「……もしもし? あー、悪い、俺も駄目になった。
 え?
 いや、別に二人きりにしてやろうなんて思ったわけじゃないよ。あ、いや、そっちの方がいいかもしれないと今思った。
 ――はは、冗談だよ。ちょっと事情が変わったんだ。ああ、ちょっと……厄介な奴に捕まってね。いや誰って……」
 ニトロは鳥打帽がにこにこと笑っているのを見て、肩を落とした。
「察してくれ。分かるだろ?」
 ややあってから驚愕の大声が受話口から漏れた。ニトロは友人の声がティディアに聞かれたかと心配しながら、絶句したのか何も言ってこない彼に告げた。
「つーわけでさ、まあ、これはチャンスだと頑張ってくれよ」
 友人はしばらく沈黙していたが、ようやく決心して了解を返してきた。だがそれでも拭いきれない不安を吐露するのに、ニトロは電話口で笑いかけた。
「大丈夫だって。別に仕組んだわけじゃないんだから、分かってくれるって。
 うん……ああ、それじゃあまた。いい報せを期待してるよ」
 通話を切るなり浮かべていた笑顔を消し去り、ニトロは携帯電話をポケットにしまった。
 そしてふと、腕を組んで思案顔を見せるティディアの様子に、えも言われぬ不安を感じた。
「……何だよ」
 思案の中にある『不満』を敏感に感じ取ったニトロの促しに、ティディアは一転して輝くような笑みを浮かべた。
私を差し置いてグループデートする気だったなんて面白くないわ
 ニトロの顔が消し飛んだ。
「まぁでも、『俺も』ってことは先に相手の友達が駄目になったのねー。本命のカップリングはうまく残ったみたいだけど……どうせニトロを『出汁ダシ』にしなきゃ誘うこともできなかったんじゃない? ちょっと頼りないみたいだから、花火大会の力を借りてもうまくいくかしら。口も手も出せないで終わったりして」
 ニトロは、ぞっと背筋を凍らせた。
 今の断片でコイツは何をそこまで綺麗に読んでくるのか。
「……先に言っておくけど、友達に手を出したら怒るからな? 『人質』とか言ったら、本気で」
 ティディアは何も言わない。ただ、ニトロを見つめている。
(…………考えろ)
 ニトロは心中、自分に言い聞かせるように言った。
 ティディアの瞳は『応え』を強制している。さて、どう応じるべきか。無視するというわけにはいかない。すれば怒られることも辞さず、友人を巻き込んでくるだろう。
「…………お察しの通り、俺は『出汁ダシ』だよ」
 ややあって、ニトロはティディアの推理を認めた。
 余計な荷を担いでは、この女にそれを利用されてしまう。そして一度ペースを譲れば、そこから挽回することは不可能だ。それはあの『ミッドサファー・ストリートのサバト』で痛烈に経験したことだ。
「手助けしてあげようか? 私がいい感じに誘導してあげるわよ」
 ニトロの肯定に、ティディアは目尻を悪戯っぽく垂れた。
「それってお前も『グループデート』に入れろってことだろ?」
 ため息混じりの言葉にティディアがうなずき、ニトロはさらに嘆息した。
「冗談抜かせ。そんなことできるわけないだろ?」
「わりといい提案だと思うんだけどなー。皆でハッピーになれるじゃない。そのお友達は彼女ができて、彼女は彼氏ができて、私は愛する未来の旦那様と肩寄せあって花火を観るの」
「仮にその未来の旦那様とやらに俺を設定してるんなら間違いなく限りなく俺だけアンハッピーじゃねぇか」
「仮にじゃ「それにっ! 安心してお前に巻き込めるのはそうそういないんだよっ」
「んー、そうねぇ。力不足相手じゃ私も楽しめないわね」
 ニトロは、ティディアをはすに睨みつけた。
 憎らしげな眼差しすら真綿のように受け止める彼女は、一向に動揺の欠片すら表さない。その表情は無というには微笑が溢れ、しかし微笑みというにはそれはあまりに幽かで。ニトロは彼女の魔的としか言いようのない面持ちに警戒心や緊張を全て吸い盗られるような気がして、慌てて気を引き締めた。
 さっきまで鳴りを潜めていた『ティディア姫のオーラ』で心を飲み込もうしてくる彼女から意識を外そうと、相変わらず涼しい顔で、しかしどこか愉快そうに佇むヴィタに視点を逸らす。
「…………」
 ティディアに付き合わされるようになって、ニトロはこれこそが彼女の最大の武器だと思うようになった。
 皆が畏怖するティディア姫の本当に恐ろしいところは、その才気でも覇王のカリスマでも、ましてや『クレイジー・プリンセス』であることでもない。そんな概念が通るものじゃなく、理屈をすっ飛ばして何か底が知れないところだ。
 対面するとよく判る。
 全てを見通しているかの余裕に満ちた自信。押しても引いても殴り飛ばしても動かぬ存在感。
 彼女を前にした者の多くが骨抜きになるのは、蠱惑が形を成した美貌のせいだとも言われるが、そうではない。
 この……まるでブラックホールの底を覗き込んでいるような、どこか本能的な恐怖にも似た磁力のせいだ。
 得体の知れない深遠から伸びてくる見えざる手に引かれて、気がつけばティディアの前で裸になっているのだ。
 これに対抗するには強靭な意志を持って構えるか、ハラキリのように完全な自然体となって受け流すか、それともヴィタのように『ティディアとの関係性』を固めるしかあるまい。
 そしてニトロは、性格上、ハラキリの選択はできそうになかった。しかしヴィタの選択では間違いなく『ティディアの相方』しか道はないだろう。なれば選べるのは必然的に強靭な意志になり……しかしこれはなかなかしんどいものだった。
「わーかった。『グループ』は諦めろ。『デート』はしてやっから」
 ニトロは両手を振り上げ降参を示した。
 もうこの話題はここで切らねば、底なし沼のごとく足掻けば足掻くほど悪い状況に追い込まれる。それならいっそ、悪いながらもまだ自分で背負える状況を自ら用意した方がいい。
 ティディアはニトロの思惑を見抜いていると告ぐ眼をしていたが、すぐに機嫌良くうなずくとニトロの手を取った。
「いいわ。それで手を打ってあげる」
 ニトロはティディアの機嫌を良くした『企み』が一体何なのかと気になったが、詮索しても無駄かと肩を落とした。
「てか、随分上からの物言いだな、おい」
「そりゃ譲歩してるんだからね」
「譲歩してるのはいつでもこっちだ」
「そんなニトロの愛にいつまでも甘えていたい……」
「ぅあー、頭痛くなってきた」
「あら、それは良くないわ。早くニトロが行きたかったお店に行きましょう? 私が懇切丁寧に介抱してあげるから」
「病原体が何を抜かすか。ンなマッチポンプ御免被る……」
 手を引くティディアについて足を踏み出し、はたと気づいてニトロは緩みっぱなしの彼女の顔を見た。
「何で俺が『店』に行きたがってたって知ってるんだ?」
「んー? 直感」
 その半分は嘘だと直感で理解し、ニトロは半笑いを浮かべた。
 友人との短い会話から見事に『話』を言い当ててきたように、状況からの可能性と、そこから導き出した理詰めの推測の中から『直感』で正解を抜き出してきたのだろう。
「あなたの主人はおっそろしい奴だねぇ」
 鼻歌混じりに歩くティディアに引っ張られながら、ニトロは黙々と追従してくるヴィタに言った。
「『味方』であれば、この上なく頼もしい方ですよ?」
 それはティディアに『反抗』せず『相方みかた』になれとも言っているような口振りだった。
 ニトロは苦笑するしかなく、
「ねえ、ところで店はどこにあるの?」
 ようやく訊いてきたティディアの問いに、また苦笑いを深めた。
「お前が進む方向で、正解だよ」

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