獣人が拳を握った。
 ニトロは大きく後退しながら、砕けそうになる膝とすくみそうな肩を張り、構えを取った。
(一か八か!)
 その時だった。
『体が硬い!』
 まるで以前、この獣人ビースターに襲われた時のように、先生の声が脳裡に響いた。
『肩の力を抜く!』
 反射的に、体から余分な力がふっと溶け消えた。
『さあ、まずは集中』
 それは稽古をつけてもらっていた時、いつか言われたことだった。
『目だけ先に逃げちゃ駄目です。相手をよく観て――』
「ニトロ・ポルカトォォォォ!!」
 獣人が獰猛にえた。
 怒りに任せて地を蹴り駆け込んでくる。
 その渾身と握られた右拳を頭の後ろまで大きく引き絞り、
(あ、テレフォン
 もしもしこれからパンチを打ちますよ〜と、獣人は示していた。
 自分のものより二周りほど大きい獣人の拳を、まともに食らえば怪我では済むまい。
 だがニトロは、自分でも驚くほど平静な心でそれを見ていた。
 『格闘プログラム』で脳と体に刷り込み、繰り返し『トレーニング』で血肉と骨と心に叩き込んだ動作に身を任せ、左に踏み出す。
 ニトロの右耳の向こうを豪腕が通り過ぎ、勢い余って獣人は体ごと彼の脇を抜けていった。
(左かな)
 渾身の一撃をかわされた獣人は首筋を憤激に引きつらせ、己の右手に回り込んだ標的を打とうと左の拳をまた大きく引き絞った。
 予想通りのパンチを全身に染み込んだ体捌たいさばきでかわし、獣人の左側面、彼が最も攻撃しにくい角度のスペースに身を入れる。
(遅い)
 いつも戦っている『敵』はもっと速い。にこにこ笑いながら遠慮なく叩きのめしてくれるトレーナー、友人に対して容赦のないハラキリ。
 獣人は彼らと比べようもなかった。何もかもが大雑把過ぎる。以前と変わりない、いや以前にも増して隙だらけと判る、成長のない攻撃。
 ニトロは――
 本当は獣人一人を相手に逃げ続け、できる限り時間を稼ぐつもりだった。
 だが、彼の体は懸命に覚えてきた動きのままに、今やごく自然と攻勢に備えていた。
(右)
 二度も拳をかわされた獣人はむきになり、肩だけでなく全身に力が入り過ぎている。
 今度こそとさらに力任せに、右手で殴るには殴りにくい位置にいるニトロを追って体ごと腕を振り回してくる。
「フッ!」
 ニトロは小さく息を吐き、そこにカウンターを放った。
 獣人の懐にもぐりこみ、攻撃をもらわぬよう頭を下げて、大男の顎に向けしなやかな力で右拳をぶち込む!
 !!
 骨と骨がぶつかる感触がニトロの腕に伝わった。
 渾身のパンチを放ったところへ綺麗に顎を打ち抜かれた獣人はうめく間もなく尻餅をついて倒れた。
 大男が倒れる鈍重な音はやけに大きかった。一拍の間を置いて何か硬いものがアスファルトに落ち、その音がビル壁に当たりこだました。
 落ちたのは、隊長がつけていた金色の仮面だった。それは二・三度跳ねると未練もなく地に伏せ、黒い舗装の上でそれきり動かなくなった。
「――――――?――――――」
 沈黙が、訪れていた。
 先ほどの沈黙とは違う、戸惑いに満ちた静寂が仮面の奥から声を奪っていた。
 ニトロは周囲を見回した。
 隊長が、天を仰ぎ大の字に倒れている……どうしてそうなったと理解できぬのか、それとも目の前で起こったことを理解したくないのか、この上なくうろたえている狂騎士達が、ニトロの視線を避けるように身を縮めている。壮絶な瞬間を目の当たりにし、彼がいつか『狂戦士』と称されたことを思い出したようだった。
 萎縮する狂騎士達の様子に、相手が完全に呑まれていると確信したニトロは、最後に彼女に目を留めた。
 一人だけ集団から数歩前に飛び出ている銀色の仮面は、じっとニトロを見つめていた。
 彼女はふらついている。
 先ほどまでの足元が浮つく程度ではない。まるで支柱が折れたように揺らめいている。
 ニトロは内心に嘆息を吐き、意識の飛んだ瞳で空を見ている獣人を視界に置きながら、そちらへと歩いた。
「うぬ!?」
 獣人が気を取り戻し、疑念の声を上げた。体を起こしてなぜ自分が倒れているのか解らない顔で周囲を見、そして去ろうとするニトロに気づいて叫んだ。
「待て! どこへ行く!」
 立ち上がろうとする獣人の、露になったその顔が以前と変わらず怒りの形相であるのを横目にニトロは言った。
「無理はしないほうがいいよ」
「無理などしておらぬ!」
「ダウンしていたのに?」
 苦笑混じりにニトロに言われ、そして立ち上がろうとした途端また尻餅をついた獣人は、笑う膝にようやく何が起こったのか悟らされた。地に落ちた仮面を見て己の顔面を初めて改め、それから慌てて部下達を見る。
 誰も、何も言えなかった。
「おのれ!」
 羞恥を激昂で拭おうとする絶叫が、耳をつんざいた。
「これではティディアちゃんへの愛が……! ニトロ・ポルカト!」
「その気持ちは伝わってるんじゃないかな」
 苦笑いを消さず、代わりにその声に労わりが加えられたニトロの言葉に、震える足で必死に立ち上がった獣人は目を見開いた。
 あっと、誰かが声を上げた。
 ふらついていた銀の仮面――参謀の体が、ぐらりと大きく傾いだ。
 あの女神の声を守る黒い箱が彼女の手からこぼれ、アスファルトに硬い音を落とした。
 そこにニトロの手が伸びた。彼は倒れこんできた彼女の体をしっかりと受け止め、支えた。
「まあ……さ」
 そして、ニトロは息を飲んで参謀を見守る親衛隊員達を、隊長を、順に見た。
「俺を嫌うのも、ティディアと別れさせようとするのもいいけどさ。
 それより仲間の不調にくらい気づいてやりなよ」
 ニトロはしなだれかかってくる彼女を背に負った。
 誰かが何かを言おうとするよりも早く、ニトロは言った。
「酷い熱だ。この人は俺が責任を持って医者に連れて行く。ちょっと……今のあんた達には任せられないから」
 隊長――獣人の大男が少年ニトロに倒された衝撃、さらに倒れた仲間を敵に助けられたという事実が固めたこの優勢を失わぬよう、ニトロは余裕すら見せて穏やかに言い続けた。
 しっかりとティディアを背負い、少しだけしがみつくように彼女の腕に力がこもるのを感じながら、立ち上がる。
 彼はゆったりと駐車場の出入り口に向かった。
「それと、あんた達の身元、調べようと思えば調べられるけど……まあ、今回は見逃す」
 気圧されたように、また降参したように道を開ける狂騎士達の間を歩き、駐車場を出たところでニトロは振り向いた。
 誰も何も言わない。獣人も毒気を抜かれてこちらをただ見つめている。
 そしてニトロは、考えうる限り最も恐ろしい表情をその面に浮かべた。
「ティディアにも手出しはさせないから、安心していいよ」
 にっこりと笑ったニトロの言葉は、言葉とは裏腹に死の宣告にも似た意味を含み。
 彼が倒れた参謀なかまを連れて去った後、この場に残ったのは――
 沈痛、それだけだった。

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