「何をしているの、ニトロ!」
 怒声を浴びせられたニトロは自分が怒られていることに驚愕し、ついでこの状況を見て母がどう思うかを悟った。
「ティディアちゃんという恋人がありながら!」
(あああ、やっぱり!)
 つかつかと歩み寄ってくるリセは眉間に皺を刻んでいる。ニトロが物心ついた頃から知っている母の怒り顔だった。彼女の生来の朗らかさが邪魔をしているのか怒りに満ちているというのに全く恐怖を抱かせない形相だが、それが母の力なのだろう、彼女の息子は酷くうろたえ慌てて釈明した。
「違う、母さんの思っているようなことじゃない! そうだ、結構騒いでたから聞こえてただろ!? 初めから見てなかったの? どこから見てた!?」
「防音優秀」
 ぼそりとヴィタが囁く。
 ニトロは今の言葉は失敗だったと胸中で舌を打った。『どこから見てた』など、そんなばったり出くわした人に悪事を見られた人間が吐くようなセリフ、母が聞いたら
「遅いなーって思ってたら……そんな見て欲しくなかった場面なんてあったの? 一体、フーニ先生に何をしたの!」
(うおお、やっぱり!!)
「……って、あら? ヴィタちゃん?」
 『フーニ先生』に謝ろうとしたのだろう足早に近づいてきたリセが、息子に壁に押し付けられている女性を見て目を丸くした。
「なんでこんなところに?」
 怒りを忘れたように、意外極まる人物の登場に首を傾げる。その下をイチマツがすり抜けてニトロに駆け寄り、心配そうな顔をマスターに見せた。
 ニトロは芍薬を安心させるようアンドロイドの頭に手を置き、説明するより先に母がヴィタに気づいたことを幸運に思った。これならこの隙に母の怒りを鎮め、状況を納得させるのも楽だ。
「だから、フーニ先生はヴィタさんだったんだよ」
「どういうこと?」
「特殊メイクで化けていました」
 ヴィタがコンタクトレンズを外しながら言う。ライトグリーンの瞳が消え、光を帯びた美しいマリンブルーが現れた。
「あの『映画』で、ニトロ様も使っていたものです」
「ああ」
 合点がいったらしくリセがぽんと手を打つ。
 それから壁に背をもたれるヴィタと、彼女に迫っているようだった息子を交互に見、
「なんのために化けていたの?」
 至極当然な問いだった。ニトロはヴィタが悪戯心に『ドッキリ』を仕掛けようとしていたことにするかと考え、
「ニトロ様を深夜の学校パワーを借りて誘惑するために」
「ブッ!」
 ヴィタがしれっと言い出したとんでもないことにニトロは仰天した。母を見る。ほらもちろん疑惑の目が向いてるよそりゃ当然だよ!
「ちが、ち、違うぞ母さん!」
「そうしたらニトロ様、まんざらでもなくこのような状況に」
「ヴィタさん何を!」
「ニトロ!」
 リセが再び怒鳴った。
「だから違うって!」
「ソウダヨ、主様ガ正シイ――」
「芍薬ちゃんは黙ってなさい」
「デモ!」
芍薬!」
 抗議の声を上げたA.I.を一喝して黙らせ、リセはニトロに詰め寄った。詰め寄って、ニトロを責めていた眼を急にヴィタへ転じ、
「ヴィタちゃんもティディアちゃんを裏切るなんてどういうこと!?」
「裏切っていません」
 不意打ちのようなタイミングで怒鳴られたというのに、ヴィタは冷静に応えた。それも返した言葉がまた不思議で、顔に『?』を刻んだリセが首を傾げる。
「貴族の殿方は複数の妻を持ってもいいのです。ですから、ニトロ様が私に手を出されても将来的にオールオッケーです」
「あら、そうなの?」
「違うぞ母さん!」
「だって、ヴィタちゃんが言うのよ?」
「ああ、そりゃヴィタさんはそっちの内情詳しいかもしれないけどさ、でもちょっと前にもどっかの貴族が浮気がばれて騒がれてたろう?」
「……そうね。やっぱりいけないことよね」
「それは格下だからです。北の大陸のとある有力な貴族は正妻の他に五人の女性を囲っているのですよ。そのうち二人とは子ももうけているのですが、それでも騒がれていません」
「あら、そうなの」
「はい」
「っつーか何を衝撃ゴシップ暴露してんだこんな時に!」
 ニトロが怒声を上げてもヴィタは止まらない。何か確固としたものがあるような様子で続ける。
「特に王族は――それも『王』は、その貴族とすら格を比べようもありません。聞いたことはありませんか? 他星たこくの王が第二王妃を迎えたというニュースなど」
「聞いたことあるわ」
「そうでしょう。それともお母様は、私があなたの娘になるのはお嫌でしょうか」
「そんなことあるわけないじゃない!」
 リセの目が輝いた。
 ニトロの眉間が激しく痛んだ。
 芍薬がニトロのズボンを掴む。ニトロはイチマツの顔にある心配に乾いた笑いを返しながら、小さく、
「いいよ。なんとかまとめる」
 と言い、ヴィタの巨大ボラを信じかけている――というより信じている? 母に言った。
「アデムメデスじゃ駄目だよ、母さん。大昔ならともかく今はそんな話これまで一度も聞いたことないだろ? 昔、ティディアの上の兄貴が失脚した原因も女性問題だったじゃないか」
「でも、ヴィタちゃんが言うんだもの……」
「ヴィタさんも何でそんな嘘を言うんだよっ」
「ニトロ様が好きだからです」
「ありがとう、でもその好きは今問題になってる『好き』とは絶対違う!」
「……ひどい」
「ニトロ!」
「母さん! 前からずっと思ってたんだけど何でそんなにヴィタさんの……ついでにティディアのものだけど、言うことを何でそんな簡単にほいほい信じるんだ!」
 その問いにリセは一瞬きょとんとし、
「何を言ってるの?」
「何をって」
「ニトロのことを本当に好いてくれる人のこと、お母さんが信じないわけないじゃない」
「――っいや……えぇっと……」
 ニトロは、意味のないうめき声しか母に返せなかった。彼はその時、母を説き伏せるための言葉を完全に見失っていた。
 母が口にしたものは――強い、強い言葉だった。
 さも当然と大真面目に言い切った、単なる馬鹿親とも取られかねないリセのその言葉。
 ツッコミどころはある。論理としても穴だらけだ。例え息子のことを好きだとある人間が言ったとしても、無論その人間が信頼に足るかどうかは別問題で、それに彼女にだって自身の理屈を支える根拠はきっとないだろう。
 しかし、それなのに、無邪気なその言葉には逆らいがたい迫力があった。それを否定することこそが罪とまで感じた。
 あるいはそれは、愚鈍とも言える母の愛だった。
 ただ息子に注ぐ愛情の範囲が、ちょっと変わった形で少しばかり外にも広がっているだけなのだ。
 息子ばかりか彼に親愛を寄せる人間までも当たり前に包み込もうというリセの、ニトロ・ポルカトの母親の、天然の愛情が。
 ……よもや、こんな時に、突然そのような母の心を知るとは思ってもみなかった。
 ここで何をどう語り先ほどヴィタとやりあった事実を伝えればいいのだろうか。母は裏切られたと悲しむか? それとも裏切りと思わず、悪いことをした子どもにそうするように失意を隠しながら叱りつけるだけだろうか。……分からない。自分は感動しているのだろうか。驚いているのか。圧倒されているのか。それも解らない。うまく言葉が出てこない。
 それはニトロだけでなく、芍薬までもがそうだった。
 困惑するマスターの傍らで、芍薬はニトロの困惑を知りながら助け舟を出すことができずに当惑していた。主が困っている。それを助けるのが自分の役目だと強く思いながらも、どの思考回路を開くこともできなかった。母様の愛情を知り、今、その息子のA.I.が出る幕などあるのだろうか。むしろ奇妙な感銘すら覚え、ここでしゃしゃりでることこそマスターへの背徳とまで思えてならない。
 そして、ヴィタは……
「ニトロ様の言う通り、私の言ったことは嘘です」
 彼女は涼しく、そう言った。
 途端にリセがしょんぼりと気落ちした。その姿は嘘を告白していないニトロと芍薬にまで罪悪感を覚えさせるほど、哀れだった。
「何で、そんな嘘をつくの? ヴィタちゃん」
 悲しげなリセにヴィタは微かに――困ったように眉を垂れ、それからニトロを見た。
「っ?」
 ニトロはヴィタの眼差しを受けてぎょっとした。
 その双眸は母に向けるものとは違い、なんというか……必死だった。どうやら凄まじい良心の呵責を感じているらしい。嘘に嘘を重ねて大事に至った彼女はこちらへ何かを一心に訴えかけ、同時に何かを懸命に懇願して――
(――ああ!)
 ニトロはヴィタの心意を悟った。
 この場をうまくまとめるためには、確かにそれしかない。彼女は協力を求めている!
 正直ヴィタを助ける義理は皆無だが、それでもニトロは考えた。
 この場をうまくまとめなくては母は気落ちしたまま家に帰ることになる。折角今日は仲の良い園芸仲間と美味しい夕食をとり、さっきまで希少な植物をもらえる喜びで胸を一杯にしていたのだ。できうることなら、その幸福感を持ったまま楽しい一日を終えて欲しいと思う。
 嘘が罪を産むことなく済ませられるのなら、母のためにそうしてやりたい。
「……シナリオ、崩れちゃったね」
 やおらニトロがぎこちなく言うと、ヴィタの顔を感謝が照らした。
「どういうこと?」
 怪訝に、リセが問う。
 ニトロはヴィタと顔を見合わせた。
 お互いが言おうとしていることをまばたきもせず全身全霊無言で確認しあい、真剣そのものにうなずき合い、そして、言った。
「「ドッキリ大失敗」」

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