていましたが、それじゃあ勿体無い。目の前の危険物に意識を集中し過ぎるのも問題ですし、品と味の記憶が混線するほどおかしな心理的緊張を繰り返していたらそれこそ本当に神経をやってしまう」
「それは解って――」
 言いかけたニトロの言葉を、ハラキリは手を差し出して制した。
「もう一度、言います」
 ニトロへ差し出した手を一度握り込み、それからぴっと人差し指を立て、
「目の前の危険物に意識を集中し過ぎるのは、問題です」
 ハラキリの眼差しは驚くほど鋭く、ニトロは思わず息を飲んだ。
「それは非常によろしくありません。例えば君の背後から薬を注射しようという者がいたらどうします? “目の前”の言動に集中するあまり、それに気づけなかったら。当然、そのような状態では脱出のための千載一遇の好機が足下に転がっていたとしても、それすら容易に見逃してしまうでしょう」
「……」
「だから、もうちょっと余裕を持つことをお勧めします。少なくとも、今のように拙者がいなくたって、料理の味くらいちゃんと覚えておけるくらいには」
「……目の前に危険物を置いておくのは、美味しい思いをするためのコストだって割り切って?」
「そういうことです」
 軽く肩をすくめてハラキリは言い、手のサンドイッチを食べ切った。その満足そうな顔を見て、ニトロは思わず笑った。
「どうしました?」
 怪訝な顔で、ハラキリが問う。
「いや、なんかさ……ハラキリって、『師匠』って感じだよな」
「そうですか?」
 首を傾げるハラキリの様子にニトロはくっくと笑って、それから大きく息を吐いた。
「まあ、でもそうだね。もちろんその『コスト』を払う状況に陥るのはごめんだけどさ」
 その言葉はハラキリだけではなく、別の方向に向けた言葉でもあった。それを理解しながら、ハラキリはニトロに先を促した。
「もちろんそう簡単にはいかないだろうけど……今後はどんな風に捕まっちゃっても、できるだけ今くらいの余裕が持てるように、努力するよ」
「頑張ってください。応援してますから」
「あ、でも、そうは言っても本当に適度に助けてくれよ? 応援だけじゃなくて」
「ええ、一応助けますよ」
「いや一応じゃなくてもうマジで。だってほら、多分近いうちにすんごく追いつめられると思うんだ、努力したところで余裕を失っちゃうこともあると思うんだ、例えば明日とか」
 つい数十秒前の決意表明はどこへやら。すでに余裕を失いかけているニトロの言葉を聞いて、ハラキリは笑った。明日――確かに、間違いなく彼は追いつめられるだろう。
「いやしかし、それが判っているのならいっそ出演をぶっちぎってはどうです。ご依頼いただけるなら放送終了時間まで逃がしきってみせますよ?」

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