ニトロとリセが案内されたのは、五階建ての時代がかったデザインの校舎――正門に面したコーゼルト学園高等部の第一校舎を素通りし、そこから少し離れたところにある四階建ての近代的な建物だった。
 主に、理系学科のための特別教室棟だという。
 昇降口前でフーニが指紋認証に指を当てIDカードをリーダーに通すと、教室棟の分厚い強化ガラス製のドアの鍵が――それもセキュリティの一環か――大きな音を立てて外れた。内に入ってすぐ正面の階段を昇り、三階につくと廊下に歩を進める。
 学び舎は静寂に包まれていた。
 特別教室棟といっても各学科の実験室以外は一般的な教室が並び、それはニトロの通う高校のものと変わらぬ風景で、日中は生徒の話し声や足音、笑い声や窓の外から聞こえる活動の賑わいが反響しているのだろうここには今は三人と一体の足音しかなく、それがしんとした中に反響するのは不気味であり、同時に、普段なら滅多に足を踏み入れることのない世界を歩くニトロの胸には浮き足立つような、あるいはルールを破るスリルにも似た感覚があった。
 天井に等間隔に並ぶ電灯が、コストカットのためだろう光量を落とされているのに、やけに明るく感じるのはそのためだろうか。
「夜の学校なんていつ以来かなあ」
 どうやら、リセも息子と同じ気持ちでいたらしい。ただそのつぶやきと、きょろきょろと辺りを見回す顔にはニトロにはない感傷がある。過去への憧憬と、過ぎ去った時分への羨望をも感じているのだろう。
 その一方で彼女の傍らには、現在の状況に明らかな困惑を刻む顔が一つあった。
「……あのさ」
 抜け目なく特別教室棟の間取りを確認しながら母の後ろを歩くニトロは、小さなアンドロイドを動かすA.I.の心情をおもんぱかって言った。
「別に手を引かなくてもちゃんとついていくよ、芍薬は」
 リセは車を駐車場に止めた芍薬がアンドロイドに移ってきてからも、その小さな手を離そうとはしなかった。
 芍薬からすれば本来マスターに第一に守ることを命じられている対象に保護されているような状況だ。それに手をつながれている――すなわち片手が完全に塞がり、一面でリセに手を拘束されている状態を維持することは、もし『事』が起きた場合に非常に具合が悪い。
 もちろん芍薬が手を離してもらうよう言えばリセは離してくれるだろうが、もちろん、彼女に心を配る芍薬がそんな直言をできるはずもない。
 そこで代弁を買って出たマスターを肩越しに振り返り、その母は朗らかに言った。
「いいのよ。昔はこうやってよくニトロとも手をつないで歩いてたんだから」
「それが何で芍薬と手をつなぐことに関係あるんだよ」
「だからお母さん、芍薬ちゃんとも手をつないで歩きたいの」
 イチマツ――芍薬が微笑み絶やさぬリセを見上げる。明確な感情を人工の表情筋に表してはいないが、リセの気持ちが嬉しかったのだろう、そのためにマスターの母の気持ちと己の使命との板ばさみが強くなってしまい困惑をさらに深めているようだった。
 ニトロは半ばため息をつき、
それは別に『芍薬』ってわけじゃないと思うけどな」
「じゃあ、お母さんこうやって芍薬ちゃんとお手々つないでる気分」
 のほほんと、しかしきっぱりとそう返されてはどうしようもない。下手に応戦すれば口論になるだけだ。
 ニトロが「無理」と小さく眉を垂れると、それを肩越しに見た芍薬も諦めたらしい。前に向き直り『生物準備室』と電子札に表示された部屋の前でドアを開けて待つフーニの元へリセの歩みをわずらわせないよう歩速を合わせて進んでいく。
 その後ろ姿がまるで本物の母子に見えて、ニトロは思わず頬をほころばせた。
(それも娘の方がしっかり者の、かな)
 もしかしたら、母と手をつなぎ歩いていた幼い自分の姿も他人の目にはこんな風に映っていたのかもしれない。
 そう思いながら『二人』を追って生物準備室に入ったニトロを出迎えたのは、
「あらぁ」
 母の歓声と、よく整理されているのに妙に雑然とした光景だった。
 入ってすぐの右手の壁には教材用なのだろう整理棚が置かれていて、入り口から見て奥、窓に面してはパイプを組んで作られた棚が据えられている。
 その四段作りのパイプ棚の上段から下段までには、陽が通るよう間隔は詰めずにいくつもの鉢が置かれていた。見覚えのある花から見たことのない奇妙な草までが旺盛に育っている。その中のいくつかは温度や湿度だけでなく気圧から大気成分まで調整できる小型の栽培ケースで育てられていて、内に薄いガスを漂わせたケースではアンモニアを吸い窒素を吐き出す植物の代表的な品種が綿毛のような青紫色の葉を茂らせていた。そのすぐ隣のケースで可憐な花をほころばせているのはアデムメデスの高山植物だ。似ても似つかぬ二つが隣接して並ぶ様は実に奇妙で、二種の生態の比較は不思議と知的好奇心を揺さぶるものがあった。
 左手の壁の奥側には次の生物実験室へ続く扉があり、そのスペースを除いてはいかにも重く頑健な水槽台が壁を背に鎮座し、部屋の少なからぬ面積を占拠している。三層にもなるそこには適度な間隔を置いて大小様々な水槽が並び、中でも目立つのは大きなアクアリウム。温水を好む生態系を再現しているらしく、十数匹の小さくもカラフルな魚が群となって水草の脇をすり抜けている。水を循環させるポンプを始め機械の類から響く音も振動もなく、わずかな水音ばかりが灯りの点けられた部屋にこぼれていた。
 他にも一目見ただけでは砂が敷かれているだけの小さな水槽、遮光され何が入っているのか窺うこともできないもの、枯れ木をのんびりのたくっている虹色の蛇が暖かそうな水槽の中でちろちろ舌を出していて……
 正直、この部屋にあるものは高校生物の授業には関係ないものの比率が高かった。いくつかは授業でも使えそうだが、それにしたって色々無駄だ。少なくとも虹色の蛇が出てくるページは教科書にはない。
(こりゃ『生物準備室』ってより『趣味実践室』だな)
 ニトロは苦笑を抑えることができなかった。見事なまでに学校施設を私物化しているフーニ先生は、なるほど『豪快』な人だと再認識させられる。
 どこに目を置き楽しめばいいのか迷う部屋を忙しく眺めていたリセが、やおら小さな水槽に咲く水中花を見つけてそちらに行く。ニトロは周囲に巡らせていた視線を部屋の中央に置かれたテーブルに移し――
「これは何を?」
 そこに放り置かれた一枚の板晶画面ボードスクリーンを覗き込み、彼はフーニに訊ねた。
 画面には月光よりも暗い光に照らされる、細い枝を噴水のように四方へ広げる植物が映っている。画面内に表示されているアイコンを見るとどこかの映像を中継しているようだ。
 植木鉢のパイプ棚を背にした椅子に座り、フーニが言った。
「それだよ。わたしをフり続けてるのは」
 どうやらフーニが着いた席は教職員のためのデスクであるらしい。よく見るとこのテーブルには横辺を3:1に分ける区切りがあり、彼女の机と同じ高さのテーブルが継ぎ足すように置かれているのが判った。こちらには学校の備品らしき簡素な椅子が雑に並べてあるのをみると、生物部部員か、それとも相談に来る生徒のために増設したものなのだろう。
「見たことないか? 結構有名なんだがな」
 机の引き出しをごそごそとやりながらフーニは言う。
 ニトロはテーブルの対面から自分と同じように板晶画面ボードスクリーンを覗き込んでくる母に頭突きを食らわないよう身を引きながら――実際、彼が間を取らなければゴツンといっていただろう――思案し、はたとそれが何かを彼が思い出した時、画面を一目見たリセが答えを口にした。

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