ニトロは自ら脳裡に巡らせていた話題から逃れようと、ぎこちなく口を動かした。
「ここのスコーン、美味しい……」
歯切れ悪いニトロの言葉に、ティディアとヴィタ、それにウェイトレスまで不思議そうな顔をする。
ニトロは居心地悪さになんとなく身を引いたが、次を紡いだ。
「食べてみたら? 紅茶に合うよ」
「じゃ、それを。二人分」
ティディアが即座に注文し、ウェイトレスも即座にオーダーを入力端末に打ち込んだ。
「……ニトロが勧めてくれるなんて、珍しいわね」
ウェイトレスの背中をぼんやり見ながら、ティディアが言った。
ニトロは
「別に、気まぐれだよ」
「ふぅん」
ティディアはそれ以上の詮索をしてこなかった。
少し意外に感じてニトロが目を向けると、ティディアは興味をくすぐられている眼を返してきた。
「ね、何を読んでるの?」
「えっと、『その丘で月を見ていた』。セスォリ・フェジヌの」
「……ふぅん」
ティディアがなにやら面白そうに目尻をそばめる。少し、驚いているようでもあった。
「『ル・ヴィタ』ね。読み終えたら感想言い合わない?」
「『ル・ヴィタ』?」
「原題よ」
彼女は悪戯っぽい顔をして、瞳で隣を指し示した。
「それ、曾お祖父さんの故郷の本」
「あ、そうなんだ」
作者の項を開くとデータバンクから最新の情報が流れてきた。その中に、確かに聞いたことのある星名があった。
「じゃあ『ヴィタ』って、ここから? どういう意味?」
「数字の2、月、複合、など複数の意味があります。冠詞によって変わるのですが……」
答えたのはヴィタだった。
「『ル・ヴィタ』は『満月』です。父の星の月はマリンブルーでしたので、
「へえ」
ヴィタの双眸の中で、二つのル・ヴィタが輝いている。
「綺麗な名前だね」
ニトロの素直な感想に、ヴィタは嬉しそうだった。
その横では二つの黒水晶が物欲しそうにニトロを見つめている。
「……なんだよ」
「私は?」
「適当だろ?」
「あら、つれない」
「本当のことじゃないか」
「全国のティナさんが怒るわよ。そんなこと言っちゃ」
「ティナが適当なんじゃない、お前の付けかた……」
と、ウェイトレスがスコーンを運んできた。
ニトロは危うく偽名だということを喋りそうになっていたのを止めて、ウェイトレスが二つのスコーンが乗った皿をティディアとヴィタの前に置き、ジャムの小皿と蜂蜜が入った小さなポットを添えた。
ウェイトレスが会釈して、別の客に呼ばれて去るに合わせて、ニトロは言葉を動かした。
「お前の場合、届け出の綴りを間違えられたからだろ」
実際は『ティ』から始まって『ア』で終われば咄嗟にも言いやすいだろうと、『ティア』とティディアが言ったのを『ティナ』とニトロが聞き違えたからだ。
「あ、このスコーン本当に美味しい」
「うっわ、聞いてねぇ」
ティディアとヴィタは早速スコーンに舌鼓を打ち、紅茶を飲みながら雑談を始めている。
見事なまでのすかし方にちょっと文句でも言いたかったが、まあいいとニトロは小説を読み始めた。
そういえばと思い出し、ようやくカプチーノを口に運ぶ。泡の上に描かれた三日月と猫のイラストが崩れた。
「あ」
ニトロが置いたカップを見て、なぜかティディアが嘆きを漏らした。
何かと思えば、その目の先には崩れたカプチーノのイラストがあった。気に入っていたらしい。彼女は次に頼もうと決心したような様子で、店のメニューに目を通していた。
小説を20ページほど読み進めたところで、ニトロは違和感に耐え切れなくなって顔を上げた。
テーブルの向こうでは、ヴィタが何品目かのケーキを黙々と食べている。どうやらメニューにあるケーキ類を全品制覇する
ティディアはカプチーノのイラストを携帯のカメラで撮ってからというもの、なにやらしきりに操作を繰り返している。写真を確認しているわけではないらしい。テーブルのモニターを使わないということは、おおっぴらにすることではないのだろう。しかし、何をしているのかその表情からは読み取れない。
「ん?」
ふいに、視線を感じ取ったかティディアが顔を上げた。
そしてニトロが自分を見ていることを知り、頬を緩ませる。
「何?」
「いや……なんか、大人しいなと思って」
ニトロは答えをはぐらかそうかと思ったが、声をこもらせながらも、なんとなく素直に言った。
「いつもなら、こう……」
「あ、構ってほしいの?」
「違う」
そこはきちんと否定して、彼は手持ち無沙汰な手を組んだ。
「いつもなら、色々アピールしてくるじゃないか」
普通に考えれば、ティディアは魅力的な女だと思う。彼女は何げない仕草にも色気を忍ばせられるから、デートやら何やらを繰り返していれば落ちない男はいないとも思う。それは客観的に、そう思う。
「そうかな」
「そうだ」
だから、ティディアの魅力は全てが罠だ。あらゆる動作あらゆる言葉にトラバサミが仕掛けられている。それは主観的に、そう確信している。
「それなのに、今日は……何も仕掛けてこないし、やけに大人しいなって」
「芍薬ちゃんに完敗しちゃったからね」
ティディアはカップの底の冷めたカプチーノを見て、また同じものを注文した。ついでにヴィタもケーキを二つ追加する。持ち場に戻るウェイトレスに、ティディアは「絵は変えてね」と、言い置いた。
「……だから、大人しいって? 負けたくらいでへこむティ ナじゃないだろ」
「ニトロに会ったのは偶然。本当なら暇潰しで終わる一日だったからね、ラッキーだったけど……でもここでニトロに何かしたら芍薬ちゃんに筋が通らないじゃない?」
「だったら……俺を見つけてもスルーしても良かったんじゃないのか? いや、むしろしてくれ」
「やー、幸運の分はしっかり満喫させてもらうわよぉ。
だけど、正々堂々負けたからには今日一日は芍薬ちゃんのご主人様をいじったりしないのよ」
「いじったりって、お前ねぇ」
ニトロは苦笑した。
ティディアの物言いにもだが、律儀に芍薬に筋を立てようとする態度にも。傍若無人な振る舞いも
「それに暇潰しって、『仕事』がたっぷり残ってるんじゃないのか?」
「最近、ようやく人材が揃ってきてねー。楽ちんになってきてお姉さん嬉しい」
「楽ちんて。お姉さんて」
「だからニトロに割ける時間も増えてきてるの。お姉さん幸せ絶頂に向かってまっしぐらよ」
「おぅ、それは不吉なことだ」
苦虫を噛み潰すニトロの顔に、ティディアは笑顔を崩さない。
新しいカプチーノとケーキがやってきて、注文主の前にそっと置かれた。ティディアはカプチーノの泡に描かれている、幸せな寝顔の少女のイラストを写真に収めた。そしてヴィタのミルフィーユの味を聞き、少し分けてもらって食べては頬を緩ませる。
「…………」
ニトロは機嫌良く『幸運』を満喫し続けるティディアをしばし眺め、やおらため息をついた。
「まあ、いいけどさ。いつもこんな感じだったら……」
そこで口をつぐんで、ニトロは思案した。
次のセリフを口にすることが益となるか害となるか。
「……だったら?」
ティディアが促してくる。ヴィタの目が好奇心でいっそう輝いている。
ニトロは、選んだ。
「別に、嫌がらないのに」
そう言って、ニトロは、我ながら会心の一言だと思った。
嫌がらない――そこに込めた色々な意味、そして様々なことを想像させる余白の広さ。相手の期待を誘うには十分な一言。しかし何をと明確にしてないから、例えどう取られても煙に巻くことができる。かといって嘘ではない以上、思わせぶりに相手を翻弄することもできる。
ティディアとの付き合いで学んだこと、その一端を逆に放てたことに、ニトロは色めきたった。
さあ、どう返してくる? ティディア。お前はお前が教えた話術に踊らされるのだ。
「嫌よ」
「あれ?」
しかし、ティディアはさらりとかわしてきた。
「え? 何が嫌なの?」
ティディアがこちらの誘いに食いついてこないなど、全く考えていなかった。
愕然と聞き返したニトロに、ティディアは唇を尖らせて言う。
「そんなの、ちっとも面白おかしくないじゃない。私、ニトロとの愛は面白おかしく育みたいの」
「いや待て何だその恋愛観」
痛烈なティディアの主張に軽い頭痛を覚えて、ニトロは眉間に浮かんだ皺を指で叩いた。
「オモシロオカシクって、そうでなきゃいけない理由はあるのか?」
「だから、ニトロとの愛は、面白おかしく育みたいの」
「……ただの願望?」
「いいえ、決定」
強烈なティディアの主張に重い頭痛を覚えて、ニトロは眉間に浮かんだ皺を拳骨で叩いた。