ニトロが案内してくれた店は、予想を超えてうらぶれていた。
 『ウェジィ食堂』と、異様に古ぼけた看板にそう大きく書かれている。
 ぼやけた店構えだとティディアは思った。
 年季が入っていると言えば聞こえもいいだろうが、『場末』という言葉がこれほど似合う食堂も珍しい。
 塗料の剥げた扉の横、薄ぼけた板晶画面ボードスクリーンが示す昼の営業時刻はそろそろ終わりに迫っていた。中から喧騒が聞こえてこないのは、もう昼時の客がいなくなってしまったからだろう。
「よくこんな店知ってるわね」
 普通ウェジィに来る買い物客が食事をするのは、メインストリートとその周辺のカフェかレストランだ。夜ともなれば路地のバーにも集まるが、それでもここまで街を外れた場所に来るものはほとんどいないだろう。
「前にちょっとね」
 楽しげに訊いてきたティディアに、ニトロは短く応えるとノブに手をかけた。
(……バレるだろうなぁ)
 ニトロは横目にティディアを見た。
 浅い変装程度の彼女と、たかだか瞳に青いカラーコンタクトを入れただけの自分が席に着いているところを見れば、よくテレビに映るコンビだと悟られるのは時間の問題だ。
 それを考えると気が重いが、こうなったからには仕方ない。
 ニトロは扉を引き開けた。
 ウェジィ食堂は、外見だけでなく内装までうらぶれていた。中に入ってすぐ両脇に四人掛けのテーブルが二つずつあり、その先は厨房とそれに面した七人掛けのカウンターがある。
 小さいとは言わないが、大きくもない。しかしどことなく狭い印象だった。
 店内は清潔にされてはいるが、物々の年季か、不揃いなテーブルの椅子のためか、それとも油汚れが染みついた壁や天井の暗さのためか、清潔感より薄汚れた雰囲気がはるかに勝っている。
 空調は設定温度を高くしてあるらしい。
 外気より慰め程度に涼しい風が厨房から沸く熱と湿気を吸い込んで、涼気の所々に生ぬるさを編み込みながら店内を巡っている。
「 いらっしゃいませぇ」
 もう客は来ないと思っていたのか、ワンテンポ遅れたタイミングで鼻がかった声がニトロ達を迎えた。
 カウンターの先、専用の席なのだろうそこから恰幅のいい初老の女性が歩いてくる。左足が悪いようで、ロングスカートの裾から覗く足首に機械式パワードサポーターの固定バンドが見えた。
 それを見たニトロは、奇妙な感慨を覚えていた。
 店に入った瞬間、ここは何もかもが以前と同じだった。
 街の景観移り変わり激しいウェジィの中で、ここだけ時が停まっているようにも思えた。
 だが前に来た時は、彼女は機械の補助を受けずとも健脚を披露していた。怪我か肉体の衰えか、『お母さん』の変化は確かにこの場が時の流れの中にあることを、ニトロの目に形として見せていた。
「お好きな席へどうぞ」
 盆にコップを三つ、それに汗まみれの銀色のポットから水を注ぎ込み『お母さん』が言う。
 ニトロは入口脇のテーブルに、厨房に向かって座った。ティディアはニトロの隣に座ろうとして――しかし思い直して彼の正面に座る。
 ニトロは内心舌を打った。彼女が隣に座ったら、視線をヴィタに固定しようと思っていたのに。
「ささ、どうぞ。こちらメニューです」
 『お母さん』がやってきてせわしくコップとオシボリをそれぞれの前に置き、モニター部分も曇る年代物の板晶画面ボードスクリーンを一枚置いていく。
(……バレなかった……)
 彼女の後ろ姿を見ながら、ニトロは拍子抜けしていた。
 てっきり即座にバレると思っていたのに、意外にも気がつかれなかった。それはありがたいことだが、身構えていたからには何らかのリアクションがないと手持ち無沙汰な気持ちにもなる。
 手前勝手な自分の心境に胸中で苦笑しながら、ティディアが差し出してきたメニューを見ていると、誰もいなかった厨房に真っ白な調理服を着た男性が現れた。
 見覚えのある彼が無愛想な目つきをこちらに向けて、いらっしゃいと小さくつぶやく。『お母さん』の夫らしく客達に『親父さん』と呼ばれていた彼が全く変わっていないことに、ニトロは懐かしさを感じた。あの時も無愛想だなと思ったが、今回もまたそう思った。
 変わりある妻と、変わりない夫の対比にしみじみと感じ入りながら、ニトロはコップを手に冷水を口に含んだ。傾けられたコップの底縁から水滴が、一つ二つとテーブルに落ちた。
「決まった?」
 ニトロが返したメニューを受け取り、ティディアが言う。ニトロがうなずくとティディアはメニューをざっと見て、それをヴィタに渡した。
「もう決めたのか?」
「ええ」
 オシボリで手を拭きながら軽くうなずく。
 ティディアの即断即決は有名だが、いくらなんでも早すぎるんじゃないかとニトロは思った。
「悩む楽しみとか、ないだろ。お前」
「そんなことないわよ。私はいつもニトロに悩まされっぱなし。毎晩貴方が夢に出るくらいなのよ?」
「そいつは嬉しくないなぁ。むしろ出演料取りたいくらいだ」
「いいわよ。ここは私が持ってあげる」
「いいよ。お前にどんな借りでも作りたくない」
 ヴィタが『お母さん』を呼んだ。すぐに彼女が注文を受ける端末を手に、ぱたぱたとサンダルの音を立てて寄ってきた。
 ヴィタの注文を聞いてから、近くのティディアに向く。
姫様は何になさいますか?」
 『お母さん』がティディアを姫様と呼んだことに、一番驚いたのはニトロだった。
(――気づいてたんだ)
 ヴィタがイヌの口ながらも器用にコップの水をあおり飲み一息つく横で、ティディアは姫と呼ばれても何ら動じることもなく、親しげな笑顔で『お母さん』に向き直っている。
 それはとても慣れた様子で、ニトロはそうかと理解した。
(こういう反応もあるんだな……)
 水を一口含みながら、思う。
 確かに騒ぎ立てるだけが反応の全てではない。『クレイジー・プリンセス』の反面は『親しみ深いティディア姫』だ。今までも、こういうやりとりをしてきたのだろう。
 ティディアは気楽な調子で注文を口にした。
「チキンスープのヌードルセットのCを」
「ぷ」
 彼女の注文にニトロは小さく吹き出した。視線がニトロに集まり、彼は何事もなかったように平静を装ったが、口の端からは水滴がこぼれていた。
 ティディアは視線を『お母さん』に戻し、言った。
「彼も同じのだって」
 『お母さん』がニトロに確認の眼差しを送ってくる。
 ニトロは、しぶしぶうなずいた。
「それで、お願いします」
「かしこまりました」
 おかしそうに笑って彼女は頭を下げると、入力端末を操作しながら口でも『親父さん』に注文を伝えた。
 鼻にかかっている声で早口に、しかもメニューを略して言うから何を伝えているのかよく判らないが、しかし厨房からは即座に食材を取り出す音と短い返事が返ってきた。
 普通、入力端末は厨房と会計レジに連動しているから注文を口伝する必要はないのだが、昼時の混雑をさばくにはそちらの方が都合良いのだろう。
 長年磨いてきたコンビネーションを披露した後、会釈をして定位置に戻っていく『お母さん』の背中をティディアはじっと見つめていた。
 ニトロは彼女の後頭部が何を言わんとしているのか察していた。
 正面に振り返ったティディアはニトロが自分のことを見ていたのに気づいて、微笑んだ。

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