突然、ティディアが歓声を上げた。手を組んで目を潤ませて、赤らんだ頬はどうやらツボに入って興奮していたかららしい。勢い任せに身を乗り出して叫ぶ。
「ベタベタ過ぎてあーもーかわいい! ニトロ、で、それで!?」
 こちらに飛び掛ってきそうな勢いにニトロはびくりと身を引いた。
「保母さんってどんな人だったのか教えなさい! そのツボくすぐってあげるから!」
「…………いや」
 続けて浴びせかけられた詰問に、ニトロは思い切り引きつり笑いを浮かべた。
「えーっと……」
「えーっとじゃないわよ。覚えてるでしょう?」
「そう……だな。清楚な感じの人だったよ」
「ヴィタ、明日からその路線でいくわ」
「かしこまりました」
「歌が上手くて、体操も上手だったな」
「オッケー、それもクリア」
「……。
 優しくて皆に人気あって、保護者にも信頼されていた」
「皆ってガキよね。大丈夫、私わりと子どもに好かれるタイプ。保護者は……御両親ね。うん、大丈夫。仲良くやってる」
「…………」
「他には?」
 ニトロはティディアのほとばしる熱意に引きつり笑いを深めながら、一度茶を啜った。ヴィタは面白みを感じ始めたのか耳をピンと立ててこちらを見ている。ハラキリの表情は変わらないが、楽しんではいるらしい。ケーキにフォークを通しながら、眼は次をと促してきている。
 すぐ傍らにいるイチマツ人形も、熱心にこちらを見上げていた。
 注目されていることにむずがゆさを感じながら、ニトロは引きつり笑いを少しだけ緩めた。
「髪は長かった」
「伸ばすわ」
「小さい子に引っ張られるからいつも頭の上でおだんごにしてたけど」
「おだんご了解」
「美人、ってわけじゃなかったけど、笑顔は保母さんたちの中で一番可愛かったと思う」
「笑顔、自信ある。クリアクリア」
「で、その人、四股かけててな」
「分かった。四股ね。ん?」
「その中には園児の父親もいてさ、まあ不倫だったわけだけど。ある日浮気されてることに気づいた男の一人が幼稚園にやってきて、門の前で子どもを迎えに来た親を出迎えてた保母さんと痴話喧嘩を始めたわけだ。
 運が悪いのかどうなのか、そこには不倫相手の奥さんもいた。自分の夫の名前が挙がるんだから驚いただろうなー。不倫相手が信頼していた保母さんだし、しかも不倫相手には別の男もいるし、そりゃ怒るわ」
 ニトロはからからと笑いながら、いつの間にやら口を閉じているティディアに微笑みかけた。
「修羅場だったよ。いつも優しかった保母さんがこう目を見開いてさ、歯茎を剥き出して金切り声を上げてるんだ。しまいには不倫相手の奥さんと髪を引っ張り合って殴り合うし、浮気されてた男は泣き崩れるし。喧嘩を止めようとした園長さんは――ああ、結構年配の女の人だったんだけど、殴り合う二人に近づいた拍子に肘が当たって泡吹いて気絶しちゃうし。
 だーれも止められなくてさ。母さんもまだ来てなかったから、俺はいつも一緒に帰ってた友達と泣いてることしかできなかったなあ」
 ずずっとお茶を啜り、ニトロは一つため息をついた。
 そして、目を伏せる。
「俺の初恋は、そこで終わったよ」
 膝に何かが触れる感触があって伏せた目を動かすと、芍薬のイチマツが手を載せて慰めの眼差しを向けてきていた。
 ニトロはこみ上げてきた過去の悲しみを胸に染み渡らせながら、感謝を込めてイチマツの頭にぽんと手を置いた。
 その時だった。
「ぷ」
 一つ吐息が破裂した。
「っあははははははは!」
 そして爆笑が、ニトロの耳をつんざいた。
「!?」
 完全に予想外のことに目を上げると、ティディアがのけぞって笑っていた。ハラキリも声こそ上げてはいないが口元を引き締め、顔を背けて笑いを堪えている。ヴィタはいつもの通り涼しい顔ながら、マリンブルーの瞳をキラキラと輝かせてこちらを見つめていた。
(……ええええっと?)
 ニトロは激しく動揺した。
 笑い話をしたつもりはない。だがどうやらここにいる友人と『知人』共、一体何がそんなにおかしいのか。
(とにかく――)
 まずはティディアだ。涙目になって腹を抱えているこのクソ女から問いただす。
「何がおかしいんだよっ」
 怒りが滲むニトロの声に、ティディアが笑いを止める。ひーひーと荒げた息を整えて涙を拭い、それから彼に目を向けた。
「笑えることなんか話してないぞ」
「何言ってるのよ。最高の笑い話じゃない」
「どこがだ。俺はまったく笑えない」
「ニトロは、そうかもね」
 くっくと喉を鳴らして、ティディアが笑いを噛み殺す。それは人の不幸は蜜の味ということか。そう言われるとそうかもしれない。確かにコメディドラマでありそうなことだと言われれば否定はしきれない。しかしまさに『事件』の当事者で、美しく残るはずだった記憶が真っ黒に染められてしまったニトロからすれば、彼女の反応はさすがに腹に据えかねることだった。
「あのなあ、幼心にでもな、結構トラウマになってるんだぞ」
 低い怒声を発し犬歯を見せるニトロの眼にある真剣さを見て取ったティディアは、ふいに柔らかな笑顔を浮かべた。
 ついさっき爆笑していたことが嘘のように穏やかな、慰めるというより包み込むような眼差しでニトロを見つめ、言う。
「大丈夫よ。そんなこと、これから私が素敵な記憶で塗り潰してあげるから」
 その言葉はあまりに自信に満ちていて――慈悲すら漂う艶美な瞳には、ティディアが持つ『魔力』が潤沢にさざめいていた。
 もし少しでも彼女に心を許していれば、そこから魂にまで切り込まれていただろう。数多の男を、いや幾多の女までをも見惚れさせてきた魅力。それに包まれ投げ込まれた言葉を、『塗り潰される』ことを無抵抗に受け入れてしまっていただろう。
 しかしニトロはわらった。
 よくもまあこのタイミングで多くの者を虜としてきた『ティディア姫の瞳』を、それも即座に見せられるものだと感心してしまう。お陰で怒気が吹き消されてしまった。だが、この星を統一したロディアーナ朝初代王に比肩すると称えられるカリスマも、ニトロにはただそれだけだった。
「お前にはできないよ」
 軽々言い返してくるニトロに、ティディアは小首を傾げてみせた。
「そうね、失敗だったわ。いくら初恋の相手だからって過去の女に合わせるなんて馬鹿馬鹿しい。あ、ヴィタ、さっきのなしね。ニトロはそのうち『私』にめろめろになるから、どうせ意味無かったわ」
「かしこまりました」
 いつの間にかケーキを二つ平らげていたヴィタが、また一つ箱から取り出しながら頭を垂れる。
「めろめろになんかならない」
 ティディアの根拠のない自信に呆れながらニトロは言った。
 ハラキリはもう自分の役目はないとばかりにのん気な様子でこちらを眺めている。ケーキもちゃっかり食べ終えて、VIP待遇の観客気取りだ。
 そういえば自分の前にある……ラズベリーのソースだろうか、滑らかな生クリームに赤が映えるケーキはとても美味しそうだった。
「そんなことないわよー。ニトロは絶対、私に夢中になっちゃうわ」
「妄想ダネ」
 力強く芍薬が放ってきた言葉にティディアは聞こえない振りをして、ニトロに挑みかかるように笑った。
「絶対、ね」
「妄想だ」
 今度はニトロが言葉を返した。傍らのイチマツの肩に手を置いて、芍薬と一緒になって不敵に笑い返す。
 ティディアはふふと笑ってフォークを手に取った。
 手入れの行き届いた純銀製のそれを軽く指で挟み持ち、一度タクトのように振ってから、光を受けて輝く尖鋭をニトロに差し向ける。
「今はそれでも構わない。でも覚悟してなさい。そんなちんけなトラウマごと、私が食べ尽くしてみせるから」

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