足腰の力が抜ける、二人分の体重を支えられず膝が折れる。しかしニトロがティディアを投げようとした勢いだけは生き残り――彼はもう、そのまま後ろに勢いよく、背泳ぎのスタートのごとくなだらかな弧を描いてダイブするしかなかった。
 床へ。
 セラミックの床へ。
「むもぉぉ!」「あれれ!?」
 ニトロの悲鳴とティディアの戸惑いが重なり、倒れまいと空を掻いたティディアの手はしかし虚しく何をも掴めず、ならばニトロの脳はせめて守ろうと胸に抱えなおそうとしたその瞬間――
 鈍く、
 されど派手な激突音が王立銀行内に響き渡った。
 硬い頭蓋骨と石床が衝突する身の毛もよだつ鈍い音に、周囲の誰もが眉をひそめた。
 冷たい床に硬いものと柔らかいものが同時にキスした生々しい音に、周囲の誰もが肝を冷やした。
 ニトロもティディアもろくに受身なんか取れもせず、この場で二人をみつめる全員の目に、その耳に、その心に、鮮やかな共同自爆をしかと焼き付けた。
「――――…………ぉー?」
 酸欠と、後頭部をしこたま床に打ちつけた衝撃で朦朧として、ニトロはうめいた。
 両目の上で、歪んだメガネのフレームが、記憶している形状に戻ろうと緩慢に動いている。
 さっきまで顔を覆っていたティディアの胸はもうそこにはない。
 しかし腰がなにやらすごく痛い。
 やけに遠くからティディアの苦悶が聞こえるが、彼女がなんで苦しんでいるのか分からない。
 意識が混濁している。視界に霞がかかっている。
 ニトロは手が独りでに動いているのを感じた。本能だとでもいうのか、彼の手は携帯電話を探り、力が抜けていく指先に命綱を辛うじて掴んだ。
 携帯をポケットから取り出した手は震えていた。最後の力を振り絞ってボタンを一押しした指からプラスチックの塊が滑り落ち、固い床に当たってかつんと泣いた。
「ニ、ニトロ……」
 痛みを堪えているのか震える声で呼ばれたニトロは、体は仰向けに倒したまま、そちらに首を回した。
 顔をむけた先には正座をして、鼻を押さえた手の下から血をぽったぽた垂らしているティディアがいた。
(……鼻血?)
 ニトロはおかしいな、と思った。
 なんでそこに鼻面殴り飛ばしたティディア・アンドロイドが一体だけいるんだろう……彼はそう不思議がりながら彼女を見つめていたが、やがてそれが本物のティディアだということに気がついて、鼻で笑った。
「なーんで、こうなったんだっけ?」
 頭の中に花火が上がっていてよく分からない。
 ティディアは焦点の定まらないニトロの瞳に、腕組みしてどう答えたものか思案し、ふと窓口の受付用のモニターに表示されている画面を見てうなずいた。
「ニトロのパスポート、申請受理されたわよ。三日後に受け取りにきてね」
 ぴっと人差し指を立て、鼻血を垂らしたままニコリとティディアが笑う。
 ニトロはため息をついた。
「そっか」
 こちらを観守っているだけだった銀行員達が急にわめき出した。どよめきと乱れる無数の足音を耳鳴りの向こうに聞きながら、ニトロは力なく笑った。
「パスポート取るのって、大変だなー」
 そう言ったきり、ニトロは白目をむいた。
「あれ? ニトロ?」
 ティディアが近寄り声をかけるが、彼はぴくりともしない。
 完全に、気絶していた。
「ニトロ!」
 ティディアは立ち上がった。
「誰か!」
 フロアの客達は、窓口カウンターの下へ恋人と消えた王女が再び姿を現したと思ったら、彼女が鼻から血しぶきを吹いて叫び出したことにひたすらに驚いた。
 だが彼女が助けを必要としていることは、その強張った表情、必死の眼から痛いほど理解できた。
 きっと愛しい恋人が、彼女よりも酷いことになってしまったのだ。
 それならばすぐにでも救急車を手配しなければ――
「ナース服! ナース服をこれへ!」
 その時、ティディア以外の全ての人間が一様に眉をひそめた。
 今、姫様何てった?
「ナース服はないの!? ありえないくらいミニスカートなの推奨!」
 ティディアが必死の形相で、きょとんと彼女を見つめる銀行員に、はたまた呆然と耳を疑っている客達に呼びかける。
 だが誰も応えない。応えられるはずもない。
 救急車を呼ぼうと携帯電話に手をかけていた何人かが、ティディアの注文に自分達は的外れなことをしようとしているのかと行動を止めた。
「ああもう、ナース服がないんだったら白衣でもいいわ!」
 じれったそうにティディアが怒声を上げる。
 ニトロが意識を失った今、彼女を止められるものはここにはなかった。その中で、ティディア・アンドロイズの一体、鼻を潰された片割れが窓口を乗り越えてきた。
「あれ?」
 何も命じていないのに動き出した分身を見てティディアが首を傾げる。
 鼻から下が赤く染まった王女、その同じ顔が二つ、しばし鏡を合わせたように見つめ合あった。
 シュールというか現実離れした滑稽な光景に沈黙がおり、次に何が起こるのかと誰もが固唾を呑んでいると、アンドロイドは倒れているニトロをそっと担ぎ上げ、近くに落ちていた彼の携帯電話を拾うと、窓口を飛び越え一目散に逃げ出した。
「――あ」
 ティディアは理解した。
「芍薬ちゃん!」
 彼女は慌てて声を張り上げた。
「乗っ取りはわりと重罪よ!」
「ウルサイ、バカ!」
 窓口を乗り越え追いかけるティディアに、何が起こっているのか理解できずに驚愕しながらも道を開ける客達の間を駆け抜けて、逃げる『ティディア』が怒声を返す。
「人命及ビ心身ノ保護ノタメノ緊急避難、適用状況ダ!」
「そんなわけないわこれから私が懇切丁寧に看護するのに!」
「ソレガ暴行傷害ダッテ言ッテルンダヨ!」
「うわ、ひどい言い草!」
 言い合ううちにも芍薬が乗っ取ったアンドロイドは疾走し、出入り口の防弾ガラス製の自動ドアが開くのはもどかしそうにちょっと待って、また脱兎のごとく逃げていく。
 生身の人間ではおよそ追いつけない速度。ティディアはフロアの半ばも過ぎたところで足を止め、肩を落とした。
「あ〜あ」
 これはもうどうしようもない。
 袖で鼻血を拭い、適当な監視カメラに体を向ける。
「ヴィタ、ちゃんと撮れてた?」
「ばっちりです」
 行内放送で応えてきた執事に監視カメラ越しに笑顔を――血糊のせいで壮絶に、かつ間抜けに見える微笑みを返して、ティディアはうーんと伸びをした。
「それじゃ、生データと編集版はいつも通りにね」
「かしこまりました。鼻はいかがでしょうか」
「痛いけど骨は大丈夫。血も止まってきた。あ、ニトロの家に医者を回しといて」
「そのように。これからそちらに参ります」
「よろしくー」
 頭の上で組んでいた手を解いて息をつく。
 完全に予想外だった展開を思い返すと、ティディアの肩は自然と揺れた。
「ま、ニトロを抱き締められたからいっか」
 欲を言えばもっと攻め込みたくもあったが、彼のことを考えればここらが潮時だ。彼女は満面に笑みを刻んでいた。
 十分楽しめた。
 今日は『ニトロとの映像日記』も更新できる。
 そして何より、彼をこの胸に埋めさせてやった興奮が満腹中枢を充足させている。
 心臓はまだ高鳴っていた。ニトロを抱いていた時の感触が熱となり全身を駆けていた。もしニトロにこの音が聞こえていたら、この熱が伝わっていたら、嬉しいのだが――
 いや、さすがにあの状況ではそこまでは叶わないだろう。
(でもいつか……ね。ニトロ、楽しみにしておきなさい)
 芍薬にハッキングされた『私』に担がれ去っていったニトロは今、どんな顔をしているだろうか。相変わらず白目をむいたままか、それとも意識を取り戻し、『私』が目の前にいることに慌てふためいているだろうか。
 治療セットを手にヴィタがやってきた。彼女の顔も満足げで、撮れた画が上出来なものであることが窺い知れた。
 差し出された点鼻用容器――医療用素子生命ナノマシンを併せた止血剤を受け取り、鼻腔にスプレーする。瞬く間に血が止まった。
 ティディアは点鼻薬をヴィタに返し、換わりに濡れタオルを手に取ると、執事の構える手鏡を見ながら口周りに流れた血を拭い取っていった。
「……ん?」
 顔を綺麗にし、一息ついたところで、ティディアは居心地悪そうに佇んでいる銀行員と客達の視線を一身に浴びていることに気がついた。
「ああ」
 そういえば、フォローを忘れていた。
 ティディアはタオルをヴィタに返して皆に向き直り姿勢を正すと、演技を終えたアクトレスのように美しく、優雅に辞儀をした。
「お楽しみ頂けましたらこれ幸い」
 顔を上げた王女は、片目をつむり微笑んでいた。
「本日はこれまで。続きはまた今度ね」

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