「いや、まだ決めてないんですよ」
 とりあえず答えると、行員は品の良い笑顔を崩さず、しかし凄まじく顎の付け根を掻きながらまたも言った。
「どちらに行こうと考えているんですか?」
 いよいよおかしい。
 ニトロは疑念と警戒の色を明らかに、すぐにでも立ち上がれるよう腿に力を込めながら行員に訊き返した。
「あの、どうなさったんですか?」
「どちらに行かれるおつもりですか?」
「……いや、えっと……」
 怒るべきか、他の行員にクレームを出すべきか迷ったその時――
「どこに行くつもり?」
「うわ!?」
 突然背後からかけられたに、ニトロは悲鳴を上げた。思わぬことに腿から力が抜け、浮いていた腰が椅子に落ちる。
「ねえ、どこに行くの?」
 肩越しに背後へ振り返ると、そこには、王立銀行の制服を来た女性型のアンドロイドがいた。ATMコーナーで列の整理を行っていたものだった。
「教えてよ」
 それがティディアの声でニトロに迫る。その手を自分の顎にかけて、ばりばりと音を立てて顔面の人工皮膚を剥がしながら、問い続ける。
「え……えええ!?」
「ねえ、どこに行くの?」
 背後から、また声。
 向き直ると受付の女性行員の声が、ティディアのものに変化していた。顎の付け根を激しく掻きむしり、その皮膚がげても掻きむしり。
「ねえ、どこに行くのよ?」
「いぃっ!?」
 ぬっと、ニトロの左肩を越えてアンドロイドが顔を突き出してきた。アンドロイドの顔は、人工皮膚がはがされたその後には、ティディアそのものの顔があった。
「わ! うわ!? うおおおおあ!?」
 ニトロが絶叫する前で、行員はめくり返った皮膚を苛立たしげに掴むと、生皮を力任せに剥がし始めた。アンドロイドと同じように。そのアンドロイドはニトロの肩に顎を乗せて
「ねえ、どこに行くの?」
 壊れたように繰り返す。
「ねえ、どこに行くの?」
 また別のところから、声。
 6番と8番の窓口、両隣とここを分ける仕切りの上に、アンドロイドが一体ずつ立っていた。
 あの門の前にいた守衛の女性型。
 あのゲートで警備していた筋骨隆々の男性型。
 ティディアの声で!
「教えてよ、ニトロ」
 そして鏡に映った姿のように、揃った動きで顔面を剥がしにかかる。
「!? !?」
 ぬっと、また、今度は右肩に別の女性型アンドロイドが顔を突き出してきた。
「教えて」
 そこで、肩の上で、耳の傍で、顔面の皮膚をめくり上げていく。目の端に皮の下から現れたティディアの目尻が見えた。瞳はじっと彼を見つめていた。
「――――〜〜〜〜!!」
 ニトロはもう悲鳴を上げることもできなかった。引きる喉。肺まで痙攣しているのかうまく呼吸ができない。息を吸う度に喉が鳴り、空気を吸いきる前に吐いてしまう。
 悪夢のような光景の中心で、あまりの恐怖に彼の目は限界まで見開かれ、双眸から赤いカラーコンタクトがこぼれた。それはまるで、二滴ふたしずくの血涙だった。
「ニトロ」
 行員は痛みに震えていた。
「ねえ、どこに行くの?」
 生皮の下にはまたもティディアの顔があった。彼女はまばらに赤い皮下組織がこびりついた顔に涙を滲ませ、繰り返す。
「ねえ、どこに行くの?」
 両肩のティディアが頬をより寄せてくる。嫌に生々しい感触。これはアンドロイドのものではない。人間のものだ。紛うことなく、人間の生肌だった。
 人間の。
 アンドロイドではない――
「ねえ」「ねえ」「ねえ、ニトロ」
 ティディアが三人いる!
 左肩に右肩に真正面に!
 ティディアが三人いる!?
 ああ、しかしひたりと見据えてくるあの瞳は、間違いなくティディアの瞳だ!
 二人のティディアの温かな頬に挟まれて、頭を左右に動かすことができない。行員であったティディアの眼差しから逃れたいと辛うじて顔を上向ければ、仕切りの上、アンドロイド二体の顔も――ティディア。
 ティディアが……五人も――
「……あは」
「ねえ、どこに行くの?」
 多重に重なるティディアの声。
 どこを見てもティディア。どこからもティディア。
「教えてよ、ニトロ」
「あははは」
 ティディアが見おろしているティディアが肩で囁いているティディアが見おろしているティディアが肩で囁いているティディアが、見つめてくる。
「あはははは」
 恐怖の頂点、混乱の境地を貫き、腹底から噴き上がってくる、狂乱。
「教えてよ、ニトロ」
「教えてよ、ニトロ」
「教えてよ、ニトロ!」
「あはははははははははははははははははははははははははは!!」
 ニトロの瞳から、光が失われた。
 霞んでいく意識。周縁から中央に向けて収束していく視界。
 脳と網膜が闇の中に落ちていく。快楽にも近いものがニトロの芯に流れ込んだ。正気が脳髄の奥へと吸い込まれていく感覚。心地よく、気持ちよく、全身から力が抜けていく解放の恍惚。
 ニトロはぼんやりと思い出した。
 そういえば、これに似た境地を、以前、体験したことが、あった。
『絞められて気持ち良くなってきたら、それは失神おちる前兆なので気をつけてくださいね』
 護身術の訓練中、気をつけるも何もスリーパーホールドで首を絞められ気持ち良ーくなってきた時に、ハラキリに言われたこと。
失神おちたら色んな意味で、死、ですから』
 その言葉。
(――――……そ…だ)
 死だ。
 きゅっとニトロの体に緊張が戻った。
(――そうだ)
 気絶すれば何をされるか分からない。
 何かされたら致命的な絶対状況に追い込まれる。
 絶対追い込まれる。
 安直な手でくるなら絶対ベッドの上で目覚めることになって、朝の光の中で裸のティディアが頬を赤らめ「子どもの名前を考えましょう」なんて絶対言ってくる。
 待てよ? そうか奴はそれが狙いか? ならこの異常な状況は奴の仕業か? いやいやそんなの考えるまでもなくバカの仕業に決まっているじゃねぇか。だったら何もかにも『異常』などではない。これはありうることだ。惑わされるな、ニトロ・ポルカト!
「モガンパ!!」
 ニトロは絶叫した。
 とにかく意識を引き戻そうと、とにかく全力で叫んだ。
 己の声に耳を打たれ、目を覚ました理性が急速に脳裡に染み渡る。彼は咄嗟にこれから何をすべきか思考し、即座に理解し、全身に生気を漲らせるや瞳をぐるりと回して五人のティディアを確認した。
 そして、窓口カウンターの向こう、受付の行員だったものを睨みつける。
 『彼女』がびっくと震えた。
「ティディア!」
 ニトロの前腕が小さなバンザイをする形に、バネ仕掛けごとく跳ね上がった。
「ぶきゃぁ!」「ぶきゃぁ!」
 その両裏拳が、彼の両肩を押さえつけていたティディア二人の鼻っ面をぶち抜いた。彼女らはその威力に打ち飛ばされ背中から倒れこんだ。
「あ、あれれ?」
 受付ティディアは泡を食った。
 血走るニトロの瞳は尋常ならざる。
 二人の分身を殴り飛ばしたあの拳、分身が倒れる時に見えた顔面の陥没っぷりがその威力を雄弁に物語る。彼女はひとまず逃げるべきだと判断した。だが、その心が、彼女が行動を起こすより速くニトロの研ぎ澄まされた超感覚に伝わった。
「逃がすかこんチクショーーーー!!」
 ニトロは椅子に座った状態から、跳んだ。
「ひぃ!」
 水泳の飛び込みのさまに両手を真っ直ぐ突き出し、椅子を蹴って立ち上がろうとしているティディアへ放たれた槍とばかりに飛翔する。突き出された彼の手が×字を作る。
「ぽぐぇ!!」
 ティディアの喉に、見事なフライングクロスチョップが突き刺さった。

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