「……ふぅん」
追跡中、街の外れの小さな個人店舗の前でティディアの足が止まった。
先導していたヴィタがそれに気づいて歩を戻してくる。窓から見えるディスプレイに展示された品々を眺め、隣に並んできた彼女にティディアは言った。
「わりと良さそうね」
「はい」
ヴィタも『ピン』ときたようで、片方の耳をぴくぴく動かしながら品を定めている。
ふとティディアは視線を感じ、そちらへ目を向けた。視線の源には期待と不安が入り混じった表情が、よく似た造型で二つ並んでいた。ちらちらと、盗み見るようにこちらを窺っている。
母子だろう。その様子から察すれば、まだ客がろくに来ていないようだ。
この宝飾の街の門戸はいつでも開かれている。ここに店を持つことを夢見る者も多く、それらに不動産を仲介するビジネスは一定の収入を業者に確約している。
だがそれだけに競争は激しく、そもそも星中に、中には星間に名立たるブランドがメインストリートに乱立する戦場で生き残れる店舗は少ない。続けられるかどうかの目安は、三ヶ月以内に口コミを得られるかどうかだ。
木戸を模した扉に吊るされたネームプレートは真新しく、流麗に『レドリ』と記す塗料も風雨の影響を見せない。開店からそう経っていないようだ。母子のこちらを窺う目の色を見れば、初めは期待に勝る心が不安に押され始めた頃合だろう。
(場所はババ掴まされてるけどねー)
出店することばかりに気を取られ、経営戦略はおざなりだったか。それとも不動産屋に言いくるめられたか。あるいはよほど自信があるのか。
どれにしろ立地のセンスは悪いが、アクセサリーのセンスはいい。ちょうどイメージしていた探し物が、ディスプレイの所々で輝いていた。
中心街と付近の路地を歩き通して探しても見つからなかったものが、まさかこんな簡単に、しかもついでに見つかるとは思ってもいなかった。
「ニトロは私の幸運ね」
つぶやき微笑んで、ティディアは歩き出した。ヴィタもすぐについてくる。視界の隅に分かりやすく失望している顔が見えた。後でその顔が歓喜に染まる時、どれほどの変化を見せてくれるかと思うと胸が高鳴った。
ティディアは上機嫌で、また先に立ったヴィタの背を追った。
「あ、この道は違うわ」
四つ角を左に曲がってから、しばらく歩いたところでニトロは断定した。微妙に湾曲した道はどんどん広くなっていき、このまま行けば郊外どころか田園の只中まで行ってしまいそうだ。
踵を返し、彼は来た道を戻り始めた。
芍薬に連絡して現在位置から『ウェジィ食堂』までナビゲートしてもらえばと頭をよぎるが、ニトロはその選択を採ろうとはしなかった。
道に迷うのも楽しみのうちだ。
思い出の中でも迷っていたことだし、それにちょうどいい準備体操にもなる。空腹は最大の調味料だ。
……まあ、どうしようもなくなったら、迷わず頼るけども。
(あのビルは……見覚えあるような気がするんだけどな……)
右手に見える背の高いビルをぼんやりと眺めて、ニトロははっと思い出した。
網膜に映るビルの輪郭が、瞼の裏の景色にはっきりと重なった。
(ああ、そうだ)
あのビルの陰になる路地を歩いたんだった。光を遮る建物を見ながら、辛気臭い道だと思ったのを覚えている。太陽はこちら側にある。だったらあの道はビルの向こうだ。そうか、一つ手前の四つ角を曲がるのが正しかったんだ。
ニトロは足を速めた。
目的地は近い。
もう道は間違えない。
父と歩いたビル影の底に沈んだ路地の色、陰鬱な空気の中を汗拭き歩いた思い出を追いかけて、食堂までの道程がまざまざと蘇ってきた。
胸を期待が占める。空っぽの胃袋が待ちわびていたように騒ぎ出す。
ただ少し不安なのは、この店の入れ替わり激しいウェジィにおいて、あの古ぼけた食堂がまだ残っているかということ。
だが、大丈夫だろうと、ニトロは小さな不安を溢れ出した胃酸の中に溶かして消した。
記憶の中、昼下がりの食堂は工房の職人達で賑わい、相席していた若い青年に店の女将は『お母さん』と、料理人は『親父さん』と呼ばれていた。そしてお世辞にも綺麗とは言えない店のうらぶれた様子は、この町で長く営んできた証拠だった。
そういう店が簡単になくなるはずもない。きっと今も、『お母さん』が鼻にかかった声で告げる注文を、厨房を一人で切り盛りする『親父さん』がぶっきらぼうに受け応えているだろう。
道を間違えることになった四つ角が目の前に迫った。
ニトロは早足のまま角を曲がろうとし――と、ふいに、右手から二人の女性が現れた。
女性達は談笑しながらこちら側へと曲がってきた。二人の内、
「っ」
このままではぶつかると、ニトロは慌てて歩足を緩めた。
それはこれまでのニトロには避け切れないタイミングだった。だが彼は『トレーニング』で染みつけられた
「すいません」
すれ違い様に
「…………」
ニトロは、また足を速めた。
「…………」
なぜだか強烈に嫌な予感がする。
足が独りでに、速度を増していく。
「――――」
我知らず胸をせっつく脅迫観念が、そのまま背中からロケット噴射となって体を前へ前へと押し出していく。
――走れ!
ニトロの脳裡で、ニトロが叫んでいた。彼の足は回転をどんどん増していき、もはや彼は早足どころか全速力で走り出していた。
――逃げるんだ!
大きく腕を振り、振られる腕の勢いをも推進力に換え。地を踏みしめる時間も刹那に脚の筋力全てを爆発させ。
こりゃもう陸上部に入ってアデムメデス高校選手権を狙えばいいんじゃないかってくらいの勢いで! 駆ける!
(――――ああ、そんな、まさか!)
胸が早鐘を打つ。この鼓動の激しさは、血を全身に送るためだけじゃない。ニトロはなぜ自分が逃げ出したのかを悟っていた。
(なんであいつが!?)
首筋に、接近してくる何かの気配が
ニトロの中でニトロが叫んだ。
――振り向いちゃ駄目だ! 見ちゃいけない! 脇目もふらず逃げるんだ!
だが、背後を確認したい。確認して、そこにはやっぱり誰もいないと安心したい――その誘惑に彼は抗し切れなかった。
全力で走りながら、一度だけ、肩越しに背後を振り返る。
肺腑が、一気に収縮した。
「ぃイーーーーーやーーーーーーーーー!!」
それは、物凄い速度で追ってきていた。
規則正しく腕を振り、規則正しく腿を上げ、涼しさ通り越して冷徹な顔で。
マリンブルーの瞳の猟犬が、靴底に肉球でもつけてんのか音も静かにおっそろしい速度で追いかけてきていた!
「うワぅっわーーーーーーーーーーーー!!」
ほとばしる己の悲鳴の間を縫って、
ニトロは限界を超えて走った。
こうなったら筋肉が断ち切れてもいい。
心臓が破裂してもいい。
とにかく無事に逃げ切れればいい。
そして……!
「つっかまーえたっ」
「っっぎゃああああああ!!」
ニトロは、