脳裡を埋め尽くしていた憂鬱を振り払い、ニトロは携帯をポケットから取り出すや急いで接続した。声が反響しないよう口に手をあて、大きく囁く。
「芍薬、今どこ?」
[もウスぐ迎エに行くゾ]
「っ!?」
受話口から聞こえてきた声は、芍薬のものではなかった。
[ニトろ・ポるカト]
男と女、肉声と機械音声が入り混じる異様な声だった。
ニトロは驚愕と不快感に硬直した背をのけぞらせるように立ち上がり、周囲を素早く見回した。
人影は、ない。街からの音が遠鳴りに聞こえているが、音はそれだけで声もない。
携帯のディスプレイを見ると、発信者名には電話番号が隠しもせず記されていた。よほど身元を知られない自信があるのか……
ニトロは深呼吸をし、恐慌きたして今にも喚き出しそうな心を隅に押しやった。無駄を覚悟しながらも、問う。
「どこで番号知ったんだ?」
[神ノ導きダ]
応えてきた。ニトロはすぐに言葉を返した。
「そりゃまた。あんたの神様はよっぽど暇だなあ」
[オ前ハ神のテキなノだ。我ラが女神を貶メるゲ郎]
「だから、俺が一方的にあいつに迷惑かけられてるんだって」
[女神をアイツ呼バわリか、悪魔メ!]
突如とした叫びに、鼓膜が痛んだ。
[天に代ワりオ前を罰スル! 我等ハワれ等がメ神の守護き士ナり!]
(『確定』だな)
[ヨいか!? オまエは――]
そこでニトロは通話を切った。即座に電源を落とし、考える。
(芍薬と牡丹に、尻尾を掴ませない相手か……)
ニトロは携帯のメモリーカードを取り出し、それを思い切って折った。それから本体の電源を再び入れると適当に放り捨て、周囲を警戒しながら通路に出る。
電話式の携帯は、入力される様々なデータを全てメモリーカードに記録するタイプがほとんどだ。
彼の携帯もそれに漏れず、個人情報が詰まったカードを抜けばネットをはじめ各種データを用いたサービスは使えない。使用可能な機能は電話とテレビの電波受信機、そして位置測定のみに絞られる。
カードに蓄えられていた電子マネーを失ったのは痛いが、しかし電話番号を知られている以上――こちらのA.I.に手を焼かせるくらいなのだ。すでに受発信記録や位置測定機能を逆に利用されてしまっているだろう。
この居場所もすでに察知されていると考えた方がいい。
悪用される心配をなくした本体は、慰め程度の囮としてそこに置いていく。
代わりにニトロは財布の中の『カード型発信機』の電源を入れ、利用者用のエレベーターホールには向かわず車用の出口通路に走った。
(それにしても……)
電話口の相手は『司令塔』だったろうか。
司令塔だとしたら、ちょっとした挑発に乗ってきたことを考えると冷静な人物ではないようだが、それとも激昂しやすいながらも組織を的確に動かせるタイプだろうか。
だがどちらにしても、相手は詰めが甘そうだということが判ったのは収穫だった。
わざわざ電話をしてこなければ、こちらは相手が自分の携帯が識別されていると気づかずそこでジッとしていた。
そこに人数を集めれば逃げ場もなく、文字通り袋のネズミだったというのに。
(――いや)
待て。
そうだ。
携帯を識別できているのなら、黙ってこちらの動きをトレースしていれば良かったのだ。尾行など必要ない。わざわざ姿を現す必要などない。そうすれば、完全に不意打ちをかけて良いようにできたはずだ。
ではなぜそんなことをしたのだろうか。
(嫌がらせ……か)
わざと姿を現し、わざと電話をかけてきて、こちらに『追われている』……そして『追い詰められている』という実感を起こさせるつもりなら、その詰めの甘さも計算の内だと理解できる。
(綿密なのかずさんなのか)
どちらか判らない現状ではどうとも思えないが、もしわざと詰めを甘くしてみせているのなら、これは随分いやらしい相手だ。
本当に、ぞっとする。
(思う以上に厄介か?)
ニトロは認識を修正しつつ車用の出口通路を駆け下り、外に出た。
道を行く人の中にティディアの守護騎士を自称する狂騎士達がいないか一度見回し、
「……うわーお」
ニトロの口から言葉にならない感情がだだ漏れた。
「いたぞ!」
「おーー!」
ざっざっざっと足音を立て、あの奇妙な模様の仮面を被った連中が、ランニングウェアを着た仮面を先頭にして二列縦隊で走ってきていた。
ざっざっざっと一定の速度で、十数人が服装は違えど揃いの仮面を被り列を乱さず、奇異の目を浴びながら繁華街の歩道を走ってくるその姿は滑稽で――そして、恐ろしかった。
「逃がすな!」
「おおーー!」
連中が速度を上げた。
「攻撃ーーーぃぃ!」
「攻撃ぃ!?」
動転するニトロを斬り捨てよと言うように、号令を下した先頭の仮面が手を振り上げ勢いよく振り下ろす。
「おおおぉぉーー!!」
縦隊を組んでいた仮面達が一斉に列を崩して向かってくる!
「うわわ!」
ニトロは慌てて逃げ出した。
とうとう直接攻撃に出てきやがった。人目もはばからずに襲い掛かってくる奴らに捕まれば、どうなることか分かったものではない。
「天罰!」
「天罰!!」
「天罰!!!」
そう仮面達は叫び追いかけてくる。初めは乱れて、やがて合唱するようにまとまり始めた怒号を耳にして……ふと、ニトロは思った。
天罰。
例えば本当にそうなのだとしたら、ではこれは一体何に対する罰なのだ? もしやティディアをいじめてやろうとしたことに対する
ニトロの口元に、ニヒルな笑みが浮かんだ。
「だとしたら、あいつが好かれてんのか俺が嫌われてんのか」
このまま真っ直ぐ逃げれば待ち伏せに会うかもしれないと、ニトロは車道に出た。走りながら左右を確認し、行き交う車の途切れを狙い一気に対岸へと走る。
『狂騎士』達もその名に恥じぬと言うように、あるいは撥ねられることも辞さぬと言うのか無茶苦茶なタイミングで車道に雪崩込み――危うく連中と事故を起こしそうになった車の急ブレーキの音とクラクションの爆発が、ニトロの背を叩いた。
「おいおい正気か……」
肩越しに振り返れば、警笛とドライバー達の罵声の中を真っ直ぐ貫き追いかけてくる仮面の群れ。
「天罰!!」
「天罰!!!」
「天罰!」
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」 「天罰! 天罰!! 天罰!!!」
仮面の下の形相はいかなるものか。
命の危険もあったというのに躊躇すらなく、ただひたすらに耳を叩く大合唱を続ける狂騎士達に、ニトロは心から