韋駄天が着陸したのは、シェルリントン・タワーのある摩天楼の外れだった。これから夜に向けて人も車も増え出した中、幸い空いていた路上駐車スペースに車を寄せる。
ハラキリはここで父に荷を渡すのだと言った。すぐ傍には地下鉄の出入り口と小さな公園がある。摩天楼の中心に向かう通りに面していることもあって、公園には待ち合わせをしているらしい人が散見された。
「ええっと……」
ハラキリはきょろきょろと周囲を見回していた。
まだ彼の父は来ていないのだろうか。
と、そうしていると、ふとこちらに近づいてくる男性がいた。仕立ての良いスーツを着こなし、見るからにやり手のビジネスマン然として威風堂々と歩いてくる。
「あれかな?」
「アア、信号ヲ受ケ取ッタ。アレダ」
(……ん?)
ビジネスマンを見るハラキリと韋駄天の会話に、ニトロは疑問を持った。
(『あれかな』?)
まるで自分の父の見分けがつかないと言っているようだ。彼の父の人相データを持っているであろう韋駄天まで、信号を受け取らなければ認識できないのは一体どういうわけだろう。
ニトロは改めてビジネスマンを見た。
足を止め、韋駄天の傍らに立つ男性は――
(似てないな)
ハラキリとは似ても似つかぬ風貌をしていた。こけ気味の頬にきりりとした眉目が印象的で、いつも笑っているようなハラキリとの共通点が見つからない。染めているのかもしれないが、髪も眉も青みがかっていて友人の色とはやはり違う。
「元気か? ハラキリ」
助手席を開けた男性の声質も、ハラキリへ伝えたであろう遺伝子を含んでいるとはどうにも思えなかった。
「知ってるでしょう?」
しかしハラキリは何も戸惑うことなく、生意気な……そういえば初めて見る、親に生意気に応える子の顔をしていた。
男性はハラキリの態度をたしなめる目をして、次にニトロを見た。
「っ」
急に瞳を向けられたニトロは瞬間的に全身を強張らせた。
それがどうしてなのか自分でも分からなかったが、ただ心の奥底から寒気にも似たものを感じる。無意識が『警戒しろ』と意識に働きかけているのか、肩から力が抜けてくれない。
「ああ、ニトロ・ポルカロ君ですか」
「ポルカトでっす」
反射的に男性の間違いを指摘して、しまったとニトロはさらに身を強張らせた。
しかしハラキリの父であろう男性は、こちらの反応に愉快気に目尻を垂れた。
「なるほど、手馴れている」
感心しているような口振り……ツッコミのことを言っているのだろうか。であれば、間違えたのもわざとか……?
「君のことは聞いています。愚息とどうぞ仲良くしてやってください。君は、初めての友達だから」
「恥ずかしいことを言っていないで、さっさと持っていったらどうです?」
照れ隠しか、邪険な口調でハラキリが言う。
男性は息子をからかうように笑みを刻むと、シートに置いてあった箱を抱えて車から離れ――そして、とても優しい瞳をニトロに向けた。
「……」
その瞳には、ニトロが緊張を感じた何かは陰もなかった。
小さく、ハラキリの父が頭を垂れる。
ニトロは会釈を返した。何故だか、顔も声も全く違うのに、その時には彼がハラキリの父だと確信できていた。
「……なあ」
ハラキリの命令を受けた韋駄天が逃げるように空へ飛び上がっていく。
「なんです?」
ニトロに声をかけられたハラキリは、顔をまっすぐ前方に向けてこちらを見ようともしない。
どうやら照れ隠しはまだ続いているらしい。これも初めて見る……同年齢とは思えない普段の大人びた彼からは想像もしていなかった姿に、内心笑いを押し殺しながらニトロは聞いた。
「何で見て分からなかったんだ?」
「会う度に何もかも違いますから」
「……は?」
「父の本当の姿を拙者は映像でしか知りません。物心ついた時からこれまで、父は顔も声も背格好も何度も何度も変わっています」
「…………はぁ?」
「まあ、父の職業病みたいなもんですね」
「待ったハラキリ、それはもしかして聞かない方がいい話じゃないか?」
「ちなみにジジ家は公的には『母子家庭』です。父は死んだことになっていますので、どうぞ口外なさらぬようお願いしますね」
「あー! やっぱり聞かない方がいいことじゃねぇか! 何で教えるんだよ!」
「聞いたのはニトロ君じゃないですか」
「そうだけど! そこまで教える必要はないんじゃないかな!?」
「いやいや、これは重要なことですって。これからニトロ君はもっと『取材』を受けることになりますから、どの道釘を刺しておこうと思ってたことですよ」
「嘘だ! 絶対嫌がらせだ!」
「まあ、半分は確かに」
「ほらやっぱり!」
「だってニトロ君、どうせ心の中で笑ってたでしょう?」
「人の心を読むな!」
「ほらやっぱり」
「おぉう……。
いやでもほらもうちょっと初めての友達――あれ? 初めて?」
「表向きの友人を含めていいなら初めてじゃありませんね」
「表向きって、随分ドライな言い方だなあ」
少し非難するような目が、ルームミラーに映った。ハラキリは小さく肩をすくめた。
「事実です。うちのことを聞かれるのも面倒ですからね。付き合いが深くなれば面倒はそれだけ大きくなりますし」
「……寂しくないか? それ」
「特には。『友達』が欲しいと思ったこともありませんし」
さらりとハラキリは言うが、ニトロは言葉に詰まった。
ハラキリの家庭環境は特殊だ。いや、特殊すぎる。どういう経緯で彼がそう思い、納得し、おそらくは幼少の頃から実践してきたのか、自分にはおよそ想像もつかない。
しかしふと考えてみれば、ハラキリは自分のことは初めての『友達』だと認めてくれているらしい。彼の言葉に否定はなかった。それどころか、珍しく本心を隠さず認めるような物言いだった。
それに気づいたニトロはくすぐったいような喜びを――
「そうそう。口外したら父も敵に回しますのでご注意を」
いや、そんな青春の甘酸っぱい思い出なんか作成している余裕などなかった。
あの、妙な寒気を感じさせてくれたハラキリの父君も敵に? え?
……も?
「何それ」
「ほら、拙者も有名になるのが規定路線ですから。マスコミとかにつつかれたら面倒でしょう? ことによると『裏』の方々も君に目を――」
「オッケー、分かった。それ以上言わなくてもいい、ていうか言うな」
「聞いておいたほうが安心しません?」
「断じてそんなことはない……っ!」
ルームミラーに映るニトロの目は鋭かった。
怒っているというより自己防衛のために気が一杯になっているようだ。さらに追い込むようなことを言ったら、今ここで身を守るための闘争でも始めるかもしれない。
(ふむ)
まあ、そろそろもう一つの約束の時間だし、それまで車内で暴れられるのは困る。これくらいで意地悪はやめておこう。
「ところでさ、ハラキリがつれてってくれる店、どんな店?」
無理矢理話題を変えようとしているニトロの声は、いい感じで裏返っていた。
韋駄天が笑いを堪えているのが、堪えきれずスピーカーを微かに震わせているので伝わってくる。
「多分ニトロ君が思っている以上のお店ですよ」
ハラキリの答えに、ニトロは小首を傾げた。
「そんなに美味しいのか?」
「それも含めて」
「……含めてって、高いの?」
(おや、鋭い)
コースのグレードによっちゃ、一般的なサラリーマンの平均月収が華麗に飛ぶ。リーズナブルでもそれなりに割高。
「まあ、それも含めて。楽しみは後に取っておきましょう」
ハラキリはニトロの追求を避けるために、そう言った。
彼は妙なところでとても鋭敏だ。下手に情報を与えれば、これからのイベントが台無しになってしまう。
――と、ふいにサンルーフが開き始めた。
「ん?」
王都の上を飛ぶ韋駄天が急に天井を空けた理由が分からず、ニトロが疑念の声を上げる。
ハラキリは時計を見て、『約束』の時間通りだと胸中でうなずいた。
「韋駄天、相手は?」
「順調ニコッチニ向カッテキテイル」
「ハラキリ、相手って何だ?」
ニトロの疑問は、もっともだった。
「拙者も色々付き合いがありまして、どうしてもニトロ君に会わせろっていう方がいらっしゃるんです」
「聞いてないぞ、それ」
「言ってませんから」
「……何を企んでる? ハラキリ、お前、まさか」
「ああ、来ましたね」
「んん?」
オープンカー並みに開いた天井の先を仰ぎ見るハラキリにつられて、ニトロもそこへ目を移した。
「んんん?」
夕日に染まる空。その中に点が見える。
「何だ?」
点は、ゆらゆらと揺れていた。揺れながら、次第に大きさを増していた。大きさを増しながらその輪郭が滲むように変化を始める。次第に、一つの形を描き出してくる。
「――人?」
ニトロの目に点が人影として映った時、ぱっと星くずが散った。
「え?」
茜空を背景に大の字に、それともまさか受け止めろと言っているのか両腕を広げた人影は、光の翼を広げてまっすぐこちらへ落ちてくる。
翼からは、速度に負けて引きちぎられた光が、美しく明滅する鱗粉として人影の周囲に舞っている。
それは――
「
携行用
ていうことは。
「韋駄天、ファイト」
「オウ、任セロ」
ハラキリの気の抜けた応援に、韋駄天が力強く応える。
何がファイトで何を任せるのか、ニトロはそれを考える間もなく理解した。
はるか上空から落ちてきたその女。
つま先をこちらへ垂直姿勢を取ったその女!
「ティ――」
彼女は巧みに
あれ? なんか減速足りなくない?
「うわわわわ!」
ソレの着地点が韋駄天の後部座席だと悟ったニトロは、慌てて隅に身を寄せた。勢い余って背がドアに激突するが、痛みよりも驚愕と恐怖が勝っていた。
「揺レルゾ!」
韋駄天が叫んだ。