「待った?」
「いやいや、それはこっちのセリフだよ」
「お母さんは待ってないわ。ヴィタちゃんがくれたムービー観てたから、あっという間」
「うん、でもそれでも待っていたことには変わりないんじゃないかな」
助手席に座ったリセはいそいそとシートベルトを引き、いつでも発車オーライだと身を固定していた。息子のツッコミは華麗にスルー……というよりもはや聞いちゃいない。肩にかけていたショルダーポーチを膝に置き、発進は今かまだかとまっすぐ前を見つめている。
ニトロはイチマツが後部座席に座って『待機モード』に移行するのを背後に感じながら、母の言動は取り立てて
「……で」
カーシステムが芍薬の支配下に置かれたことを示すランプがダッシュボードに灯り、ドアがロックされ、エンジンに火が入れられた。
「ヴィタさんからもらったムービーって? そんなに楽しいの?」
ウィンカーを点け、車が道に出て行く。自分が確認する必要もないのだが何となくサイドミラーで後方を見ながらニトロが問うと、リセは嬉しそうに言った。
「観たい?」
「内容によるかな」
「ヴィタちゃん特選『世にも珍しい食虫・食獣植物の庭』。なんとかって言う
「そりゃまた悪趣味っていうか薬でもキめてから考えたんじゃないかっていうか」
「観てみたいでしょ? すごいんだから。庭師さんがトラクイグサに捕まりかけたところまで観たんだけどね、本当のアクシデントだったみたいでね? 撮影スタッフも大慌てでお母さん手に汗握っちゃった」
「……まさかそういう庭を作りたいなんて言い出さないよね」
「う〜ん、お母さんの趣味じゃないかな。綺麗だったけど」
「趣味だったら作るってかい」
「……。
でも手入れが大変だからやっぱり作らないかな」
少しでも作る気があることを微妙な間で示したリセに……それをしたら手入れの問題がどうこうよりも『どういう結果』になるかを考えていない母の昔から一向に変わらない――そして困ったことに愛する夫と共有している――性質にちょっとした空恐ろしさを感じて、ニトロは口の端を引き上げた。
するとそれを微笑みと見たらしいリセが嬉々として言う。
「観たいでしょ? えっと、芍薬ちゃん映してくれる? わたしの携帯のね……」
ニトロは母には通じなかった引きつり笑いを消して、今度はしっかり微笑んだ。
「母さん」
「なに?」
「悪いけど遠慮するよ。あ、芍薬、映さなくていいから」
途端にリセの顔に影が差す。しかし、その反応を完璧に予測していた息子はフォローを忘れていなかった。
「それより、料理のことを聞きたい。ヴィタさんが連れてってくれた店、美味しかったんでしょ?」
途端、
息子の問いかけに楽しい晩餐を思い出したか、
「そうなのよ。すごく美味しかった。今度お父さんとも行きたいわ」
「それで父さんに家で作ってもらう?」
「もちろんっ」
頬を緩ませ満面の笑みでうなずき、そしてリセは勢いよく淀みなく料理のこと、そして気が置けない園芸仲間と話したことを語り出した。
クィービィ・フーニが待つ私立コーゼルト学園高等部までの道中、ニトロは思いがけなく忍耐を試されることとなった。
母の楽しんだ食事は、コースを彩る皿のどれもが絶品だったらしい。作るより食べる方が得意なリセのどうにも要領を得ない説明ではその全貌を脳裡に描くことはできなかったが、とにかく美味しかったと語る母の幸せな感想だけで、ニトロは聞いていて楽しかった。
だが、その直後だった。
看過できない事実が母の言葉の中に姿を現し始めたのは。
ニトロがいくらぐらいのコースを食べたのかを問うと、リセはのほほんと「知らない」と言った。
どういうことかと訊けば、食事含めて『未来の娘』からのプレゼントだったらしい。今夜の、ヴィタとの食事は。だから店はすでに注文を受けていてメニューを見る必要はなかったし、当然支払いの金額を知らされることもなかったと。
さらに、これから向かう先で母が目的の植物をもらえるようヴィタが手配してくれたのも本を正せばティディアの提案で――チクショウ、やられた――案の定、母のあのバカに対する好感はさらに急上昇。
途中からしばらくリセがこれから育てようとしている野菜を美味しく実らせるためにヴィタがくれたアドバイスや特に内容もない世間話のことが続いたが、次第に話は雲行きを怪しくし、やがて……いや、ついに! 母はそれこそが一番肝心だとばかりに、ヴィタから受けた彼女の主がどんなに息子のことを愛しているかの報告を嬉々として、しかも無邪気に、とても笑顔で朗々と! 息子とそのA.I.に語り聞かせた。
ニトロは――ヴィタとの夕食のことを話すよう振ったのは自分だったとはいえ、微笑みを保ちその話に相槌を打ち続けねばならないのは一体何の拷問だと自問せざるを得なかった。
母から伝えられる宿敵の想念。
素晴らしく甘さ大誇張で告げられる恋心。
実体とは正反対に変換された王女と少年の恋愛模様。
『あんなに愛されるなんて幸せね、ニトロ。大事にしてあげるのよ?』なんて真剣な顔で言われた時には……もう……もう!
これまでに起こった、両親にも話していない、というか話すわけにはいかない『事件』を洗いざらい吐き出し「で、ありますから私ことニトロ・ポルカトはティディアなんかちっとも愛していないのです!」と断言したくて堪らなくなった。
もし……その時、芍薬が言葉を挟んでくれていなかったら、その衝動に口を割っていたかもしれない。芍薬には心から感謝した。本当に危なかったと思う。それを話してしまえば、それを聞いたことで母にも『重大な秘密』を背負わせてしまっていたのかもしれないのだから。
一応、気を落ち着けた後、頃合を見計らって例のごとく「本当は付き合ってないんだって」と言ってはみたが、母はやっぱり聞く耳持ってくれやしなかったし。
ニトロは、改めて思ったものだ。
(やっぱり
――と。
(だけど付き合いやめろなんて言えるわけもねぇし、言ったところでそんな注文を母さんが聞くわけないだろうしなあ……。
いっそ、友達は選びなさいとでも言うか?
いやいやそんなセリフは言っていいものなのか。
子どもが親に言われたら反発必至。言われたことないけど、もし言われたらきっと俺も反発するさ。こうなったからにはそう言う親の気持ちも理解せざるを得ないのは正直なところだけど、それでも交友関係には特殊な事情がない限り個々人の自由意志が尊重され、かつ他者との関わりは一個の人格の形成において重要な――)
ニトロが<母の母に全く害はないが自分には全く迷惑かけてくれやがる困った知人との交友をどうするべきか。しかも二人わりと仲良し>という難題について現実逃避にも似た思索を開始した頃、ふいに母が口を止め、一点を指差した。
「あれじゃないっ?」
ニトロがリセと合流したブラウンコートは最寄りのインターチェンジから
王都の中でも五本指に入る高級住宅街があることで知られる3地区ハイガタリアの、その外れに位置する街道を走るニトロの愛車の右前方――中央分離帯で区切られた反対車線に面し、広い敷地を持つ建造物群の影が、厚みを増していく夜の帳の中でひっそりとしてそこにあった。
「ソウダヨ」
リセの歓声に芍薬が応える。