「何がです?」
「わざわざわたしにダバパヘクランタを譲るよう頼まなくても、王立の研究機関なり植物園から持ってきた方が手間も省けて早い。だろう?」
「ああ、まあ、そうですね……」
「だからこの話を受けた時、わたしはそうすりゃいいと言ったんだ。だが、そういうところから特別に分けさせるのは公私混同になると、ヴィタは言った。それは主人の望むところじゃないってね」
ニトロは、眉間の皺をさらに深くした。
「あいつが公私混同するなんて、今に始まったこっちゃないでしょう」
「この場合、最も恩恵を受けるのは君のお母さんだよ」
言われて、ニトロは気づいた。
確かにそれはそうだ。そして、もしそれが世間に知られれば、例えそこにはティディア側からのプレゼントという善意しかなかったとしても、リセは息子から甘い汁を吸う母親という汚名を着せられてしまう危険がある。
では、それを避けながら母への贈り物を手に入れるには?
最適なのは、持ちうるコネクションの中で最も『王女の権力』が必要のないところから高価な花を得ることだ。部下の趣味仲間というのはなるほど最高の条件だろう。
傍若無人な振る舞いも気にせず行うクレイジー・プリンセスの胸中を理解し、ニトロはそれをどう受け取るべきかと困惑した。母はとても喜んでいる。しかし、母を喜ばせるだけでなくそんな気遣いまでありがとうとはどうにも思えない。っつーか思いたくない。
「まあ……あいつは、色々頭が回りますからね……」
ニトロは、口元に微かな笑みを浮かべるフーニに曖昧な笑みを返し、どうにもこれは心地が悪い話題なので話を変えることにした。
「ところで、ヴィタさんとはどこで知り合ったんです?」
「王城の地下に植物園があるのは知ってるな」
「ええ」
「そこを造るのに
「へえ、それで」
うなずくニトロに、フーニは少しおかしそうに首を傾げた。
「……君は」
「はい?」
「何で立ち続けているんだ? 座ったらいいだろう」
「ああ……そういえば、そうですね」
ニトロは歯切れ悪く応えた。別に座りたくないと思っていたわけではないが、無意識の内に何が起きてもすぐさま動けるようにと考えていたのかもしれない。椅子はすぐ足下にあるというのに全く意識に入っていなかった。
指摘されても立ち続けていてはフーニに不審がられるだろう。変に気を遣わせるのも本意ではないから、ニトロは努めて自然に腰を下ろした。
フーニは満足そうだった。彼女はニトロに視線を定めたまま、次の句を継ぐ間を計っていた。
(……?)
ふいに、ニトロはフーニのその眼差しに、違和を感じた。
半ば落ちた瞼から覗くライトグリーンの虹彩はずっとこちらに向いている。もちろんメインゲストは書類を読むのに一生懸命であるから、フーニの意識が自然とこちらに定まるのはおかしな話ではない。彼女が『ニトロ・ポルカト』と会ったことを生徒に自慢すると言っていたのを思えば、話題の糧に会話を重ねようとするのも極自然なことだ。
――だが、何か違う。
ゆったりと座り腕を組んでいるフーニは、話し相手にただ目を置いているという風ではなかった。身を包む白衣のせいだろうか、なんとなく観察されているように感じ――同時に、心躍らせるシーンを心待ちにして舞台上の役者を見る『観客の目』を向けられているようにも感じる。
それはおよそ『ティディア姫の恋人』に対するぶしつけでミーハーな視線ではなく、かといって初対面の相手の性格を知ろうとする関心からくるものでもない。
ジッとこちらを見るフーニの視線は、むしろ知人のそれとよく似ていた。
面白シーンを一瞬たりとて見逃すまいと、自分と『相方』のやり取りをいつも特等席で見つめている女性の、美しいマリンブルーの瞳に。
(類は友を呼ぶ)
そんな
「どうも……今夜もまたフラレそうな気配だな」
ハスキーな、声。
涼やかなヴィタの声とは全く違う声質。なのに、眼には全く同じ性質。
「やれやれ、身持ち固くて焦らされっぱなしだ」
洒落か皮肉か、うんざりと言うフーニが何のことを示しているのか心をよそにしていたニトロは一瞬理解できなかったが、彼女の視線がテーブルの上にあるボードスクリーンに落ちたのに気づいて隣室のブルームーンベリーのことを言っているのだと合点し――
また、疑念を覚える。
(ブルームーン……)
連想されるのは天に浮かぶ双子月。そして、父親の故郷で月を現す言葉を名に持つ『彼女』の瞳。
フーニは眼を当たり前のようにこちらへ向けている。
何日もブルームーンベリーに焦らされ続けているというのにそちらに対しては随分素っ気無く、こちらがブルームーンベリーを意識したと共にそちらへの関心をなくした様は、まるで年に一度の開花などどうでもいいと言っているかのようだ。
ニトロの違和感は大きくなる一方だった。
もし自分のこの感覚が正しいのだとすれば、フーニは暗に何を示そうとしているのか。
「それでも日が出るまで寝られないでしょう? 明日のお仕事は大丈夫なの?」
リセが顔を上げ、フーニに問う。
「問題ない。睡眠時間が短くても平気な口なんだ。日が出てから寝ても十分だよ」
「へー、すごいわねえ。私はたっぷり寝ないと駄目だわ」
感嘆の眼のリセにフーニが笑みを返し、そしてリセが目を書類に戻す。するとフーニは、やはり視線をニトロに戻した。
他に何を気にすることもなく、迷うことなく固定されたフーニの視線。
ニトロは真正面から印象的なライトグリーンの瞳を見返し――
(――あ!)
その首筋が粟立った。
(しまった、そうだ! ヴィタさん!)
ニトロは、ヴィタの変身した姿を何度も見たことがある。ネコを起源にしたものとイヌを起源にしたそれぞれの
だが、そのどれにしても、一点だけ変化のなかった場所がある。
瞳だ。
初めて会った時にも第一に心に強く刻まれた、美しい瞳の色。
クレイジー・プリンセスの傍らに控える女執事。その双眸に輝く宝玉。
アデムメデスの人間で、今やそのマリンブルーの瞳を知らぬものはおよそいまい。それほどヴィタの目は印象的であり、ミステリアス、涼やかな麗人、クールビューティ、彼女に添えられる様々な形容に確かな裏打ちを与える最大の特徴だった。
だから、フーニのまた印象深いライトグリーンの瞳を見た時、ニトロは無意識の内に一つの可能性を――この『クィービィ・フーニ』がヴィタの化けた姿である可能性を、完全に捨て去っていた。
もしかしたら、ヴィタは瞳の色も変えられるのかもしれない。ただ自分がそれを見たことがないだけで。
そうでなくても、カラーコンタクトを使えば瞳の色を変えることなど造作もないことだ。彼女の眼は夜、暗がりにあると猫の眼のように光を反射させる。その上にライトグリーンを重ねれば容易に印象的な新緑の瞳が出来上がるだろう。それなのに!
「ニトロ君は、ティディア様とはいつもどんなことを話しているんだ?」
「漫才のネタに関することが多いですよ」
フーニの『ニトロ・ポルカト』にかける問いとしては最も自然なものにニトロも最も当たり障りのない答えを返し、彼は努めて無造作にポケットから携帯電話を取り出した。「失礼」とフーニに目配せし、メールを打つ。
<フーニはコンタクトをつけていないか>
文を完成させた後もそこそこの長さの文章を打っているように見せかけ、それからニトロは芍薬への質問を送信した。
彼女の正体はヴィタだ――という疑いを確定させるまでは、軽はずみな行動を取るわけにはいかない。
「あいつは、色々馬鹿なことをするわりに漫才には真面目で、真摯ですから」
あくまでティディア姫の『相方』の立場から言うと、フーニは面白そうにうなずいた。
「アア、コレハネ……」
母の質問に答えながら、芍薬がフーニを
「ネタはどっちが考えているんだ?」
女教師の振る舞いに不自然なところは皆無だ。口調も、わずかな所作もヴィタとは違う。もしこれが演技だったなら、ヴィタの演技力はあるいはティディアのそれを凌駕するかもしれない。
「相方ですよ。あいつが考えてきたネタを練習しながら磨き上げていく、っていうのが基本ですね」
「そうか……。姫様は多才だな、本当に」
「呆れます」
ニトロの素直なのか悪態をついているのか判らない肯定に、フーニは生徒からユニークな答えを返された教師のように笑った。
と、ニトロが手にしていた携帯電話が震えた。フーニに軽く会釈して断りを入れ、彼は素早くメールを確認した。
<コンタクト着用。本来はマリンブルー>
さすがは芍薬。こちらが言いたいことを察し、次に送るはずだった問いの答えまでをも返してくれた。
イチマツは、ニトロの視界の隅で、リセの隣でこれまでと変わりなくサポートに徹している。芍薬自身もフーニがあの女執事だと理解しただろうが、それでも安易に行動を起こさず成り行きをマスターに預けている。
それも、ニトロにはありがたかった。
「練習はいつしているんだ?」
芍薬に了解と返信し、ニトロはフーニに目を戻した。
「毎日、
そして、芍薬と同様にこれまでと同じ態度を崩さず彼女に応える。
(さて……)
目の前にいるクィービィ・フーニ。彼女がヴィタであることはまず間違いない。
しかしそうであるなら、そうであるからこそニトロには解せないことがあった。