「ブルームーンベリーね」
 ニトロが思い出したのも、それだった。
 年に一度、たった一晩の短い間だけ、赤と青のアデムメデスの双子月、その青色と同じ色の花を咲かせる風変わりな植物。その果実は生のまま食べるには適さず、愛好家にはもっぱら夢の世界から現れたように咲く花を観賞するために栽培されているものだ。
「蕾も大きい……」
 楽しそうにボードスクリーンを見ながらリセが言う。
「いつ咲いてもおかしくないわね」
「ああ。だけど咲かなくてもおかしくない。そいつは咲き時を見極めるのが難しくてね」
 リセは笑った。
「前に友達が泣いてたわ。三日間ほとんど徹夜して、耐えられなくて寝ちゃった日に咲いた、咲いたら起こすようにA.I.に言ってたけど起きられなかった、朝起きたらもうしぼんじゃってて切なかった! って」
「花言葉は『意地悪』。それそのままの花だからな。お友達はいいように弄ばれたね」
 リセとフーニは旧来の友人のように言葉を交わしている。
 こうやって誰とでもすぐに打ち解けるのはリセの特技だ。他人に警戒心を抱かせない雰囲気が影響しているのだろうか、ニトロは母のこの特技に子どもの頃から何度も感心させられてきたものだった。
「これはどこに?」
「隣にある。昼夜の光量差に敏感なやつだから……そうだ、言ってなかったな。強い光を受けると花を咲かせないから、そこは開けないようにしてくれ」
 フーニは隣の生物実験室につながる扉を示して言った。
 そう言われると極自然な流れでうっかり扉を開けてしまうのもリセの特技だ。ニトロはそれをさせぬよう注意しておこうとしっかり胸に留めた。
「さて、それじゃあリセさん。約束のものを渡す前にやらなきゃいけないことがあるんだ」
「うん、ヴィタちゃんから聞いてる。読んだり書いたりしなきゃいけないものがあるんでしょう?」
 話が早いとフーニはうなずいた。
 引き出しから新しくボードスクリーンを取り出した彼女はそのカードスロットにメモリーカードを挿入し、何やら操作してから簡素な椅子に腰を下ろしたリセの前にそれを差し出す。
 テーブル越しに頭だけ見えるイチマツの影でごとごとと音がし、それが止むとぴょんとイチマツの体がテーブルの上へ飛び出てきた。どうやら音は足場とするための椅子を動かしていたためのものだったらしい。イチマツは行儀よくへそ下で手を組んで立ち、リセが見るボードスクリーンを同じく見つめた。
「そこに『ダバパヘクランタ』の譲渡・所持に関する規約が書いてある。ちょっと長いが、本人が最低でも一度は目を通さないといけないからしっかり読んでくれ」
「分かったわ。でも、解らないところがあったら……」
「それを動かすA.I.のデキはいいのかな」
 フーニの質問に誰が答えるよりも速く、イチマツが任せろと胸を叩いた。
「サポートしてもらうといい。読み終えたら所定の欄に署名を頼む」
「じゃあ、よろしくね。芍薬ちゃん」
「御意」
 芍薬がうなずくのを見ながら、ニトロは、はて……と考え込んでいた。
 ダバパヘクランタ。
 どこかで聞いたことのある名だ。そういえば『罠』を警戒するばかりで母が何を譲り受けるのかを聞くのを忘れていたが……とりあえず、譲渡に際し手続きが必要だとはいえ一般人が所持を許されるのだ。母の喜びようを見ればそれが手に入りにくい珍しいものだということは判るが、まあ珍しいといっても絶滅危惧種ほど希少なわけでもなく、よもや危険なものでもなかろう――と、思うのだが、何だ?
(どこで聞いた?)
 あるいは、見た、のか。
 母に聞いたような気もするし、一緒にテレビだか図鑑だかで見た気もする。
「……ダバパヘクランタ」
 ニトロが小さく口にしたのを、フーニが聞きとめた。
「どうかしたのか?」
 訊ねられ、真っ直ぐにこちらを見つめてくるフーニを見返し、
「ダバパヘクランタっ?」
 ふいにそれが何であるかを思い出したニトロは素っ頓狂な声を上げた。
 それは絶滅危惧種ではない。危険なものでもない。
 ダバパヘクランタ。
 それは、野生ではすでに絶滅した種だ。
 生物の住める環境ではなくなった星が原産の、今では栽培用に他星に持ち出されたものしか存在しない一年草。
 原産地の言葉で『か弱き精霊』の名が表す通り栽培が難しく、また繁殖力が弱く一株から作られる種子の数も少ない儚き花。
 研究用や種の保護のための数は必要十分にあるため市場にも出回っているが、それでも所持するには全星系連星ユニオリスタの条約により公的機関への届出が必要であり、当然先述の理由から希少性が高く、反面『神の芸術』とまで言われる花の美しさから人気も非常に高いため結果として高額で取引される幻の花。
 母はなんとまあ朗らかに譲ってもらえることを喜んでいたものだ。
「そんなものをもらっていいんですか!?」
「ああ」
 ニトロの驚きをフーニは平然と受け流した。
「種に余裕もあったしな。それもわたしが育てたものだから、金額のこととか、そういうのは気にしなくていい」
「そうは言っても……」
「いいんだ。見返りは、ちゃんとある」
 フーニはどこか悪戯っぽく言い、その意味するところをニトロは考えるまでもなく察した。確かに、ヴィタに――あるいはその主に――貸しを作っておくのは色々と得策だろう。
 当事者間で完全に話がついていることに今さら何の口を挟めるものでもない。ニトロはため息にも似た息をつき、したたかさを見せた女教師から熱心に書類を読む母に視線を移した。
「大体、母さん、ちゃんと育てられるの?」
「お母さん今から大張り切りよ」
「張り切ったら育つもんじゃないだろ。えらいデリケートだからプロでも枯らすことがあるって、母さんが教えてくれたんじゃないか」
「腕が鳴るわ」
 リセは愛好家垂涎すいぜんの花を手に入れるためボードスクリーンを凝視しながら言い、何やら専門知識が必要な用語に当たったらしくこれは何のことかと芍薬に聞いた。芍薬は即座に質問に関連するデータベースに当たり、回答を簡潔かつ正確にまとめてリセに説明する。
 その必要な情報を素早く的確に扱うA.I.の様子を感心の目で見ていたフーニはやおらニトロへ振り返り、
「ま、育てるのが難しいってのも人気の理由さ」
「そのようですね」
 ニトロは半ば呆れながらうなずいた。しかし呆れながらも、一方では母がダバパヘクランタを枯らして悲しむのを見たくないから、ちょっと値は張ってもフーニの背にする棚にあるような栽培ケースをプレゼントしようと思う。
「それにしても、ティディア様は君に対してはよくよく気を遣うんだな」
 唐突なフーニの言葉がどういうことか解らず、ニトロは眉をひそめた。

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