ハラキリは、彼に寄り添うように座っているティディアに訊ねた。
「デートしてきただけよ」
「あれをデートと言うお前の頭はやっぱりどうかしてる」
 ニトロが見ていたニュースの話題が変わった。『次はウェジィ大騒動』とテロップが打たれた映像がしばらく流れて、それからコマーシャルに切り替わる。
 ハラキリは腕を組み、感じ入ったように息をついた。
「ニトロ君、足が速くなりましたねぇ。持久力も上がっているようですし、トレーニングちゃんと積んでいたみたいですね。感心感心」
「私もびっくりしちゃった。この分だと、ニトロに守ってもらえる日も近そうだわ」
「まあ、そこらへんのボディガード並みの技量は持たせるつもりですけどね」
「お前を守るよーになっちゃ俺は終わりだ」
「とまあ、心構えが駄目駄目なので諦めた方がよろしいかと」
「あら、そんなつれない。洗脳くらいしちゃってくれないの?」
「専門外ですねぇ」
「さらっと恐ろしいこと言うなっつーかハラキリも専門内だったらやる気かコラ」
 がばっと体を起こしてニトロは険悪な目をハラキリに向けた。だが彼は飄々とした様子で、それを軽く受け流す。
 膝に手を突いて立ち上がりながら、ニトロはため息をついた。
「なんつーかさ、ハラキリが帰ってきたって感じがするよ」
「そうですか? お久しぶりです」
「ああ、本当に久しぶり」
 もう一度、ニトロは息をついた。
 安心感があった。傍にティディアと、背後には姿を元に戻したその執事がいるのに彼がいるだけで心持ちが断然違う。一方的に守勢に回るしかなかったパワーバランスが改善されたことが肌に感じられ、頼もしかった。
 ここに芍薬がいればもっと心強かろう。そうすれば、『敵』と完全に伍することもできよう。
「それで、足を用意してくれるそうですけど」
 ハラキリが、ニトロからソファに座るティディアに視線を落として言った。
「途中、寄ってほしいところがありまして。少しお時間頂いてもよろしいですか?」
 その瞬間、ニトロの背をびりっと嫌な予感が走った。電撃のような悪寒に顎を引かれて肩越しに振り向く。ティディアは企てに染まる頬を緩やかに持ち上げ、何かを言わんとしていた。
「いや、俺が送るよ。てか送らせてくれ」
 この安堵が勝る環境を変えてなるかと、ニトロはハラキリに振り向きながらもティディアを制するように強く言った。
 そのニトロの様子にハラキリは怪訝な眼をしたが、ニトロの瞳に溢れる『懇願』に気づくと微苦笑を浮かべた。
「すいません、おひいさん。折角ですがやっぱりニトロ君にお願いすることにします」
 小さな舌打ちがニトロの耳に届いた。
 ニトロは内心、ざまあみろと勝ち誇った。
 その二人の見えざる応酬は、ハラキリにはまるで無言劇のように思えた。
 このまま劇がどう展開するか観ていたかったが、それより先にやっておかねばならぬことをふと思い出し、ハラキリはティディアに言った。
「ああ、そうだ。おひいさん、ラミラスからの親書です。使用暗号は、クイーン/クラブ/351」
 と、付けていた腕時計を外す。
「ヴィタ」
 ティディアに命じられてヴィタがハラキリに歩み寄る。彼から腕時計を受け取り、携えていた端末から伸ばしたコードを接続すると、その画面を確認した藍銀あいがね色の髪の麗人は主にうなずきを見せた。
 ティディアは、ハラキリに労いの眼差しを送った。
「お疲れ様、ハラキリ君」
「ただ働きはもう御免ですよ」
「そんなこと言わないで。またよろしくね」
 軽くウィンクするティディアに、ハラキリは肩をすくめた。
 そのやり取りに、ニトロは口を真一文字に結んでいた。
 なぜどこまでも一般人のハラキリが『親書』なんてものを持ってきたのかなどと、そこに踏み込んではいけない。そしてどうせ表向きのものは別に送られているんだろうなどと、勘繰ってもいけない。
 この件に関してはどこまでも置いてきぼりでいい。
 今のやり取り全て、自分は何も聞かず見なかった。使用暗号なんて聞いてない。腕時計とかそんなものは、絶対に見なかったのだ。
「帰りって、車でいいよね?」
 極力平静を装って、ニトロはハラキリに聞いた。
 ハラキリはニトロの額に冷や汗が滲んでいるのを見たが、何となく彼の心情を汲んでうなずきを返した。
「ええ。そういえばニトロ君、車買ったんでしたね」
「おう。あ、荷物は?」
「ダイレクト便で送りました」
「言ってくれれば後で届けさせたのに」
 ティディアが会話に入り込んでくる。ちょうどニトロは携帯電話を取り出していたから、ティディアのことはハラキリに任せることにした。
「これくらい、おひいさんに甘えさせていただくほどのことじゃありませんよ」
「まるで他で甘えるって言ってるみたいね」
「ただ働きは御免です」
 ティディアは笑った。
「いいわ。何か奢ってあげる。あ、アクセサリーとか興味ある? いい店見つけたんだけど」
「ああ、それでウェジィにいたんですか。しかし何でまたニトロ君も?」
「偶然」
「それはまた……」
 芍薬に、空港まで迎えに来るよう伝えたニトロが通話を切るのを見て、ハラキリは苦笑した。
「ニトロ君は運が悪いですねぇ」
「なんかねぇ、最近俺の運をバカに吸い取られてる気がするよ」
 ニトロは眉間に皺を寄せた。携帯をポケットにしまい、ソファに座っていたティディアが立ち上がったのに気づいてふと顔を向ける。
 そして――
「……は?」
 突然ティディアの両手に顔を挟まれて、ニトロは戸惑いの声を上げた。
 何をいきなりこの女はしようと言うのか。
 ティディアは陰惨ににっこりと、それこそ獲物を狩り殺す熱に浮かれた嗜虐者の顔で、嫌に眼をぎらつかせている。
「したわね?」
「はぁ?」
「芍薬ちゃんに、連絡、したわね」
「――――はっ!」
 愕然と、ニトロの体全体が硬直した。
「言ったわよね。ニトロ、今日一日キスでもって」
 彼の顔面を固定するティディアの両腕に、ふるって力が込められる。興奮のあまり彼女の瞳孔は大きく開ききっている。
「いや……待てお前……まさかあん時からこれを――」
「自分で言ったことは、ちゃんと守らないとね!」
「ぎゃああ! 待て落ち着け! まずは話し合おうってヴィタさん何を!?」
 迫るティディアの唇から必死に顔を背けようとするニトロの目に、ハラキリの傍らでカードサイズのカメラを構えるヴィタの姿が飛び込んできた。
「かかかか、カメラ!?」
「んふふー。明日の『特集』が楽しみー」
「おぉっ前このチクショ少しは恥じらいとか何とかうわわワムゥッ!」
 強引に唇を奪われて暴れるニトロ。
 逃してなるかと片手で彼の頭を片腕で胴を巧みに抱え込み、情熱的に接吻し続ける王女。
「えーっと?」
 すっかり状況から放置されているのに激しいデジャヴュを感じて、ハラキリは頭を掻いた。
 状況を鑑みて、それから黙々と映像を撮り続けるヴィタに振り向く。
「もしや、拙者は『出汁』にされちゃいました?」
「御明察」
「……う〜ん」
 ハラキリは苦笑して、今にもソファに押し倒されそうなニトロと、彼に食らいついているようにも見えるティディアに目を戻した。
「止めなくていいんですか?」
「面白いです」
「いや、このままだときっとまたぶん殴られますよ?」
「覚悟オッケーです」
「……そりゃあ、また」
「――――ンムーーーーー!?」
 ニトロのくぐもった悲鳴が急にトーンを上げた。
 そして彼の腕が大きく広がり、そのグーに握りこまれた拳が、ティディアのコメカミを左右から挟みこんだ。
「?」
 ティディアの目が見開かれた。完全に覚悟外のニトロの行動だったか、表情はきょとんと呆けている。
 刹那、ニトロの腕筋が膨れ上がった。ティディアのコメカミに当てられた両拳がぐりぐりと、グリグリと回転を始める。
「――――――ッ!?」
 ティディアの顔が険しく激しく歪んだ。
 彼女は堪らずニトロを解放し、そして絶叫した。
「ぃぃぃだだだだだだ!」
 悲鳴を上げ己の頭を万力のように締め潰そうとするニトロから逃れようと、彼の両手首を掴んで拳を引き剥がそうと暴れ出す。
 だが、吸盤でも突いているのかコメカミに抉りこむニトロの拳骨は毛の隙間ほども離れない!
何をさらすかくぉのクソ痴女がぁぁぁぁぁ……!」
 ただいっそうグリゴリと。
 ゴリゴリュッと
「ぅイィィハーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
 ごめ! やり、すぎたっ!ッ 痛たたたぅあきゃきゃきゃ! ギ― ―ギブァ! ニ.ド  ニトロギぃぃぃブ!!!」
 しかし赤鬼となったニトロは渾身の力を緩めない。
「UmeBoshiアタック。初出」
 記録でもしているのか、冷静に執事がつぶやく。
「――――――――――――っっ!!」
 もうあまりの激痛に声すら出せず白目をむいているのに、そのくせどことなく、王女様の惚けた顔には達成感が見受けられる。
「…………」
 手持ち無沙汰のハラキリは、腕を組んでその光景をしばし眺めていた。
 その、銀河を渡り宇宙を回ってどこを訪ねても、けして見られなかった珍妙な光景。
「ああ……」
 彼はやおら深く息をつき、そして胸に去来した深い感慨を噛み締めるように頭を振った。
「拙者は帰ってきたんですね、アデムメデスに」

→後日譚へ
←後編-3へ

メニューへ