けたたましい音を立て、二人は重なり合って転倒した。
 ティディアはニトロの体重をもろに浴びて椅子ごとひっくり返り、後頭部をセラミックの床に打ちつけた。
 ニトロはニトロで飛び込んだ勢いでティディアの上に圧し掛かるように倒れ、そこに椅子ごとひっくり返った彼女の膝が無防備な腹にしこたまめり込んできた。
「ふんぐぅぅぅぅぅぅ……!?」
 頭を抱え、腹を抱え、二人揃ってのた打ち回り――しばらくしてニトロが痛みを堪えて床にあぐらをかき、やがて赤茶けた毛のカツラを外して後頭部をさするティディアも体を起こしてあぐらをかいた。
 ティディアは不満そうに頬を膨らせてそっぽを向いていた。
 ニトロは腹の鈍痛と怒りを鎮めるために一度深呼吸をし、二人を遮る倒れた椅子をどかしてから腕を組んだ。
「で?」
「…………」
 ティディアは沈黙している。その顔には赤いモノがそこかしこに付着したままで、垢が擦り寄っているような、それともひどく無数にミミズ腫れしているかのようだった。
 ニトロは、初めは受付だった行員の顔の皮下組織だと思っていたそれが、特殊メイクの一部だと気づいた。
 だがその残骸はメイクと気づいた後でもそう思えぬほど生々しく、光の反射が体液の照り返しのようでもあって、見ていて落ち着くものではなかった。
 ニトロはずいとティディアに近づき、手を伸ばした。
「?」
 彼にはたかれるかと思い、反射的にティディアは頭を差し出した。
 まるで漫才のボケがツッコミに叩かれやすいようにしている風だったが、
「違う」
 ニトロは一言否定して、ティディアの顔につく汚れをつまんではがした。
「ほれ、こっち向いて」
「……むー」
 特殊メイクの残骸は、ニトロの手に懐かしい感触を与えた。そういえば『映画』の折、ハラキリがニトロに別人の顔を用意した時、被された特殊メイクのマスクにこんな接着剤が使われていた。
 もっともあの時はマスクを剥がした時こんなカスが残らなかったものだが……少し粘りが緩いから、まだ乾ききっていないのかもしれない。だとすればよっぽど急ぎでメイクを施してきたのだろう。
「――それで?」
「『単純接触の原理』ってのがあるの」
 ニトロに顔を綺麗にしてもらえて機嫌を良くし、ティディアが口を開いた。
「……何?」
「心理学でそういうのがあるのよ」
「ほう」
「簡単に言えば、『単純に接触する回数が増えるほど親密さが増す』ってやつなんだけどね。
 これだ! って思ったのよ」
「……それ、本当か? 結構、俺、お前との接触回数多いと思うけど、まったく親しみ増してないぞ」
「う。わりと効いた」
 沈痛に眉を垂れながらも、ティディアは続けた。
「まあ、私も変だなーと思ってさ。それじゃあ単純に私と接触する回数を増やしてやろうと思ったのさ。でも今まで以上に会うのは物理的に無理でしょ? 時間とか、距離とか。私の体は一つしかないし、忙しいお姫様だし」
 段々と核心に近づいてきた。ニトロはティディアが何と言うかなんとなく察しながら、ふと視線を感じてそちらに目をやった。
 四体のティディアの顔を持ったアンドロイドが、二体は相変わらず窓口の仕切りの上に立ち、ニトロに鼻柱をぶん殴られた二体は血色のオイルを鼻の両穴からぼったぼた垂らしながらカウンターの向こうに佇み、じっと見つめてきていた。ちょっと、いや、かなり不気味だった。
 気がつけば他の客達が窓口の外に、行員たちが窓口の中で、人だかりを作ってこちらを見物している。
 ニトロと目が合うと誰もが眼を逸らす。どうやら見物はするが関わり合いにはなりたくないと、誰もが思っているようだ。
 とても正しい。
「……それで? お姫様はどう考えたのかな?」
「だったら物理的に接触回数を増やしてやろうと。私と接する回数を、私の数を増やして一気に数を稼いでやろうと」
「だからあれか」
「そう!」
 ティディア・アンドロイズを指差すニトロに、ティディアは拳を握って瞳を輝かせた。まるで新しく買ってもらった玩具を自慢する子どもの瞳だった。
生体機械ゴーレム技術を併用したアンドロイドの最先端! 『ヂョニー』よりも精巧に生身に近づけた最高峰! ほら見て『私』の鼻骨が見事に折れてる! 他のアンドロイドじゃ、ああは軟骨の潰れ具合を表せないわよ!」
「お前は科学の進歩の活用法をも一度検討しなおせぃ。
 てかさ、『単純接触の原理』? その実践も間違ってるだろ。
 『五人で会えば一度で五回』なんて話じゃないだろうし、『本物が都合悪い時に代わりに会わせる』なりすりゃ確かに接触回数も稼げるかもしれないけどさ、意味なくないかな。単純に不気味でホラーなだけじゃないか。ティディアがいないはずのところにティディアがいるなんて、怖いだけだよ」
「それが結局難点だったわ!」
「あ、気がついてはいたんだ」
「でもそれならそれで、ニトロの怯える顔が見たくて堪らないじゃない!」
「いやそれ本末転倒……っつーか何その願望」
「そしてどうせやるんだったら思いっきり怖がらせたくて堪らないじゃない!? ちびるくらいに震わせたいじゃない! 脇目もふらず母星ほしの裏側から帰ってきたのは大正解だったわ!」
「…………」
「ああ……あの、ニトロの壊れかけたあの表情! 思い出すだけでとーろけちゃうぐらい最っ高だったぁあ痛たひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃびゃ!!」
 ティディアは悲鳴を上げた。
 ニトロに頬をつねられ、というか頬肉を引きちぎらんばかりにねじ上げられ、悲鳴を上げた。
「あれー? おっかしいなぁ。この特殊メイクのカス、はがれないや」
 引きつり笑顔でニトロが言う。だが目は笑っていない。酷く闇色に落ち窪んでいる。ティディアは焦った。
「ひょっおまっちぇニヒョリョ!」
「いやー、うまいこと造られてるよなー。このカス」
「きょへはわちゃひにょギャオゥ!」
 放し際の瞬間的な最大激痛に、ティディアは絶叫した。
 ひりひりと痛む頬をさすり涙目で抗議する。
「サ、サディスティックー」
「そりゃお前だ。悪趣味なことしてくれやがって」
 ニトロはティディアから、ティディア・アンドロイズに目を移した。
 鼻が潰れた二体の血色のオイルは流れを止めかけていた。その様子まで人間そっくりだった。子どもが興味を引かれて近づきでもしたのか、彼には見えない死角から母親の叱り声が聞こえた。
「それにしても、見れば見るほど見分けがつかないなあ」
 ぼんやりと、ニトロは感嘆の声を漏らした。
「そうでしょ、凄いでしょ」
 ティディアが胸を張る。
 ニトロは嘆息しながら、ティディアの顔に残っていた特殊メイクの最後の残骸を取り、片手にためていたゴミを受付の席の下にあるクズカゴに捨てた。
「凄いけどさ。これだと、犯罪に使われたらアリバイとか崩すの難しそうだな」
「あ、それは今のところ大丈夫よ。生産難しいから最近騒ぎの戦闘用みたいに横流しできないし、目茶苦茶高いし」
「……どれくらいのお値段?」
「んー、一体で全国平均年収の三十倍くらいかな」
「お……お前、そんな高価なものをこんなことに……?」
「テスト兼ねてるから無料よ」
「え、また実験?」
「やー、ニトロがいてくれて助かるわー」
「ぶっとばーすっ」
「きゃーーーーっ」
 明るい声を上げて、ティディアがあぐらをかいたまま、後方にでんぐり返って転がり逃げていく。
「…………ぁぁ」
 なんだか馬鹿らしくなって、ニトロはため息をついた。
「それにしても納得がいかないのはこのことよ」
 ニトロから怒気が霧散したのを見てとって、今度は前方にでんぐり返りを繰り返してティディアが戻ってくる。
 ちょっとムカついたが、ニトロはそのまま彼女を待った。
「何が納得いかないんだよ」
 戻ってきたところに即問われてティディアは、不満一杯に頬を膨らせた。
「ヴィタにも妹にも見破られなかったのに……」
 そして尖らせた唇の先から不満をため息と吐き出して、落胆混じりにぼやく。
「なーんでこんなに早くばれちゃったのかしら。もっと追い詰めて心神喪失のニトロに婚姻届に血判押させる予定が台無しだわ」
「ティディア、お前余計な一言わざと言っているだろ」
「いやぁん、またばれちゃった」
 ニトロが手を振り上げる。
 ティディアがどうぞと頭を差し出す。
 スナップ効かせて振り下ろされた掌が、的確な位置にある頭から快音を弾かせる。
 ツボにはまったのか、ぷっと吹き出す音がどこからか聞こえた。ティディアの顔が喜色ばんだ。
(し、しまった――)
 ニトロは自己嫌悪に駆られた。なぜティディアに誘導されていると解りながら、こうしてしまうのか。己の芯に染み付いたこの『癖』を恨めしく思った。
「でも本当になんで解っちゃったのかしら。ニトロ、後学のために教えてくれない?」
 唇を噛み締めたい気分だったが、ティディアのペースはそれを許さない。それになにより、彼女が口にした単語をニトロは無視できなかった。
「……後学?」
 不信と不審に満ちた目に、ティディアはからからと笑った。

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