後ろ手にドアを閉めたニトロは、階段に向かって歩く『フーニ』を足早に追った。横に並び、横目にこちらを見てくる女教師のグリーンアイを同様に横目で見返す。
 深夜の学校、静かな廊下。
 薄暗い中をカツカツと彼女のヒールばかりが硬い音を立てる。並び歩くニトロのスニーカーは彼の油断の無さを表すかのように音を潜めている。
 生物準備室からは幾分離れた階段脇にあるトイレまであと十数歩。母のいる部屋から距離も取れたところで、ニトロは本題に入ろうと固く結んでいた唇をほどいた。
「ところで」
「何だ?」
 『彼女』は誘い出されたことを理解しているだろうに……それでも聞き返す『フーニ』の口調は変わらずフーニのままだ。
 ニトロは半ば感嘆にも似たものを感じながら、しかし鋭く言った。
「母さんへのプレゼント、本当にありがとう。でも場合によっちゃ怒るよ。ヴィタさん」
 ガツ、と、一際大きな足音を立てて『フーニ』が立ち止まった。
「何?」
 ハスキーな声が不信を刻む。
 それに構わずニトロは彼女の手首を掴み、叩きつけるようにして彼女を壁に押し付けた。壁に押し付けられた『フーニ』は驚愕のあまり目を大きく見開きニトロを凝視した。己の動きを封じる少年の力が存外強く、背と手首の痛みにしかめられた彼女の顔に怯えが混じる。
 驚くほど、抵抗が無かった。
 怪力を持つヴィタ相手だ。返り討ちに合うことも覚悟していたニトロの脳裡に『これは本当にヴィタか?』という疑念がかすめ、その疑念に彼はたじろぎそうになったが、意を決して顔を突きつけ極間近に彼女と双眸を合わせる。
「何をっ――」
 今にも悲鳴を上げそうな『フーニ』に、ニトロは囁いた。
「ここまで近ければカラーコンタクトをつけているって判るよ。それに、その下の瞳がマリンブルーだってのも、もう判ってる」
 『フーニ』が唇を硬く結ぶ。ニトロは続けた。
「もしヴィタさんじゃなかったら、失礼。でもそれならあんたは誰かな? フーニ先生の姿は確認してある、彼女の瞳は青くない。彼女の姿を借りて何をしようとしている? 他人になりすましてまで、何を企んでいる」
 ニトロの語気は強まり、目には異常な気迫がみなぎり始めていた。
「親を巻き込むような相手なら容赦はしない。このまま――」
「乱暴になさいますか?」
 ふいに、彼女は微笑んだ。
 ……涼やかに。
 その声音からはハスキーさが嘘のように消えて、彼女は、ニトロに掴まれていない手をそっと手首を掴む彼の手に添え、馴染みのある声で囁いた。
わたくしの負けです、ニトロ様」
 クィービィ・フーニの顔が、見る間に見慣れた麗人のものへと変化していった。こけた頬は張り、流麗なラインがおもてを縁取り、一目では雰囲気を掴み切ることのできないミステリアスな相貌へと。
 カラーコンタクトがあるため瞳はライトグリーンのまま、髪型も色もそのままであるため違和感は残るが、そこにいるのは確かにヴィタ・スロンドラード・クォフォ――アデムメデス第一王位継承者の女執事だった。
 ニトロは素直に正体を明かしたヴィタを解放し、一歩下がって間を広げた。
「……で」
 彼の顔には未だ険悪な影が残る。まるで挑みかかるように犬歯をむき、彼は問うた。
「何のつもり?」
「リセちゃんにプレゼントを」
 母とちゃん付けで呼び合う園芸仲間のしれっとした言い分に、ニトロは頬を引きつらせた。ふざけんなこの阿呆の手下。彼の顔面に如実に現れた警告を見て取ったヴィタは、即座に言葉を返した。
「何も害のあることは考えていません」
「お前らのやることなすこと全て俺にとっちゃ『害』だ」
「それは少々……酷過ぎないでしょうか」
「胸に手を当ててよぉく考えてみようか。もう一度だけ反論を聞くよ」
「酷過ぎます」
 胸を張ってヴィタは反論した。全く悪びれもせず、全く己の主張が真実だとその目は力一杯語っていた。
「……どっからその自信が出て来るんだか……」
 ニトロは眉間に刻んだ皺を指で叩き、気を取り直して言った。
「プレゼントってんなら、さっきヴィタさんが自分で言ってたようにこんな回りくどいことして渡す必要ないだろ」
「はい」
 ヴィタはさらりと肯定する。
 ニトロは詰問のリズムをこの食わせ者に崩されないよう間を置きながら、もう一度単刀直入に訊いた。
「目的は?」
「リセちゃんにプレゼントを」
 さすがはクレイジー・プリンセスの腹心。解り切っていることだが、彼女もやはり一筋縄ではいかない。
「あまり嘘をつくと、怒るよ?」
「嘘はついていません」
「……フーニ先生は?」
「今頃、酔っ払って爆睡中でしょう」
「本当に?」
「お疑いならホテル・ベラドンナへご確認を」
「分かった、信用するよ。それで目的は?」
「リセちゃんに喜んでもらおうと」
 ヴィタはよどみなく答えた。流れの中で彼女がうっかり口を滑らすことはないとニトロは解っていたが、それでも思わず引きつり笑いを浮かべて内心ため息をついた。
嘘は、ついてない。か)
 とにかく、母にプレゼント、というのは紛うことなき『目的の一つ』であるようだ。だったら確かに彼女の言葉に嘘はなく、このまま『目的』という大きな枠で問うても何にもならないだろう。ニトロはツッコミ方を変えることにした。
 相手の目論見を推測している時に浮かんだ可能性をぶつけてみる。
「これからティディアのいるパーティー会場に連れていって、サプライズゲストにする気だった?」
「いいえ」
「それとも、ティディアの『優しいお気遣い』で俺のポイントでも稼ぐつもりだった?」
「はい」
 ヴィタは、さらりと肯定した。
 ニトロは軽い頭痛を覚え、それを消すために深い嘆息をついた。
「それを言っちゃ、逆に減点じゃない?」
「嘘がバレれば、そちらの方が減点が大きいでしょう」
「すでに俺の……俺達のこと騙してたじゃないか」
「一つの嘘は、そこまでで。嘘に嘘を重ねて大事に至ってはティディア様にも申し訳がありません」
 ヴィタは印象的なライトグリーンの瞳をニトロに向け、言う。その様は常に堂々としてあり、気高いプライドすらをも感じさせる。
 ニトロは彼女の毅然とした態度に何だか毒気を抜かれてしまった。
 騙す、嘘をつくという行為は決して誉められるものではないが……
「……目的は?」
「以上です」
 で、あれば。
 クィービィ・フーニにヴィタが化けていることに気づかなければこのまま帰らされ、母はプレゼントに大喜び、自分は何も無かったことに安堵しつつティディアの気遣いに戸惑っていただけか。
 ヴィタの言う通り、騙され続けていたとしても実質的な『害』はなかったろう。
 しかし、解せない。
 確かにそうなれば自分はティディアの気遣いを記憶に留める。留めるが、それだけであいつに好意に抱くほどのものでは決してない。それはあちらも解っているはずだ。それなのに、
「手がこんでるわりに効果は小さいんじゃないかな。労力に見合わないよ」
「無駄ではありません。小さなことからコツコツと、です」
「今さら遅いって」
「それでも、マイナスではありません」
「仕込みがバレちゃったんだからもうマイナスだよ」
 ニトロは鼻を鳴らして、はたと思い出した。
 今日この件が『ポイント稼ぎ』だったのなら、そうだ、今度はヴィタの不自然な行動に説明がつかない。バレたらマイナスなのに自ら正体を見破れと促すようなヒントを出すというのは、彼女らしからぬ行動ではないか。
 もしや、『嘘』はまだ続いているのかもしれない。
 ニトロは緩みかけていた気を引き締めヴィタに疑惑の目を向けた。すると、それを敏感に察知した彼女は再び彼の問いを促す眼を返した。
「気のせいだったら恥ずかしいんだけど、さ」
「はい」
「何でヴィタさんは……『ヴィタさん』だって気づかせようとした?」

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