「阿呆」
人気のない裏通りを繁華街の外へと歩きながら、ニトロは言った。
ニトロの肩に仮面を付けたままの顔を埋め、ティディアは彼を後ろから抱き締めていた。それは背から落ちぬようにしがみついているのではなく、恋人を抱くように。
いつもなら、ティディアが抱きつこうものなら暴れて振りほどくニトロは、彼女をそのままにしていた。
背中に感じるティディアの体は、火のように熱い。
「こんな熱で動き回るな」
「ぶりかえしちゃったわねー、これは」
腫れ上がった咽喉にかすれる囁きが、ニトロの耳をくすぐった。
「当たり前だ。大人しく寝ておけば良かったんだ」
「そうはいかないわよ」
彼女の囁きは、囁きかけるというよりも、小声でないと辛いと訴えるものだった。だがその割にニトロと話したくてたまらないという響きがあり、そのせいで活き活きしているようにも聞こえる。
「『決行日』は今日だったから。絶対に成功、させなきゃいけないもの。寝てなんか、いられないわ」
「……成功?」
「そう、」
ティディアが咳き込んだ。ついさっきまで参謀として張り上げていた元気は、もうどこにもなかった。
「これで、ニトロを襲おうって奴……、減るわ」
その言葉に、ニトロは意表を突かれた。
(――そういうことか)
最後まで解らなかったティディアのメリットが、ようやく解った。
(…………やってくれる)
彼女の目的がいつもの『企画』のようなものではなかったことを察し、胸に揺らめいていた怒りが思いもよらぬ方向に裏切られて戸惑う。戸惑いに行き場を見失った怒りが鎮められ、ぽかりと開いた感情の隙間に複雑な――顔に出したところで苦笑いにも渋面にもならないだろう複雑な思いが流れ込んでくる。
「今日のことはネットに広がる」
こちらの心地を知ってか知らずか、ティディアは痛々しい声の奥には失われた快活を補うほど、安堵にも感じられる充実があった。
「噂にもする」
「……」
「
「……」
「芍薬ちゃんの強さ、知れ渡れば……ね?」
「……もしかして」
ニトロは足を止め、ティディアを背負いなおした。
「お前、初めからこうなることを見越して『隊長』にあのセリフを残したのか?」
「私は会員3号よ」
明言はせずとも含み笑いを忍ばせた明らかな肯定を、初期から潜り込んでいたという告白と共に返してくる。
この態度、そしてこちらに黙ってやっていたことを思えば、彼女はついでに楽しんでもいたのだろう。王立ティディア親衛隊が、隊長の影に溶け込んだ女神の糸に操られていた様が目に見えるようだ。
ニトロはため息をつき、また歩き出した。
「結局、全部お前のお膳立てか」
「いいえ。私は『王立ティディア親衛隊』のお膳立てを、利用させてもらっただけ」
「ひっでー奴」
「あら、どうして?」
「形はどうあれ、隊長に、隊員も皆お前のことが好きなんだぞ?」
「だけど私の好きな人を危ない、目に――会わせる
彼女の声に、少しの力強さが戻った。
「ほんとなら、生まれてきたことを後悔するくらいに叩き潰したいわ」
「やめとけ」
「本気よ。あいつら、放っておけば簡単に暴走する。ニトロをどうにかしようっていうのだって、私が言い出したわけじゃないのよ? もしかしたらニトロ、本当に危ない目に会うかもしれなかったんだから。そんな奴ら、許せるわけがないわ」
「お前が言うと本気で怖いから。いいから、やめとけ」
そう言ってニトロは口を閉じた。なおも何か言おうとするティディアを、背負いなおすことで黙らせる。
裏道を仮面で顔を隠した者を背負い歩く少年を、向こうから歩いてきた男性が訝しげな眼で見ていた。
男性とすれ違い、足音が聞こえなくなったところでニトロは口を開いた。
「……それでも、無理して出張ることないだろ。代役、ヴィタさんか、ハラキリにでも頼んだら良かったじゃないか」
「嫌よ」
小さく、咳を飲み込むように息を吸う彼女の胸が膨らむのが、背に伝わってくる。
「ニトロを、助けるのは、私。
今度こそ、私」
「んな我儘で風邪を悪化させてたら世話ないわ。こじらせたらどうするんだ」
「大丈夫、死にゃしないわ。あ、でも、ニトロは私が死んじゃった方が嬉しいかしら」
「そいつは」
ニトロは、ティディアの浮ついた軽口に笑った。
「笑えるネタじゃないなあ。どうツッコンでも面白くない」
にこやかなニトロの声には、底光りする怒気が混じっていた。
いくらなんでもティディアの死までを望み、まして喜ぶことなどない。プライドを感じさせる彼の意志は背を伝い、ティディアの胸に沁み込んだ。
「お前らしくもない。
きっと熱のせいだな。だから、聞かなかったことにしておく」
「…………うん、ごめん」
ティディアはニトロを抱く腕に力を込めた。
「……背中、こんなにたくましかったのね」
「鍛えてますから」
ティディアは笑った。
「びっくりしたわ。まさか、隊長を倒しちゃうなんて」
「それを狙ってたんじゃないのか?」
「勝っちゃったのは予想外」
「ひでーなあ。じゃあ負けさせるつもりだったのか? 馬鹿みたいに煽りやがって。あれのパンチをまともにもらったら、冗談抜きで死ぬぞ」
「ニトロなら、平気だって判ってた」
ティディアが思い込みで事を判断することはないと、ニトロは知っていた。おそらくヴィタあたりに獣人の実力を探らせ、こちらの実力と比較していたのだろう。
しかし、だとしても随分大きな賭けをしてくれたものだ。
「平気って、勝つ見込みがないのにか?」
「負けなければいいの。保険もあったし、それに適当なところで私が『悪事は全て見せてもらった』って正体現したから」
「そりゃあ……面白い計画だな。きっと大騒ぎだ」
「そうでしょうね。で、私は怒るの。物凄く。ニトロが絶対私を止めようとするくらい。ニトロと私は喧嘩になるだろうけど、最後には私は止められる。そうして、ニトロの存在がどういうものか、しっかり見せつけるつもりだった。
でも、結果はそれ以上ね」
ティディアは満足げに、噛み締めるように言った
「ニトロ……、いい感じだったわ」
彼は何と応えればいいのか解らずに黙った。
「もしかしたら、ニトロのファンになるのも、いるかもしれないわね」
嬉しそうな声に撫でられて、ニトロは胸に居座る複雑な思いを強くしていた。
こいつは『クレイジー・プリンセス』だ。『生まれてきたことを後悔するくらいに叩き潰したい』と、そう思ったのなら即座に実行してもおかしくない。いや、実行していない方がおかしいのかもしれない。
だがティディアはそれをしなかった。
ニトロは思い出していた。自分についている幾つかのあだ名、その中にある『クレイジー・プリンセスホールダー』――クレイジー・プリンセスを、
もしティディアが狂騎士を潰して回っていると聞いたら、彼女が怒る己をニトロが止めると言ったようにきっと止めただろう。例えどんなにニトロのためだったとしても、むしろだからこそ程度によっては本気で怒ったかもしれない。
彼女はそれを見越した上で、加えてティディア姫という絶大な力を抜きにしてなお、『ニトロ・ポルカト』に手を出すリスクを知らしめる手段を講じてきた。
『メルトンの逆襲』の折、あの獣人のことがどこの誰にも報じられなかったのを不思議に思っていたが、このためにティディアが彼の情報を出回らないようにしていたのだと今さら悟る。
あの時から、今日のこのために。
計画からずれたのも、おそらく、自分が彼女の期待にそれを上回る結果で応えたことくらいだろう。
(おっそろしい奴)
とうとう見つけたティディアに返せる言葉。しかしこれを言えば彼女は胸を張る。ニトロは繁栄の灯火にぼんやり白む夜空に目を移し、代わりにふとした思いつきを口にした。
「――風邪」
「ん」
「まさか、それまで『仕込み』じゃないだろうな。おんぶしてもらいたかったー、とか」
「まさか。この大事な時に何で風邪ひいたのか、自分でも解らないわ」
「なんでだっ。あんな馬鹿な写真集作ってりゃひいて当然だ」
「あれくらいで風邪ひくほっ……ど、やわじゃないわよ」
「ものの見事にひいてるじゃないか」
「そう、それが不思議でならない」
「お前ねー」
「それより、酷いわよ。写真集、送り返してくるなんて。わりと、頑張っ、たのよ?」
「頑張りゃ何でもいいわけじゃないだろ」
「あら、頑張ることは大事よ?」
「そうだな、俺もそう思うよ。だけど、俺も頑張ってるけど、なんでか世間じゃあお前と結婚するって方向に事が進んじまってるんだ。どうしてだと思う?」
「あ、それは無駄だから。無駄な頑張り」
「……」
「無駄」
「このまま前転宙返りを無駄に失敗してやろうか」
「あ、それは勘弁して」
ティディアはわざとらしく咳をした。そうしたら本物の咳を誘発したらしい。酷く咳き込んで、苦しそうにニトロにしがみついた。
「…………阿呆」
ニトロは歩き続けていた。当てもなく歩いているわけではないが、その『当て』がまだ現れてくれず、彼は仕方なく歩を進めるしかなかった。
もう繁華街の風景は薄れ、周囲は住宅街へと変わり始めている。
「主様」
やっと背後から待ち声がかかり、ニトロは安堵の息をつき足を止めた。