撫子が出した名に、ハラキリは驚いた。
 芍薬は、気難しいわけではないが好き嫌いがはっきりしている。癖のある『百合花ゆりのはな』はともかく、子どもっぽいが朗らかで人見知りのない『牡丹ぼたん』が譲るには最も無難だろうと思っていた。それだけではない。三人官女の中で一番勝気な芍薬は、もしかするとニトロと反りの合わない可能性が一番高いと、そうも思っていた。
 しかし、撫子の選択を聞いたハラキリは驚きが過ぎた後、あの王女に屈することなく抵抗を続けている友人を思い浮かべて、ふと確信めいたものを感じた。
「……拙者も、そう思う」
 ハラキリは、撫子の心労を慰めるように、そしてその不安が杞憂に終わると断じるように微笑んだ。
「大丈夫。芍薬もきっとニトロ君のことを気に入るよ。彼は善い人だし、何より面白い」
「ハイ」
「数日中に譲ることになるだろうから、今夜にもここでの記憶ログを」
 ハラキリはそこで言葉を切った。
 記憶を『消去』させるのは、さすがに酷か。
 それに芍薬にこちらのデータをある程度持たせておいた方が、何かと便利なこともあるかもしれない。
「必要なだけ、『封印』しておいて」
「『基準』ハドウナサイマスカ?」
「撫子に任せる」
「カシコマリマシタ」
 撫子の声は、いつものペースを崩さぬながらも、少しだけ硬かった。
 しかしハラキリは何も声をかけようとはしなかった。それ以上、撫子が質問を返すこともなかった。
 ハラキリは『映画』でも着た戦闘服の袖に腕を通し、黙々と装備を整えた。
 すると広々とした――天井も壁も床も頑健なセラミックでコーティングされたトレーニングルームに、人型と犬型のアンドロイドが規則正しい足音を立てて現れた。
「準備ハヨロシイデスカ?」
 撫子はいつもの通り軽いストレッチを終えた主に声をかけた。その声はもう、柔らかい。
「いつでも」
 ハラキリも戦闘態勢に入るアンドロイドを前に、いつもの通りに飄々ひょうひょうと応えた。
「ソレデハ、参リマス」
 撫子の号令に合わせ、犬型のアンドロイドが牙を剥きハラキリへ突進する。
 ハラキリは特殊警棒を構え、そして、激しい訓練が今日も始まった。





 待ち合わせに指定した場所は、ニトロが暮らし始めたマンションの最寄りの駅ビルの屋上だった。
 そこは飛行車スカイカー専用の駐車場となっている。
 走行車ランナーとは値段が一桁違う飛行車スカイカーのオーナーが、住宅街の真ん中、庶民的な町で高級店も連ならぬこのビルを使用することなど滅多にないだろうが、それでも空から見える駐車スペースには有名ブランドのロングヒットモデルが一台止まっていた。
「おや」
 駐車場の発着スペースに下降していると、車下を映すダッシュボードのモニターに人が現れた。
 その少年はこちらを見上げて、どことなく気の抜けた表情を見せている。
「早イナ」
 愛車を運転するA.I.の感心した声に、ハラキリはうなずいた。
 まだ約束の十分前だ。
 流行に外れてはいないが流行りに乗ってもいないカジュアルな服装で、発着スペースのマークの傍らに立つニトロは車の位置に合わせて目線を下げている。
 着陸に合わせて出されたタイヤが冷たいコンクリートを噛むと、ダッシュボードに『安定』のランプが灯った。ハラキリは助手席側に立つニトロに、そちらのウィンドウを下げて声をかけた。
「早いですね」
「ハラキリは十分前行動だろ?」
 得意気にニトロは言い、『韋駄天』に乗り込もうとドアに手をかけ――止まった。
 開いた窓の先、助手席のシートに大きな箱が置いてある。
「スマネェナ。後ロニ座ッテクレ」
 ハラキリにこれが何かを聞くよりも先に、耳慣れた機械音声が言ってくる。それに合わせて後部座席のドアが自動で開き、ニトロを招いた。
 ニトロはそれなら荷物を後ろに載せておけばいいのにと思いもしたが、特に文句を言うこともなく従った。座り心地のいいシートに腰を沈めると、開いたときと同じく自動でドアが閉まり、ロックされる。
「すいません。野暮用が入りまして、寄り道してもいいですか?」
「構わないよ」
 助手席のウィンドウも閉まり、韋駄天が再び空へと上昇していく。
「野暮用って、その箱?」
 ルームミラーにニトロの顔が映るよう角度を調節しつつ、ハラキリは応えた。
「ええ、届けてくれと急に頼まれまして」
「あれ? ハラキリって『運送業』もやってたっけ?」
「まあ基本『何でも屋』ですから、運送も頼まれますよ? もし御用があればお申し付けを」
 冗談めかしに言われてニトロは苦笑した。ハラキリ・ジジの『何でも屋』の顧客は、今や二人しかいない。自分と、あのバカだ。
「その時は負けろよ」
「ご相談には乗りましょう」
 あの『映画』の翌日、ハラキリは学校の掲示板に書き込んでいた『広告』を削除した。
 それに気づいたニトロは彼にどうして消したのか問い、そしてその答えに少しの安堵を覚えたものだった。
『あれが公開されたら有名になりますから。そうしたら『裏』は無理です。拙者は廃業ですね』
 正直に言うと、ニトロは、ハラキリが将来どこかで行方不明になったり、あるいは変死体としてニュースで紹介されたりするのでは――という不安を持っていた。
 それを言うと、ハラキリは笑った。
『そう思われても当然でしょうけど……。まあ、『裏』はアルバイト程度に思ってましたから、なりたいものは他にありますのでご安心を』
 ハラキリのなりたいもの――それはとても聞きたかったが、ハラキリには秘密だと逃げられてしまった。
 それにしても命の危険もある『裏』の仕事をアルバイトと言い切るのは、一体どういう感覚をしているのか。呆れるニトロに彼はいつもの通りに飄々としていたものだ。
『ああ、でもニトロ君とおひいさんの『何でも屋』は継続しておきます。いいアルバイトになりそうですから』
 あまつさえ、そう言われてしまうと呆れを通り越して笑うしかなかったが。
「あれ? じゃあ、誰の頼み? まさかティディアじゃないだろうな」
 『じゃあ』という接続が何を意味しているのか判りかねたが、ハラキリはとりあえず質問に答えた。
「父のです」
「あ、なるほど」
 何が『なるほど』なのだろう。
 ニトロが会話の間に何を考えていたのか気になったが、まあ突っ込んで聞くことでもないかとハラキリは話題を変えた。それより先に話しておくべきことがある。
「ニトロ君、まだA.I.は汎用を使ってますよね?」
「ん? あ、ああ。もちろん」
「この前話した、A.I.の件ですが」
 そう言うや、ニトロは合点のいった顔で膝を乗り出した。
「譲ってもらえることになったのか?」
「ええ。うちのサポートをお譲りします」
「え!?」
 夕暮れ空を行く車内に、ニトロの驚愕が響き渡った。
「サポート!? 初期じゃなくて!?」
 想定していなかった大袈裟な反応を不思議に思っていたハラキリは、ニトロの二の句に彼がそこまで驚く理由を悟った。
 ニトロは、そこまで育てられたA.I.まで譲渡の対象に入っているとは思っていなかったのだ。どれだけ成長していても初期段階を出ない程度、それくらいに考えていたのだろう。
「いや、それは悪いよ。そこまでしてもらっちゃ。大事な『家族』だろ?」
 相当慌てているらしく身振りも大きいニトロの言葉に、ハラキリは頬の奥をほころばせた。
 韋駄天を通じて撫子も彼の言葉を聞いている。
 そのメモリをくすませる不安は、彼の心根がいくばくか消してくれたはずだ。
「いいですよ。撫子も了承していますから」
「……撫子も? そのサポートを育てたのは……?」
 大抵、サポートA.I.を育てるのはメインA.I.だ。
「撫子ですよ」
「その撫子が、いいって?」
「ええ」
「そう……」
 ニトロはふいに黙した。唇を結び、何やら深刻な顔でうつむく。
 それから会話は十分ほど途切れたろうか。
 うんうんうなって熟考し始めたニトロの言葉を待っていたハラキリに、彼はようやく言った。
「大切にするよ」
 顔は真剣そのものに、まるであらゆる現実を受け入れる覚悟をした武人といったニトロの様子に、ハラキリはたまらず吹き出した。
「いやそんな、そこまで決意表明されなくても」
「大変なことだと思うぞ? よそのオリジナルを譲り受けるのって」
 躊躇いもてらいもなく素直に言うニトロの姿に邪気は一つもなかった。
「……そうですね」
 真面目で誠実な人柄――しかしこれであの『ニトロ・ザ・ツッコミ』でもあるのだから人間とは面白いものだと、奇妙な感慨を覚えながらハラキリは彼に振り向いた。
「大切にしていただけるのであれば、幸いです」
「不幸ニシタラエンジン焼キ切レルマデ振リ回シテヤルカラナ」
「それは……死んじゃうんじゃないかな?」
 韋駄天の脅し文句にニトロが頬を強張らせる。
「撫子も激怒するでしょうしねぇ」
「いやハラキリ君? やっぱり俺辞退しようかしら」
「いやいや、すでに言質げんちは取りましたから」
「いやいやいや? 何をバカ姫みたいなことを言っているのかな君は」
「いやいやいやいや、信用してますから」
「いやいやいやいやいや……ん? ああ、それはありがとう」
 唐突な転換にニトロがきょとんとして、それから頭を垂れる。
 それがとても間の抜けた調子で、ハラキリと韋駄天は思わず笑った。

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