「『科学の進歩』のためよ。他意はないわ。ね、何で?」
「う〜ん……
 と、言われてもなあ」
 問われて、ニトロはなぜ本物のティディアを見抜けたのか、はっきりとした理由を答えられないことに初めて気づいた。
(なんでだろう……)
 あの時はとにかく異常状況を打破すべく、本体を叩くことに必死だった。だから強いて理由を挙げるならば、『必死だったから』だろうか。それでなければ他に思い当たるのは『直感』くらいしかない。
 まあ男性型の一体は簡単に除外できるとしても、それでも四分の一の確率だ。そこから正確に解答を拾い上げられた公式はなんだったのだろう。
「? ? ?」
 ニトロは首を傾げた。言いよどむこともできない。具体的な理由が全く見当つかない。
 その様子にティディアはじれったそうに身悶えていたが、急に、はっと何かに――それも誰もが目を奪われる財宝の在り処に気づいたように、頬を硬直させた。
「?」
 ティディアの変化にニトロは戸惑った。彼女は真剣な思案顔で床を一点見つめている。
 まさか新たに企てを思いついたかと身構えたが、そんな様子は感じられない。
 今度はどんなことを言い出しやがるのか。
 警戒してティディアを見つめていると、彼女はまたも急に、ばっと音がするかの勢いで紅潮した顔を振り上げた。
「!?」
 その瞳が異様な光で爛々として、ニトロはぎょっと身を引いた。
「愛ね!」
 ティディアが、叫んだ。
「……何?」
 いまいち彼女が言いたいことが理解できず、ニトロは眉間に皺を浮かべた。
 だがティディアはニトロの疑念には取り合わず、立ち上がり、両拳を目一杯握りこんで叫んだ。
「愛よ!」
「だから何が!」
「ニトロが『私』を見つけられた理由、それは愛!」
 ティディアの顔はこれでもかとばかりにとろけていた。
 最も愛する男から歯が全て抜け落ちるような甘い言葉をかけられたとしてもこうはなるまい。
 幸せ絶頂を叫ぶ王女の声は、朗々と銀行内に響き渡った。
「どんなに科学が進歩しようとも、人の愛には敵わない……私は今日、それをニトロに教えてもらったわ!」
「コラ待てなんだその自己完結の我田引水!」
 慌ててニトロがティディアを止めようと立ち上がろうとするが、ティディアの手が彼の頭を押さえ込んでそれを封じ込めた。
「ああ、なんて私は幸せなのかしら……愛するニトロが、こんなにも私を愛してくれているなんて! 他の誰もが見破れなかったのに、一目見ただけでニトロはすぐに判ってくれた……。コンピューターで解析しても時間がかかるのに、家族でさえ判らなかったのに、ニトロは瞬時に見分けてくれた!」
 感極まり、ティディアの声が潤んだ。
「これぞ愛の力!
 ニトロ・ポルカトの、私への愛の深さ故!」
「やーめて〜」
 ここぞ重大な転機と渾身の力で押さえ込んでくるティディアの体を這い登るように、いや、彼女に縋りついてニトロは懇願した。
 なんとかじりじりと立ち上がっていってはいるが、口を塞ぐにはほど遠い。
 脚を刈って倒してみようと試みるが、足裏から根が生えているのかびくともしない。
 どちらか一方に集中すれば目的を果たせるだろうが――
「今日この場に居合わせたあなた達は、この上なく運がいい!」
 ティディアの演説に気を取られて正常な判断ができやしない。
 彼女はもうニトロに語りかけてはいなかった。
 彼女が言葉をぶつけるのは王女とその恋人の奇妙なやり取りを観劇し続ける銀行の客、銀行員達。
 王気を放ち立つ彼女を息をこらして見つめる皆々に慈愛の眼差しを注ぎ、身振りは大仰に、オペラ演者のごとく堂々と謳いあげる。
「その目に、その耳に、その心に、鮮やかに焼き付けておきなさい。この良き日はきっと後世に語り継がれるでしょう。ニトロ・ポルカトが、ロディアーナ朝第129代王位継承権保有者の心に決「わあああああああああああああ!!」」
 いよいよ重要な言葉を口にしたティディアの声を、ニトロの絶叫が覆い隠した。
「…………」
 ティディアが腹の辺りにあるニトロの顔に目を落とすと、彼は、壮絶な眼でにやりと笑った。
 口を塞げないなら、倒せないなら、止められないなら、そう。
 塗り潰す。
「……ニトロ・ポルカトが! ロディアーナ朝第129代王位継承権ほ「ぅわあああああああああああああああああ!!!」」
「ニトロ! ポルカトが!! ロディアーナ朝第12き「わうわあああああああああああああああああああああああ!!!!」」
「…………」
 ティディアが胸下にあるニトロの顔に目を落とすと、彼は裂けた口の端から一筋の血を垂らしながらにやりと笑った。
「……ちょーっと姑息じゃない?」
「そっくりそのまま返したらぁ」
 ティディアは笑った。
 ニトロも笑った。
 両者の顔には、殴り合っているかの凄絶さがあった。
 ニトロは頬の下で、彼女の腹が大きく大きく膨れていくのを感じて心音を高鳴らせた。
 ティディアはこれまでになく息を吸い込んでいた。腹の底、その奥底から声を張り上げようと準備していた。
 そうはいくかとニトロも応じて息を大きく吸い込んだ。
 と、その時だった。
「?」
 ニトロは頭骨を押さえ込もうとするティディア力が緩んだことに、不意を突かれた。ひたすら浮上しようとしていたベクトルが巧みに動かされ、彼女に振りほどかれ……いや、そうはさせないと彼が足を前方に出した瞬間――
「んぅ!?」
 突然顔面を覆いこんできた思いもよらぬ柔らかな感触に、ニトロは息を飲んだ。
「! ? !?」
 不測のさらに外から襲い掛かってきた展開に彼は目を回した。
 一体何が起こっている? ティディアは一体何を!?
 彼女に叫ばせてはならないと解っているのに、現状を理解すらできず、焦燥に脳細胞があぶられ踊ってまともな思考ができない。
 ただはっきりと理解できるのは、後頭部には腕の感触。それが二つということだけ。
 前には、弾力があるのに触れれば溶けてしまいそうに柔らかなもの。
 後ろには腕が二つ。多分、前腕。
「――っ!」
 ティディアの胸に顔を埋められている
 ニトロはひどく動揺した。
 鼻も口も空気に触れられない。
 乳房の感触がどうのこうのというよりも、メガネのパッドが両目頭に食い込んで、フレームと、さらにティディアのネームプレートが皮膚にめり込んできてとても痛い。
 てかマズイ!
「むーーー!」
 ニトロは首から上を完全に固定されたまま、暴れ出した。
 頭を捕らえる腕を引きはがそうと試みても、ここぞとばかりのティディアの全力に邪魔される。
 手を伸ばして口を塞ごうとしても、華麗に唇が逃げていく。
「んむーーーーー!」
 必死に叫ぼうとしてもいかんせん口が彼女の胸に密着させられていて声を出せない。
 なんとか位置をずらそうとしても、絶妙な力の入れ具合でコントロールされて叶わない。
 こぉのクソ女、この魔の抱擁、絶対訓練してきやがったな!
「いい!? もう一度言うわ! 皆、その目に、その耳に、その心に、鮮やかに焼き付けておきなさい!」
 ティディアが叫んだ。その声帯の振動が、彼女の骨身を通してニトロに伝わりその心臓を揺らした。
 いよいよ危機が迫る。
 呼吸もできないから意識もぼうっとしてきた。
 動揺治まらぬ心までがつられてぼやけていく。
 しかし酸素欠乏の脳味噌で、ニトロは必死に考えた。
 こんな傍目から見たら『お熱い』だの『羨ましい』だの言われる状態で愛を叫ばれれば、これまでのティディアが単独で口にしていた惚気のろけとは威力が違う。
 銀行内にはたくさんカメラがある。きっときっちり撮られてる。ここだけ映像で流されてみろ。
 素晴らしき『愛の共同宣言』だ!
 これまでは頑なにティディアとの交際を否定していたニトロ・ポルカトが、とうとう交際を公に認めたなんて言われてしまう。
(断固阻止!)
 それだけは断固阻止!
「この良き日はきっと後世に語り継がれるでしょう。ニトロ・ポルカトが、ロディアーナ朝第129代王位継承権保有者の心に決意を! そう!」
「むうううう!!」
 ニトロは肺に残る酸素全てを筋細胞に動員させ、力を振り絞った。
 ティディアの背に腕を回し、両足はぎゅっと踏ん張り、背筋を爆発させる。
 こうなったらその口が動くのを、意識ごと止めてやる!
「ニトロの永遠の愛おぉぉぉぉお!?」
 ティディアの声が悲鳴に変わった。
 物凄い力で堪える間もなく抱え上げられ、ニトロが反り返り、そのまま彼の後方へ投げられそうになったティディアは反射的に足を彼の体に絡めた。
 それは――ティディアにとってはニトロが自分を投げ切れないよう、ただ動作を途中で止めようとしただけだった。
 だが今にもブリッヂをしようと背を反らしていたニトロの腰は、足を絡みつけてきたティディアの体重を、放り投げるはずだったのにしがみつかれた想定外の負荷を、受け止めきれなかった。
 グキッと。
「もぅ!?」
 腰が、砕けた。

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