一度家に帰って着替え、それから迎えに来たハラキリの韋駄天に乗って西へ約三時間の空を行き。
ハラキリがニトロを連れてきたのは、王都に隣接するビネトス領にある町、ウァレを囲む山の内だった。
「ああ、『ハラキリ』って、そういう意味だったんだ」
周囲は土の匂いと新緑の香りに包まれて、穏やかな昼下がり、ぽかぽかとした陽気は体だけでなく心までも温めてくれる。
「それにしても謝る度に腹を切るなんて、随分丈夫な民族だな」
韋駄天を町の駐車場に置き、二人は山間の遊歩道を歩いていた。だが、遊歩道というわりに、二人が踏みしめる道は随分と荒れている。
「拙者も初めて母から聞いた時は、子ども心に耳を疑いましたけどね」
山間部にぽかりと拓けた小さな盆地に発展したウァレは、周辺の景観の良さから過去は気軽に軽登山を楽しめる土地として人気を博していた町だ。しかし、ちょうど半世紀ほど前に近隣の盆地が人気ドラマの舞台となった際に客を奪われ、さらに当時、元よりの人気にあぐらをかいて何の手も打たなかったことが原因となって、以降、捲土重来の機会もなく衰退の一途を辿っている。
ニトロとハラキリが連れ立って歩く道は何本もの登山ルートへ枝分かれる幹線も兼ねており、隆盛を極めた当時は平日でも多くの登山客が歩を共にしていたのだが、現在ではろくに手入れもされていない。
「しかし色々と聞いていると基本的にタフな民族らしくて」
「タフ?」
「亀に乗って生身で深海に潜り数日間海底で歌い踊ってから生還したり、竹製のポッドで大気圏突入しても生き延びる乳児がいたり」
「……」
ニトロは、ハラキリに怪訝な眼差しを送った。
「
「映像も観たことありますが、
「ってことは取り立てて珍しくもない平均的な人間でそんなことができるって?」
「伝聞ですから、多少の誇張はあると思いますけどね」
と、釈然としない様子のニトロに、ハラキリはどこか楽しげにうなずき返しつつそう言うと、前方に見える分かれ道を左に行くべく進路をとった。
「……山登りに来たわけじゃないのか?」
右の道は傾斜を増して、その鬱蒼とした森に消える先はほとんど獣道となっている。蔦の絡むボロボロの看板には、そこが登山ルートであることが示されていた。思えばハラキリは、道の分岐に差し掛かるたび登山ルートを避け、迷うことなく山裾のこの遊歩道を進んでいる。
緩やかな勾配はあれども歩く足への負担はごく弱く、左手に川を臨み、川に沿って山陰へと伸びる道の先を見ながらハラキリは言った。
「別に汗をかきに来たわけではありませんから」
「……なぁ、そろそろ何を企んでるのか、聞かせてくれないか?」
「言ったら面白くありません」
「……何かその言い方、あのバカにそっくりなんだが」
その声の底には、怯えがあった。しかしハラキリは飄々と、
「気のせいですよ。それとも、ニトロ君はネタバレした映画を楽しんで鑑賞できるタイプですか?」
「できないタイプ」
「なら黙っておきます。きっと、君には喜んでもらえることかと」
「まーた『君には』とか気になる言い方をする」
「お母上は園芸が趣味なんでしょう? ニトロ君は、幼少の頃、よくそれに付き合わされていたと言ってましたよね」
「何だ? いきなりヒントか? っつっても、俺は園芸が趣味じゃないぞ?」
「花を愛でる気持ちは持っている、と見越しているんです」
「それは……無いとは言わないけど」
ニトロは顎に手を当て一度考え込み、
「なぁ、ハラキリ」
「はい?」
「何だかんだでネタバレしてないか?」
「これくらいは“さわり”ってところです」
「……そうかい」
ハラキリは飄々として、いつも笑っているような顔から彼の真意を掴むことは難しい。
「それじゃあ、黙って期待しておくことにするよ」
何やら白い――花弁だろうか。視界の左端に川を飾る白点を捉えながら、ニトロは言った。
と、話題が切れたそこに、
「とは言っても、」
「ん?」
「“ハラキリ”するのは、本来は特に『ブシ』という支配階級の特権だそうで」
普段は積極的に自身に関わる話題を振ることのないハラキリが、さらにかなり無理矢理話題を戻してくるのは珍しいことだった。ニトロは当然疑念に駆られてハラキリの横顔を見、そして悟った。
(あ、なるほど)
先ほど、彼がどこか楽しげにうなずいていた理由が分かった。
単純に、楽しいのだ。
きっと今までは友達との会話にこういう話題を入れられる機会がなかったのだろう。
「そんな痛そうな行為が特権?」
友達の機嫌の良さをそのまま反映したニトロの楽しげな促しに、ハラキリはうなずいた。
「それだけ強い覚悟を伴った崇高な謝罪行為、という位置づけでしょうか」
「ああ、なるほど。一種のステータスを示すものでもあるわけなんだ」
それなら理解もしやすい。限られた者だけに許された行為、というものはどこの国にも多く見られることで……確かムットーという
“ハラキリ”と言う行為も、多分それに類するものだろう。
「それじゃあ、その『ブシ』以外にはやれないんだね」
「いえ、『ブシ』以外に『サムライ』も行って良いそうです」
「『サムライ』? それも階級?」
「……どうなんでしょうかねぇ。聞く限り、階級でもあり、観念でもあり、というような違うような」
ハラキリは首を傾げて腕を組み、数拍の時を置いて、言った。
「概念的には『カタナ』や『ポントー』と呼ばれる刀を携えているそうで、とにかく強いそうです」
「強い? おかしいほどタフな民族の強いって、どんなの?」
「その動作は甲冑を身につけながら目にも止まらず、剣を振れば岩や金属をもやすやすと斬り裂き、しかし、自身はそれで何度斬られようと絶命しない」
「……それで?」
「必殺技を持っている」
「……何か、嘘臭くなってきたぞ?」
「『ブレーウチ』という必殺技はどんな者であろうと斬れるそうです」
「いや、既に普通に岩とか金属とか斬るって言ってなかったっけ」
「さすがにそれを食らっては、例え『サムライ』であっても死ぬそうで」
「ああ……必ず殺す技、だもんね」
「最終的には未来予知をして攻撃を避け、『イァイ』という道を踏破したものは鞘に収めた剣を光速で抜き打ちし、あまつさえただの金属の刀身からビームやレーザーを出したり、逆に敵のそれらを跳ね返したり。いざとなれば素手でも同様のことができるとかなんとか」
「…………何つーか、まるでゲームのキャラクターみたいなんだねぇ、その『サムライ』って。で、それが出来たら『サムライ』になれるの?」
「そのようですよ。元の身分が何であろうとそうして身を立てられる、例え『ブシ』にならずとも『ブシ』に匹敵し、場合によってはそれ以上の人間となれる。そのような存在である『サムライ』は、現地では一種神的な偶像ともなっているほどだそうです」
「偶像?」
「ほら、ウチでも貴族の騎士号とも軍の騎士号とも別に『騎士』や『聖騎士』などと聞くでしょう? 代表選手団を、アデムメデス○○騎士団――とか」
「ああ、そういうのなら何となく理解できる。うん、何か同じヒューマンっていうのに親近感も沸いてきた」
ニトロの反応を見て、ハラキリはどこか面白そうに微笑を浮かべた。
「母は当初、辺境の少ない情報の中にあっても数多く出てくる『サムライ』の正体が掴めず、しかも何の共通項もない様々な分野で様々な形態の『サムライ』を確認できるため非常に困惑していたそうですが……」
「うん」
「今の君のように『自分達と同じ感覚』がそこにあると気づいた時には、やっぱり親近感を覚えたそうです。それでいよいよ
へぇ、と、ハラキリの語りに感嘆を返し……ふとニトロは気になった。
「そういやおばさんは、何でそんな所に興味を持ったの?」
「母の名はランといいます。初めて見た『サムライ』が凛々しい婚約者のことを発音も同じに“ラン”と呼んだ時には驚いたそうですよ」
へぇー、と、ハラキリの答えにニトロは再び感嘆を返した。なるほど、異国にも自分の名があり、それを好意的に呼ばれたならば心を引かれよう。
「それで、母は思ったんです」
ふいに伝聞の言葉遣いではなく、ハラキリは断定の口調を使った。その唐突な変換にニトロははっとして、道の先を見ていた眼をハラキリに向けた。
ハラキリは、遠い宇宙の向こうを差すようにぴっと人差し指を立て、
「自分の子には
「へぇ」
そう言われると、友達の珍しい名前が何とも重みを帯びて感じられる。またもニトロの口から漏れたのは、心の底から素直に昇ってきた感動だった。
「とは、言っても」
と、そこに重ねられたハラキリの再度の言い回しを聞き、ニトロはぴくりと眉を動かした。
「何だよ。まだ何かあるのか?」
「これは異文化についてのことです。この分野ではそれまでの理解が翻るのも茶飯事。ですから、『ハラキリ』の本当の意味は全く違うものかもしれません。でしょう?」
「……うん、まぁ、そうだけど……」
「母は自信があるようなんですがねぇ、拙者はこの点についてはどうにも間違えている気がしてならないんですよ。ひょっとすると、真実を知ったら拙者は赤面して泣いちゃうんじゃないかってくらいに」
そう言いながらも決して赤面して泣くことはないだろうハラキリのとぼけたセリフにニトロは少し吹き出して、それから少し意地悪なことを聞いた。
「それ、おばさんに言ったことはあるのか? 本当は変な意味合いだったらどうするんだって」
「ありますよ」
「おばさんは、何て?」
「こう酒を飲みながら……違ってたら悪い、あっはっは」
「うわ、そいつぁひでぇ」
「ひどいでしょう?」
ニトロが発した呆れ声に対し、ハラキリは気楽に応える。
その応答があんまり他人事のように気楽だったものだから、ニトロが思わず歩を止め友に顔を向けた。と、そこにちょうどハラキリも振り向いて、二人の視線がばちりと噛み合い、あんまり見事な視線の正面衝突の衝撃は滑稽なまでに二人の目を同時に丸くさせ――
「そいつは、本当にひどいもんだね」
「ええ、全く。本当にひどいものです」
視線を合わせたままもう一度言い合って、それがにわかにとてもとてもおかしく感じられ、そうして二人は、大声を上げて笑った。