マンションを出て、輝くオレンジのヴェールが東の夜から蒼と紫を吸い上げる西空へ向けて自転車を走らせる。穏やかな、しかし暖かい風に肌に汗が滲む。
 ティディアが出ていたファッションショーの会場がある地域は、確か夏になると地形の関係で高温多湿になり、外に立つだけで汗が流れるって聞いたなと、ニトロは漠然と思い出していた。
 逆に冬……今はとても過ごしやすいそうだが、もしあのファッションショーが夏季に行われていたら、会場の気温湿度は凄まじいものとなるだろう。あのティディアでさえ熱にやられてへばるはずだ。その姿はちょっと見てみたいかもしれない。
「どうせ、今ごろ美味いもんでも食ってんだろーけどなぁ」
 ティディア・マニアの獣人ビースターの一件で、手荒な扱いをしてもカゴがたわんだくらいだった頑丈な愛車。ギアは中速に、路地を縫いながらのんびりとペダルを踏み続け、十分もしたところで人の往来も多い大通りに入った。
 それは最寄りの駅、二路線の地下鉄と一路線の地上線が交差する中規模の駅のロータリーから伸びる道で、ポプラ並木を衣装にした両脇には大小さまざまな店舗が軒を連ねていた。
 すぐに来る夜闇を前に煌々と店の灯りは焚かれて、光は夕暮れの薄日に、影は夕暮れの薄闇に溶け込んで、陰陽が交じり合い物陰がぼんやりと滲んで目を戸惑わせる。
 幻惑の時間の大通りには帰宅中か、それとも夕食の準備のためか人も多く、飲食店からはかきいれ時に向けた戦闘準備の匂いがこぼれ出している。
 ニトロは、大通りの中、いかにも威風堂々とした門構えを誇る王立銀行の前でブレーキを握った。
 門の脇を固める女性型の守衛アンドロイドが、ニトロを客だと察して近づいてくる。
 ニトロはアンドロイドが示す位置に自転車を持っていき、言われるまでもなく入口の脇にあるわだちにタイヤをはめた。するとトラバサミのような固定装置が現れて前後輪を挟み、フレームを挟むよう伸び上がってきた二つの支柱が車体をゴムの歯で噛み止める。しっかり固定されたのを確認してニトロがその場から退くと、わだちの下に穴が開き、底へと自転車は吸い込まれていった。
「コチラヲオ持チ下サイ」
 アンドロイドが言うのに合わせて携帯電話を取り出す。
 携帯に赤外線を使って入庫照明が送られてきて、ニトロは画面にデータ受理のアイコンが現れたのを見ながら銀行の中に入った。自動ドアがスライドすると、外気より二・三度低い空気が内から逃げ出して、彼の肌を撫でるようにすり抜けていった。
 危険物探知機と筋骨たくましい男の姿のガードアンドロイドが守るゲートをくぐり、中に入ると二階まで吹き抜けの広間がニトロを迎えた。
 入口の両脇――手前の壁には二十台ほどATMが並んでいて、どの前にも人が立ち、短い行列の最後尾には女性行員姿のアンドロイドが案内として佇んでいる。
 数十人の客がいるにも関わらず広々としたフロアは無駄な声もなく静かで、金融機関独特の緊張感が支配権を得ていた。高級感を与える大理石を模したセラミックの床材が、さらにひんやりとした印象をここに加えている。
 無駄なものは置かれておらず、業務に必要なものだけがここにあり、奥で行員が粛々と仕事をこなしている受付窓口の向こう側も、実に整然としたものだった。
 ニトロは真っ直ぐ正面奥の窓口へ向かった。
 途中で順番待ちの発券機に立ち寄り、と、近くに巡回してきたアンドロイドが声をかけてきた。
「御必要デアレバ、御案内致シマス」
「パスポートなんだけど」
「コチラヲ。5〜8番ノ窓口ニナリマス」
「ありがとう」
 アンドロイドが渡してきた手触りのいいプラスチックのカードを持って、言われた番号の窓口に向かう。
 手中のカードの、トランプのマーク然と隅に記されている王立銀行のエンブレムに触れると、中央に『3』と表示された。
(ちょっと待つ……かな)
 パスポート、その他証明書の発行手続きには時間がかかる。
 ニトロはレザーソファの空いているところに腰を下ろして、一息をついた。
 同じソファの逆端に座っているスーツ姿の若い男性が、腕時計をいじりながら独り言のように言葉を発していた。その耳には無線式のイヤホンがある。それは骨伝導マイクも兼ねた、腕時計型携帯電話に標準的なイヤホンだった。
 男性は電話先の相手と、バカンスの間にどこに行こうかと相談しているようだった。
(……そっか)
 この時間は空いていると思っていたのだが、よく考えてみればもうすぐ教育機関は長期休暇に入り、企業もバカンスを社員に提供する。自分と同じように駆け込みで旅券を取る人が多くいる時期だ。6番の窓口から、仕事帰りらしい母親に連れられた獣人ビースターの少女がまさにパスポートの受け取りを終えて引き上げてきている。
 一瞬少女と目が合い、どこか知人を見るような表情が彼女に浮かんだ。
 まさか『ニトロ・ポルカト』だと気づかれたかと内心焦ったが、結局少女は母親と夕飯に何を食べようかと相談しながら背後へと去っていった。
 安堵の息を胸中にこぼし、カードの待ち人数を見ると『2』と表示された。電話をしていた男性が通話を切り、6番窓口に向かう。それからすぐに、カードの数値が『1』と変わった。
「お」
 意外に早く順番が回ってきそうだと、ニトロは窓口を改めた。
 6番とほぼ同時に8番の人間が入れ替わり、5番は何か話し込んでいるようだ。7番には、どうやら手続きを終える気配がある。
 案の定、7番の窓口の椅子に座っていた中年の男が立ち上がった。ビザを取得したのか、開いたパスポートを眺めながら歩いてくる。ちょうど彼が横を通った時、手の中のカードが細かく震えた。
 さっきまで数字が表示されていた場所に『7番窓口へ』との案内が浮かび上がっている。
 ニトロは窓口にやってくると、促されるまま椅子に座った。両隣の窓口との仕切り板は大きく、声は聞こえても何をしているのかは全く見えない。
「本日はどのような御用件でしょうか」
 窓口には人間の女性行員がいた。アンドロイドを受付に置かない銀行はさほど珍しくはないが、本店のみならず、全支店でもそうしてあるのは王立銀行くらいのものだった。
 受付の行員は赤茶けた髪を肩甲骨の辺りまで流し、髪の色にメイクを合わせた顔に品の良い笑顔を乗せている。
 左胸のネームプレートに書かれている『〜〜・ポルカロ』と、自分の姓がそれとよく間違えられる、アデムメデスではメジャーなファミリーネームが目についた。
 ニトロは行員に笑顔を返した。
「パスポートの申請をお願いします」
「かしこまりました。書類はもうご記入済みですか?」
「はい」
 書類のデータが入ったメモリーカードを取り出し、銀色の受け皿に乗せる。行員はそれを傍らの専用端末のカードリーダーに差し込むと、ニトロからは見えない手元のディスプレイに目を落として、はっとして彼を見直した。
 ディスプレイには氏名と、ニトロの本当の顔写真が表示されているはずだ。彼があのニトロだと知った行員は、しかし即座に品の良い笑顔に戻って手続きに入った。
 よく教育されている。
 色々と世間の注目を集めるようになってから、ニトロはこの銀行を好んで使っていた。
 王立銀行員は――本来の取締役会会長とその補佐は現王と王妃なれども――ティディア姫に雇用されている身であるため、最も信頼できる金融関係者だからだ。
 ティディアが絡んでいる以上不安がないわけではないが、それでも面倒がティディア相手に限定されるからまだいい。自分で対処できない問題の方が今は怖いし、その点この銀行であれば、そのような問題を起こすことは絶対にしないでくれる。
 受付の女性行員は顔色一つ変えず、誰にでもそうするように、てきぱきと作業を進めている。
 顎の付け根辺りを掻きながら、行員が手元に向けていた顔を上げた。
身分証明情報証アイデンティティ・カードをこちらに差し込み、手をパネルの上にお置き下さい」
 窓口のカウンターに置かれた箱型の端末のスロットへ、財布から取り出したカードを送り込み、左手をその上部にある『複合認証』用のパネルに乗せる。
「それではこちらのゴーグルを、あ、メガネはお預かりします」
 行員にメガネを預け、手渡されたゴーグルをつける。
 左手の指紋・掌紋・静脈の情報、虹彩の情報が読み取られる。ゴーグルを外してメガネをかけ直し、ニトロはディスプレイを見つめる行員がオーケーを返してくるのを待った。
 行員が、また顎の付け根を掻いた。虫に刺された痕や炎症の様子はないから癖なのかもしれない。
身分証明情報アイデンティティとの照合完了しました。最後にこちらにサインをお願いします」
 スロットから戻ってきた身分証明情報証アイデンティティ・カードを財布に戻しているニトロの前に、パスポートに使用される専用用紙が差し出された。高級な本物の紙でできていて、添えられた筆も今ではめったに見かけないインクペンだ。
 用紙にサインを書き込み、行員に返す。行員はニトロのサインを待つ間、顎の付け根を掻き続けていた。
「ありがとうございます」
 行員が専用用紙を丁寧にファイルを収め、それを手の開いている行員に渡す。
 後はパスポート取得申請が受理されれば完了だった。しかしパスポートの発行は厳しい管理下で行われるため、申請受理の応答がくるまでやや時間がかかる。
 ふと、待ち時間を持て余す沈黙を破って、行員が話しかけてきた。
「どちらに行かれるんですか?」
 顎の付け根辺りを激しく掻きながら、少し口を急いで言う。
 ニトロは、さすがに彼女の様子が気にかかった。気にかかったが、それ以上にプライベートなことを聞いてくることの方が気になった。
 世間話をしてくるのがいけないとか、そういうわけではない。
 パスポートの申請に際して親しく旅先を訊くのに大きな問題があるというわけでもない。
 ただ凄まじく痒そうに顎の付け根を掻いているのに、それよりも重要だとばかりに、早口で訊ねてくるのはどう考えても違和感がある。
 ニトロは腹の底に危機を感じて腰を浮かした。

→前編-3へ
←前編-1へ

メニューへ