「あのなぁ」
テーブルに突っ伏しそうな体を肘突き支えて、ニトロは嘆息混じりにティディアを軽く睨んだ。
「お前、俺がみんなになんて言われ出してるか知ってるか?」
「『身代わりヤギさん』」
「『クレイジー・プリンセスホールダー』とも」
「他にも色々あったわね。お祖母さん、データ出してくれる?」
「いや、フィナさん出さなくていいよ」
ニトロは頭を抱えた。
ぎろりと、ティディアに半眼を向けて、叫びつけたい衝動を押し込めて言う。
「知っているなら自重してくれ頼むから。お前の迷惑行為最近俺に一極集中してるじゃねぇか」
「えー? だって、私の愛はニトロだけに注ぎたいもの」
「ええい、お前の愛は迷惑そのものかっ」
「遠慮なく迷惑かけられるのが家族じゃない?」
「その家族観をとやかく言うつもりはないが、俺はお前の家族じゃないってことはここに声を大にして言っておきたい」
「じゃあニトロは『クレイジー・プリンセスの所業』が他人に向けばいいって言うのね?」
「……ん?」
ティディアのセリフに、ニトロはえもいわれぬ悪寒を感じた。
だが悪寒の正体が何なのかを悟る間もなく、ティディアが畳み掛けてくる。
「じゃあ最近派手なことしてなかったし、ニトロのためにしちゃおっかな」
「……え、っと。それ、脅迫?」
「違うわよ。ニトロの頼みを聞こうとしているだけ」
「……お?」
おかしい。何だか妙なレトリックに陥っている。こんなはずではない。翻弄されるのは自分ではなかったはずだ。
「いや違う。俺は頼んでない」
「知っているなら自重してくれ頼むから。お前の迷惑行為最近俺に一極集中してるじゃねぇか。
私、記憶力いいわよー」
「おお?」
「まぁ、『最近クレイジー・プリンセスが丸くなった』って失望の声もあるしね。もしかしたらそろそろ頃合かもしれないわね」
「しかしそれでは、ティディア姫がニトロ・ポルカト以外に構わなくなってからというもの、奇行が他に及ぶ心配がなくなったと上昇傾向にあった支持率が元に戻る可能性があります」
「あら、意外に国の大事なのかしら」
「影響はあります。とてもあります」
「ああ、でもねお祖母さん、大丈夫。きっとすぐに誰かさんが止めに入るわ。ええ止めてくれるわよ」
「そうですね。誰か様は自分の代わりに誰かが人身御供になるのを黙ってみていられる性分ではないでしょうから」
「おおお?」
ヴィタまで加わって、芝居がかった台詞回しで退路を綺麗に潰してくる。
ニトロの心は、もはや寒風吹きすさぶ荒野の中にあった。行くも地獄、帰るも地獄。そんな状況がいつの間にか敷設されている。
呆然と
「で?」
そして二人同時に振り返り、同時にニトロに問いかける。
「おおおお?」
ニトロの顔面は絶望的なまでに引きつっていた。
絶対的に有利な状況で必勝の先手を打ったはずなのに。何故か今、絶対的に不利な状況で重大な選択を強いられている。
誰かアドバイザーがいれば、その言い分をまともに受けたら相手の思うつぼだとニトロを諭していたかもしれないが、あいにく孤軍のニトロはまともに考え、考えあぐねて脂汗が額に浮かんだ。
と、突然、ティディアとヴィタがくすくすと笑い出した。
「ニトロのそんなところが大好き」
おかしそうにティディアが言う。
「ごめんね。ちょっと調子に乗っちゃった」
「いや……でも、えーと?」
「ああ、もう気にしないでいいわよ。ニトロのためにやるわけないじゃない? 私の趣味なんだから」
「――あ」
そういやそうだ。そもそも自分のためにバカなことをするというのなら、これまでにクレイジー・プリンセスの被害がありうるはずもない。あれは確実にティディアの彼女自身のための道楽だ。
(てんで掌の上かぁ……)
はたと平静を取り戻させられて、ニトロは天井を仰いでため息をついた。
まだティディアに口で勝つのは難しいようだ。それを、芍薬の勝ちで固められた場で再確認できただけでもよしとしよう。別の時では洒落にならなかったかもしれないのだから。
「あのぉ……」
ふいに横手から声をかけられて、ニトロが何の用だろうとそちらに振り向くと、おずおずとウェイトレスが近寄ってきていた。
(……?)
おずおずと?
ウェイトレスの雰囲気も先ほどまでとはまるで違っていた。常連に対する親しみが消え、何かご機嫌伺いをするような、よそよそしさと遠慮なさが同居しているような、最近になって良く見るようになったものがそこにあった。
(あー、しまった)
ここに至って、大声で身分を表す会話をしてしまっていたことに気がつく。
ぼんやりティディア姫に似ている女と、かなりニトロ・ポルカトだろって少年が揃ってあれだけ核心そのものをぎゃあぎゃあわめいていれば、変装も偽名もへったくれもない。
ウェイトレスの手にはカード型のカメラが握られていた。
ティディアが詫びを入れるような眼を向けてくる。彼女がこれから不機嫌さをウェイトレスにぶつけようとする気配が感じられた。ヴィタが腰を浮かしているのを見れば、それが間違いないと確信できる。
(……う〜ん)
ニトロは、ちょっと困った。
『お忍びティディアは安全』という言葉がある。クレイジー・プリンセスと恐れられる彼女の一面が、これまで『お忍び』の最中に出たことは一度たりとてないのだ。
もともとサービス精神が旺盛なのか好感度のためなのかは知らないが、そういう時は、ただ親しみある王女様であるばかり。
変装がばれて群がってきたファンらを邪険にすることはなく、逸話の中には同じレストランに居合わせた皆に奢って即興パーティーを開いたというものもある。
そんな彼女がウェイトレスをあしらおうとしているのは、自分を悪役にしてとりあえずこの場の収束を得るつもりなのだろう。
無用の混乱を避ける。
芍薬への筋を通すにはそれしかないはずだから。
(借りを作るのは
今回は自分にもミスがある。
ニトロは彼女が行動を起こすのに先んじて、受け入れることで彼女を制することにした。
「どっちと写りたいの?」
ウェイトレスの顔が輝いた。
ティディアは、驚いているようだった。
「できれば、どちらとも」
「ティディア、いい?」
「ん、いいわよ」
ティディアはどこか愉快気にニトロを見つめていた。ニトロはなんだよと言いたげに眉を動かして、それからウェイトレスに聞いた。
「えーっと? どうしようか。順番に撮る? それとも何か台でもあれば……」
「
ティディアの目配せに応じて、ヴィタが立ち上がる。ウェイトレスは喜びの顔で彼女にカメラを手渡すと、ティディアには近づきがたいのか、ニトロ寄りに立った。
「やっぱり、ニトロ君だったんだ」
ヴィタがカメラの構造を確認している間に、ウェイトレスがそっとニトロに言う。
「嘘ついててごめんね」
ウェイトレスは軽く首を振った。
「分かってる。大変なんでしょ?」
ニトロは他の客や、どこから現れたのかも分からない人々が行列を作り始めているのに目をやって苦笑した。
見れば行列の傍らで、いつもは厨房に引っ込んでいる店主が『ニトロ・ポルカト推薦のスコーン!』などと置き看板の
「うん、結構大変かな」
気を抜けば崩れ出しそうな顔に笑みを乗せ、カメラを構えたヴィタに向き直る。
あまり気乗りはしていないようではありながら、見事な笑顔を生み出すティディアが、ニトロの視界の隅に映った。
「では皆様参ります。1+1は?」