「ツケラレテル」
 芍薬がそう言ったのは、自宅まであと数kmの町中だった。
 シートに預けていた体が飛び上がりそうになるのを努めて押さえ、ニトロは姿勢そのままに視線をバックミラーとサイドミラーに走らせた。
「後ろの?」
 すぐ背後にトラックがいる。中型で、有名な宅配業者のものだった。
 西の夕焼けも縮こまり、黄昏の闇とヘッドライトの影に隠れて運転席の様子はよく見えないが……制服を着たドライバーに不審な態度はないように思える。
「ソノ後ロ。デモ一台ダケジャナイ」
「何台?」
 ニトロは、ハラキリが用意してくれたトレーニングのうち、尾行されている時の対処法を思い出しながら言った。
「三台。交代シナガラ追ッテキテル」
「……こっちが気づいてるってのは」
「織リ込ミ済ミダロウネ。一応、組織ダッテルミタイダカラ」
「じゃあ、ほとんど確定かな」
「ソウダネ」
 ニトロはため息をついた。
 狂騎士達だ。本当に仕掛けてきた。
 もしかしたらパパラッチや単に遊び半分に『ニトロ・ポルカト』を追っている者、あるいは『ティディアのちょっかい』という可能性もあるが――現状から鑑みれば『狂騎士』が一番妥当だ。
 ただ、決め付けを元に状況を把握してはいけないというハラキリの教えを守り、念のため他の可能性も頭に残しておきながらニトロは芍薬に命じた。
「家に帰るのはやめよう」
「承諾。ドウスル?」
「とりあえずまいてみようか。
 そうだな……『その4』で」
「承諾」
 ニトロは声に緊張をこめながらも、体面では平静を装い続けていた。
 複数の相手に尾行されている以上、どこから監視されているか判らない。こちらが尾行に気づいたことを教えるのは、まだ後でいい。
 方向指示器が左を示す。カチカチと一定のリズムで刻まれる音が心音と重なり、お互いにテンポを早めているような錯覚に襲われる。
 ハンドルが左に切られ、車の進行方向が自宅からこの付近で最も栄えたエリアへと変わった。直後についていた宅配業者のトラックは直進して行き、その後ろにいた……芍薬が告げた敵の斥候が視界に入ってきた。
 無人タクシーだった。
 運転席の後ろ、後部座席に誰かが深く腰を沈めている影が見える。
「相手の動き、掴めた?」
 心を落ち着かせようとニトロは芍薬に話しかけた。
「御免ヨ。マダナンダ。
 尾行ノ通信ハ傍受シテルケド……随分訓練シテキタミタイダ。良イ『司令塔』モイルミタイダネ。最小限ニ抑エラレテル。暗号マデ使ッテルヨ」
「牡丹からは?」
「同ジ」
「あっちのネットワークにも引っかからないんだ……」
 感嘆と共に、なかなか心胆を寒からしめられる。
「結構なやり手も絡んでる、か」
「御意」
 前方に交差点が迫ったところで、背後についていた無人タクシーが右のウィンカーを灯した。
 こちらは直進のままだが、タクシーは躊躇うことなく右折帯に並ぶ列に入って停まる。
 サイドミラーにそれを見ながら、ニトロは芍薬に訊いた。
「尾行は?」
「――待機シテル」
 ダッシュボードのモニターで、芍薬の周りに不可思議な文字列がリングとなって回っている。芍薬の周囲を回転するそれらは差し出された芍薬の手に触れる度、ニトロの目にも意味のある文字列と変化していった。
「次ノ交差点、左方カラ。新参ダネ。コレデ四台ニ増エタ」
 暗号を解読した芍薬が言う。
 その交差点はすぐ目の前にあった。交差する道路は狭く、いかにも大道路に接する脇道だった。
 芍薬がアクセルを踏む車は、動じることなく交差点を直進していく。ちょうど信号は変わり目で、通り過ぎてすぐ脇道から数台の車が本線に流れ込んできた。
「ど――」
 どれ? と問おうとしたニトロの口が凍りついた。
 すぐ後ろにいた軽自動車を追い抜いて、自分たちと軽自動車の間に無理矢理割り込んできた車がいた。
 黒いワゴン。運転席にはハンドルを握るドライバーがいる。やけに綺麗な弧を描く顔の輪郭に異星人かと思ったその人物は、違った、仮面を被っていた。街灯の光が刺し込んだ拍子に見えたその顔は、奇妙な模様の仮面に覆われていた。
「? ……」
 ニトロは、その仮面に見覚えがあった。
 暗みの中にぼんやりと浮かぶ仮面。それに後をつけられている不気味さに強張る頭を懸命に働かせ、どこで見たかと思い出す。
 あの奇妙な模様、確かごく最近に見た覚えがあるのだが……
「――あ!」
 どこでそれを見たのか、思い出した瞬間、ニトロは凍りついた。
「ドウシタンダイ?」
 突然ニトロが上げた声に、芍薬が驚き訊ねる。
 彼は戦慄に身を総毛立たせ、そして大きな反応を出してしまったことに内心舌打ちながら答えた。
「あの仮面」
「仮面?」
「ああ、あれ。水族館に向かう途中で俺を見ていたよ」
 国道沿いにあったベジタブルストアで、客引きの手品師だと思ったタキシード。あれが被っていた仮面と、すぐ後ろでワゴンを走らせるドライバーが被るものは全く同じものだった。
「随分前から、仕掛けてきていたみたいだ」
 いつから見ていたのだろう。いつから観られていたのだろう。芍薬の目すらかわされ、ずっと尾行されていたのだろうか。
「……」
 寒気がした。これは、これまでの熱狂的なティディア・マニアとは一線を画している。間違いない、脅威だ。
 と、ニトロは、芍薬の肩が落ちていることに気がついた。
 つぶさに感情が表に出る、正直なA.I.だ。
「気にしなくていいよ」
 ニトロの言葉に、芍薬は納得がいかない顔を見せた。
「あたしノミスダヨ。監視ニモ気ヅケナイデ、コンナ簡単ニ先手ヲ打タレチャッタナンテ」
「重点置いて調べてもらっているのは『王家』の動き。それに無作法なマスメディアに、俺を利用して商売しようとする奴らの相手もしてもらってるんだ。芍薬はちゃんと自分の仕事を果たしてる。これは不慮の事故みたいなもんだよ」
「デモ『バカノ馬鹿』マニアニモ注意ハシテタンダ。掴ミキレナカッタノハ――」
「芍薬」
「……」
「そこに重点を置くように言わなかったマスターのミスでもある」
「ソンナコトナイヨ」
「マスターとA.I.はパートナーだろ?」
「御意」
「じゃあ責任は背負いっこだ」
 言いながら、ニトロは内心苦笑していた。
 去年の今頃は、自分が狙われるという危険な状況に陥ることがあるなど全く考えもしなかった。そしてもし一年前の自分がそのまま今ここに座らされたなら、きっと慌てふためいて芍薬を困らせているはずだ。
(よくも悪くも)
 あの『映画』での、そしてそれからの経験が、自分を変えたことを改めて自覚する。
「芍薬がいてくれて本当に助かってるんだ。今も頼りになってくれている。ちゃんと兆候を掴んでくれたから、心構えができていた。お陰で『不意打ち』を受けてパニックになることは避けられた。
 だから落ち込むことはないよ。それでもミスというなら、まずはミスをした同士お互い取り返そう。それから後で一緒に反省会だ」
 ニトロに言われ神妙な面持ちで沈黙していた芍薬の肖像シェイプが、突然モニターから消えた。
「あれ? 芍薬?」
 驚いたニトロが目をみはると、スピーカーが揺れた。
「あたしハマダマダ未熟ダ」
 その声は、照れを含んでいた。だが、そこには力強さがあった。
 ニトロは何も言わずに姿勢を整えた。芍薬と話しているうちに、戦慄していた心はどこかに消えていた。
 車は後続に仮面のドライバーが運転するワゴンを引き連れたまま、賑わう繁華街に入っている。
 もうそろそろ、こちらが手を打つ時間だ。
「主様、用意ハイイ?」
「いいよ」
 芍薬がウィンカーを出した。立体駐車場へと入っていく。
 管理システムがこちらのシステムに情報をよこすよう促し、それに芍薬が答える。徐行する車の前に落ちていたゲートが上がり、芍薬は指定された速度の限界で二階への通路を登っていった。
 バックミラーに映る尾行車が、慌てて追いかけてくる。だが一度ゲートが降りたため、互いに距離が大きく開いた。通路に入ったこちらの様子があちらから完全に見えない状況になった時、芍薬が合図した。
「今」
 ニトロはシートベルトのロックが、そしてリクライニングのロックが芍薬によって外されたが同時、背もたれに思い切り体重を浴びせた。
 引き出されていたシートベルトが格納される音と、リクライニングが全倒する音が重なる。
 ニトロは倒れたシートの上を素早く後転しながら身をひねり、助手席の後ろ、後部座席の床に両足で着地した。リクライニングのロックは外されたまま、そのためシートは自動で元の位置に戻っていく。それに合わせるようにニトロは後部座席の下に体を隠した。
 ほぼ同時に通路を登り切り、斜めになっていた車体が平衡を取り戻す。
「来タ」
 やや遅れて、尾行車が追いついてきたことを芍薬が報せた。
 相手は驚いているだろう。今の僅かな時間――しかし車を降りて逃げるにはけして少なくない時間、その隙間にニトロが消えてしまったことに。
 芍薬は立体駐車場をどんどん上がっていったが、尾行車はさすがにここで追うのはあからさま過ぎると判断したか、それとも消えたニトロが駐車場内にいないか探そうとしたか、途中の空きスペースに停まった。
 ニトロ達はしばらく駐車場内をうろうろした後、そのまま立体駐車場を出ていった。
 これで一台は完全にまいた。
 まだ車内にニトロがいることを疑ってはいるだろうが、しかし駐車場内でニトロが降りた可能性も無視できまい。少なくとも、サポートにもう一台くらい周辺で待機するはずだ。

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