それから十分も歩いたところで、遊歩道は大きな傾斜を見せた。
 前景は斜面の向こうに隠れ、道に並行する川は早瀬となってザアザアと騒ぎ立てている。水の青と泡の白によって刻まれた幾百もの流線の上に跳ぶ飛沫は、まるで春の光を閉じ込めて輝く水晶玉のようだ。そしてその下には――幾百も絶え間なく、あるいは幾千も絶え間なく、水面に、それとも水中に泳ぐ淡紅色の花弁がある。
(……なんだろうな)
 坂を登りながら川を眺め、ニトロは思った。
 あの花は、どこかで見たことがある。どうにも名を思い出すことができないが、少なくとも観賞用としてメジャーなものではなかったはずだ。むしろ、実用的な植物だったような気もする。
(それに)
 あの花弁の量は尋常ではない。川に飲まれるものだけでなく、地にも散らばり、時折空を漂ってそこかしこにひらひらと舞い落ちてもいる。この先には一体どんな植生があるというのだろうか。例えば川の両岸を、数キロに渡ってたった一種の草花が埋め尽くしているのだろうか。いや、それとも――
(木の花?)
 そうだ、春に花開かせる樹木に、このような花を咲かせるものがあった。
 ニトロは記憶を探った。確か果樹の一つだ。梅だったろうか、桃だったろうか、林檎だったろうか……。坂の頂に近づく。坂向こうの景色が地表に浮き上がってくる。そこに、花弁と同じ色の冠を戴く木々を見た時、
「……お」
 ぱァっ――と。
     一瞬にして、ニトロの世界の色が変わった。
 彩度が、コントラストが
 鮮やかに、
 色 鮮やかに――
「おお」
 坂を登り切る。
 眼前に広がる光景に、ニトロは感嘆を禁じられない。
 嗚呼、嗚呼……
 なんて美しいんだろう!
 彼は自然と足を速めた。
「おおお」
 遊歩道の傍らに、公園があった。
 広い公園だ。競技場スタジアムの三つくらいなら駐車場込みで建てられるだろう。
 そしてその広い土地のほぼ全てを――春の山の内――小さな盆地の体をなす山間の底を、たった一種の樹木が見事爛漫と埋め尽くしている。
 たった一色の花が、その濃淡のみをもって幻想的な世界をそこに描き現している。
 心地良い風が吹く。
 一斉に花が散る。
 青空と新緑芽吹き出した山を背景に、幾千幾万の淡紅色の花弁が宙に舞う。
 視界を覆う花吹雪。
 まるで神話に語られる妖精の花園。
「おおおおッ」
 桜だ!
 ニトロは、もはや疑いようもないその名を心中高らかに響かせていた。
 だが、以前に観た、サクランボのそれとは様子が違う。
 両親と行った山登りで観たヤマザクラともまた違う。
 果実の出来を優先して品種改良されてきた果樹は花数少なく、山肌に生える野生種は子ども心に力強さと美しさを感じさせたものだが、花は色濃く開花と共に葉も多く開いていた。
 おそらく、そこにあるのは、園芸品種の一つであろう。ヤマザクラを観た翌日、母の『お花図鑑』で見た桜の中に同じものが確か、あった。しかし、図鑑の立体写真ではこの感動は得られなかった。得られようはずもなかった。
日本にちほんでは、春になると『オハ・ナミ』というパーティーを開くそうです」
 遊歩道から分かれ公園へと伸びる小道を足早に行くニトロに追いついて、ハラキリが言った。彼は頬に密やかな笑みを刻み、
「本来は『サクゥラ』や『ソメィヨシノー』なる品種を愛でるようなのですが、調べてみるにこの品種がほぼ同様の特徴を有しているのでちょうどいいでしょう。一本でもあれば良いようですが、このように群生した状況が特に最高だそうですよ」
 公園の入口まで来たところでニトロはぴたりと足を止めた。
 園の内外の境を示すよう、整地された小道の両脇に背の低い石柱がある。風化を防ぎ苔生さぬための処置が施されたその人工石の柱の片方には、どうやら元々プレートが嵌め込まれていたらしい跡がある。それは公園の名を標したものであったのだろうが、誰かの悪戯か、今は形も無い。
 ニトロは、門柱の役目も果たすそれらの結ぶ線上に立ち、ぐっと両の拳を握った。
 彼の立ち姿は仁王立ちと言ってもいいものであり、肩にも背にも力が入っている。
 ――その様子に、ハラキリは少し不安を感じた。
 まさか、この段階でティディアが絡んでいることを勘付かれたのだろうか。
「どうしました?」
 あくまでさりげなく、どうして立ち止まっているのかと訊ねる風に――また、そう訊ねているとしか捉えられない口振りで、ハラキリはニトロの隣に肩を並べて問うた。
 と、
「ッ凄いな!」
 バッと顔をハラキリに振り向け、ニトロが発したのは鼻息荒い感動だった。その顔色は花を写し取ったかのようにほの紅くなり、双眸はカッと見開かれ――思わぬ……いや、予想を遥かに超えた友人の反応に、ハラキリは思わずぎょっと身を引いた。
「いや、これは凄い! 日本にちほん、凄いな、凄いよ!」
 ニトロは明らかに興奮している。テンションは跳ね上がり、瞳孔まで開き気味だ。好反応を予想してはいたものの、ハラキリはニトロがここまで声を高めて賞賛を繰り返すとは思いもしなかった。
「そんなに、ですか?」
 だから、その問いはハラキリの無防備な疑念であった。
 普段から人に本心を掴ませないハラキリの、飄々とした風体の剥がれた顔を見て、しかしニトロは怪訝な素振りの一つも見せずに大きくうなずいた。
「凄いよ。何て言うのかな……」
 ニトロは園内に眼差しを向けた。
 入口からしばらくは路がまっすぐ伸びていて、路の両脇には桜が何十と植え込まれている。さらに奥行き全てに何百と桜が根を下し、そのいずれもが満開の花を開き、空にはひらりひらりと花弁が舞う。
 絶景。
 まさに絶景。
 桜色のトンネル、この路を抜ければ人知れぬ異世界へ辿り着きそうだと本気で思わされる。現実の中に具現化した非現実、それとも、非現実な幻想が現実と化したのか。これほど無尽蔵に花が開いているのに、桜の存在感にはどこか希薄な面がある。淡い色合いがそうさせるのか、どこを見ても目に入るのに過ぎて己を主張せず、むしろ飾りとなって周囲を引き立て周囲と調和し、しかしそうでありながら、いやそうであるからこそ己をその場に鮮烈に誇示する――矛盾に満ちた成立。香りすらも花数に比して信じられぬほど謙虚で現実感がなく……そして、だからこそかぐわしい。
 一度、風が吹けば、視界一面には無限とも思える花のひとひらが夢幻に吹雪く。
 舞い踊る花吹雪は刹那にしか存在できぬ美を空に描き、また、刹那から刹那、さらに次の刹那へと目まぐるしい美の連鎖を生み出して、心を――もしかしたら魂までをも幻惑する。
 だが、魂までをも幻惑しそうなこの花吹雪こそ、この風景を前に心を正気に保たせてくれるものでもあった。
 これは現実だ、と。
 花が散る――その花の命が尽きる微かな死の事実こそが「これは現実なのだ」と儚く教えて、夢幻の世界の一歩手前で踏み止まらせるのだ。
「…………」
 ニトロは大きく息を吸い、そして脱力するように吐いた。
 駄目だ。この光景を評する言葉を、自分は紡げない。
「上手く……言えないけどさ。こう……例えば詩の一編でも詠みたくなるっていうのかな」
 腕を組んで首を傾げて自信無げにつぶやくニトロの姿を見て、先ほどまでの興奮とのギャップにハラキリは小さく笑った。
「つまり、とにかく心を打つ――ということでよろしいですか?」
「そう! それだ! ……うん、そうだ、それでいいんだ、感動するんだ!」
 と、再びニトロが興奮も新たに、ハラキリの指摘に我が意を得たりとばかりに拳を握った。ハラキリは、今度はぎょっとはせず、ただ笑みを深めた。

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