後日譚

「――おぐぇぇぇぇ…………!」
 クッションの効いた格闘技用トレーニングルームの床の上を、ニトロは腹を押さえてのた打ち回った。
「まあ、そこそこ良しです」
 苦悶を噛み締める彼に、どこか気の抜けた調子で声がかけられる。
「……っ、っ、、っ、、、〜〜っ」
「でも逃げる時、直線的にばかり退く癖がついているのはよろしくないですね。あとで『格闘プログラム』にそこを修正する追加データを用意しておきますので、更新しておいてください。それから……」
「……ぅぅ…………」
 ニトロは、ようやく落ち着いたところで寝転んだまま、強烈な膝蹴りで悶絶させた相手を気遣いもせずつらつら指摘するハラキリを睨みつけた。
「なあ」
「何でしょう」
「もうちょっとこう、心配とかしない?」
「ちゃんとレベルに応じた手加減はしてますよ。
 それに本番だったらニトロ君はこの時点で『死』なわけですから。拙者の務めはニトロ君がそれを回避できるようにすることであって、『死んだ』ニトロ君を心配することじゃありません」
 ニトロは、痛む鳩尾みぞおちをさすりながら座り込んだ。
「ドライだなぁ」
「師弟関係に情は禁物です」
「あ、俺、弟子?」
「拙者はまだ弟子を取れるような人間じゃありませんけどね、それくらいの心構えでやらせてもらってますよ」
 そばのベンチに置いてあった手拭いを拾い上げ、汗を拭きながらハラキリは笑う。
 ニトロは被っていたヘッドギアを外した。
(ま、ありがたいか)
 笑顔、というには引きつった笑みを浮かべて、ハラキリが投げてよこしたペットボトルを受け取る。
「少し休憩しましょうか」
「ああ」
 中身のスポーツドリンクを二口三口飲み、ニトロは立ち上がった。
「それにしても……さ」
「ええ」
「あれに敵うようになるかなぁ」
 ニトロは、ガラス張りの向こうに見えるウェイトトレーニングルームを指差した。
 リノリウム張りの床の上に乱立する様々な器具で、健康維持のために行っている者からボディビルのために行っている者まで老若男女がトレーニングをしている中、特に注目を集めている一角がある。
 視線の中心には藍銀あいがね色の毛並みを持つ、ネコ起源の獣人ビースター猿孫人ヒューマン混血ミックスといった風体の女性がいる。彼女はベンチプレスをしていた。両端に小径のゴムタイヤでも付けているようなシャフトを、すらりとした体でひょいひょい持ち上げている。
「うーん、140は超えてますかね」
「普通に化物だと思うんだ」
「まあ、やりようじゃないですか? 何事も」
 ハラキリは、
(『馬鹿力』を出した時は敵うでしょうけどねぇ)
 と、内心では思ったが、しかしそれを口にはしなかった。
 ニトロに告げたところで意味はない。あれはそれこそ『火事場の馬鹿力みたいな』ものだ。自律的でなく、持続時間も長くない。さらに言えば、考えれば考えるほどよく分からない力だった。
 発現のキーは『ツッコミ』だったり『怒髪天を突く憤激』だったりのようだが、その条件を満たしていても出たり出なかったりと規則性はない。激しく動揺していると現れないようだが、そのくせ状況的には激しく動揺しているはずの場面でよく見られる。
 そのため頼るには不安定すぎて、つまり全く頼りにならない
 それが、ティディア達と自分の経験則から導き出した結論だった。
「ハラキリならどう?」
「どうとは?」
「敵う?」
「それはまた難しい質問を」
「印象でいいよ。やってみなくちゃ分からない、ってのは解ってるから」
 こしゃくな顔をしてみせるニトロに、ハラキリは何とも言えぬ顔で腕を組んだ。
「まあ…………そうですね、肉弾戦は苦しいです。まともに殴りあったら負けるでしょう。武器があれば何とか、というところかと」
「武器の携帯はなあ、色々問題があるからなぁ」
「武器と言っても色々ですよ。ようはやりようですから」
 ハラキリはニヤリと笑った。
 底が見えない笑いだった。どこか、ティディアと同じような臭いがする笑み。
 それを見せられては、納得するしかない。彼の『やりよう』を信じて、練習を積んでいこう。
 ニトロは感嘆とも嘆息とも言えない息をついて、付けっぱなしだったオープンフィンガーグローブを外した。
「でさ。気になってることが、もう一つあるんだけど」
「どうぞ?」
「前に『お礼です』って大金よこしたろ? いい加減、何の金だったのか教えてくれないか?」
 以前、『ティディア・マニアの獣人の襲撃』の前日だったか、ハラキリが渡してきた謎の礼金。何度聞いても理由を教えてくれず、そうしているうち彼が映画のプロモーション旅行に行ってしまったものだから今の今まで聞けずにいた。
「うーん。あれはですね……」
 ハラキリはこの期に及んで渋っている。ニトロを正面にしないよう体をそむけ、腕を組んでうなるだけで、何も言おうとしない。
 ニトロは、不機嫌に問うた。彼はこの機を逃すつもりはなかった。
「あれだけの金を押し付けたんだから、理由は教えろよ」
 ハラキリはしばらく困惑しうなっていたが、
「でなきゃ絶対に返すぞ」
「…………ニトロ君は、真面目ですねぇ」
 ようやく決心がついたのかニトロに向き直った。
「頑固でもある」
 ニトロがそう受けると、ハラキリは苦笑混じりに頭を掻いた。
「ええとですね、あれ、実は神技の民ドワーフからの『協力感謝費』なんです」
神技の民ドワーフ!?」
 思わぬ単語が出てきて、ニトロは素っ頓狂に声を上げた。ルームの使用者達の視線が集まり、ばつが悪くなって隅に行く。
「……で?」
 人目も散った頃合を見計らって、ニトロはハラキリに小声で促した。
「覚えてますよね、天使のこと」
 小声で返してきたハラキリが口にしたものにすぐに思い当たるものがなく、ニトロは記憶を探った。
「ほら、シェルリントン・タワーで」
「……あっ」
 思い出した。悪夢のようなあの『天使』。蛍光緑ネオングリーンのあんの変態生物。
「え? あれが、何?」
 激しく動揺しているニトロを落ち着かせる気なのか、明るい笑顔でハラキリは朗らかに、そして物凄い小声で言った。
「あれ、実は神技の民ドワーフの『試験製品』でして」
「……!!」
 ニトロは声にならない悲鳴を上げた。
 今、なんと言ったこの胡散臭野郎! 悪夢のようなあのアレが! 神技の民ドワーフの、どわぅふノお試し実験品だと!?
「ああ、安全性に関しては何度も確認を繰り返した折り紙付きのものだから安心してください。『試験製品』といっても限りなく『製品』に近いものですから。
 ただ効果がいまいち安定していないというか、個人差があるというか。
 いや、あれを使えば助かると言ったのは本当で間違いない確実なデータを根拠にした上での……あれ? ニトロ君?」
 ニトロは震えていた。
 脳裡にあの土壇場で消え去った糞『天使』の言葉が思い出される。アレが、最後に言ったセリフ――「意外に君は愉快な変身してくれたよー」
 意外に君は。
 意外に、君は。
 ・君は!
「おぉぉぉまあええええ」
「あれれ? ちょいとニトロさん、大丈夫ですって。君のデータは非常に有効らしくて、ええ色々と生物の神秘とか可能性とか面白――」
 ニトロの掌がすいっと動き、ハラキリの顔面を鷲掴んだ。
「!?」
 ハラキリは息を飲んだ。なんと無駄のない動きか。こんな動作ができるなら、ティディアだろうがヴィタだろうが撃退でき――……
 撃退、されてしまうのか? ハラキリ・ジジ?
「ほらだから話したくなかったんです! ニトロ君、落ち着きましょう!」
「なんつー危ねーもんを人にぃぃぃ」
 ニトロの握力が、洒落にならないくらい跳ね上がった。
 みきりと頬骨が不協和音を奏でる。
 ハラキリは、顔面を烈火に包まれながら全身を氷塊に埋められたような感覚に襲われた。
「いやいやいやいや、これってもしや!?」
 引きはがそうとしても振りほどこうとしても関節極めて外してみようと試みても、ニトロの指は一ミリたりとて動きもしない。
 あ、何かちょっと懐かしいかもと、ふとハラキリは思った。
「ぬぁんつー危ねーもんを人にぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
「っ――――!!!

 瞬間的に水が沸騰したような、そんなざわめきがトレーニング機器の合間から沸き上がった。
「?」
 ベンチプレスを終えてランニングマシンで汗を流していたヴィタは、床に降り、周囲の人々が一点を凝視しているのに気づいてそちらに振り向いた。
「――まぁ」
 思わず、驚嘆の吐息が彼女の唇を割った。
 ガラス張りの向こう、幾つものサンドバックがぶら下がっている格闘技用トレーニングルーム。
 一人の少年が鉄の爪アイアンクロウでもう一人の少年の顔面を見事に捕らえ、まるでチアガールのボンボンのごとく振り回している。
 見ようによっては滑稽な、しかし我が身に置き換えると空恐ろしい光景だった。
「これは、報告しないといけませんね」
 各トレーニングルームには監視カメラが据えられている。その映像を持って帰ろう。
「ぉぁぁぁぁぁぁ………………」
 ガラス越しか、通路越しか――
 ヴィタは、かすかに聞こえてきたタフな少年の悲鳴を耳にして、微笑みながらもぞっと全身の毛を逆立てた。

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