振り返ると、仕切りの柵の向こうでとってもいい笑顔を向けている女性がいた。傍には輝くマリンブルーの瞳を、淡い色の入ったメガネで薄めた女が何げなく佇んでいる。カジュアルな服装で、ちょっとウィンドウショッピングでもしてきましたといった風情で――
「ティ……」
 『ティディア』
 そう口にしそうだった唇を必死に歪めて、ニトロはうなった。
ティナ
 決まり通りの偽名で呼ばれ、ティディアは良くできましたと言いたげにうなずいた。
 そしてヴィタを引きつれ、店内に入ってくる。
 案内しようとしたウェイトレスにニトロの知り合いと示して、こちらに向かってくる。
 ニトロは固まる全身から力を抜こうともせず、いつでも逃げ出せるように腰を浮かせていた。手は携帯電話に、指を芍薬にアクセスするためのショートカットにかけて。
 ティディア達はニトロの向かいに座ると、やってきたウェイトレスに紅茶を頼んだ。
「綺麗な人ね。もしかして彼女?」
 ウェイトレスがニトロに囁く。
 ニトロはなんとか誤魔化そうとしたが、うまく声が出ない。もどかしく、緊張で強張る手がぴくりと震えた。
「そう思う?」
 そこにティディアが助け舟を出した。肯定とも否定ともつかない言葉で、しかし嬉しそうに微笑んでいる。ウェイトレスは自分なりに良いように解釈したようだった。
 そして彼女が、ではもう一人は友達だろうと察する様子を見せた時、ヴィタがメガネを外してケースにしまいながら、ぼそりと言った。
「その祖母です」
「そ――!?」
 ウェイトレスは驚きの声を上げた。
 それもそうだ。どう見ても女性は20代前半にしか見えない。顔だけならまだしも、全身も、動作も若々し過ぎる。てか孫と比べて遜色ない若さって、一体どれだけ若化療術リプロに金かけたんだ。
 驚いたのは、ウェイトレスだけではなかった。
「ゲバボ! ケホッ!」
 ニトロは咳き込んでいた。祖母といわれた時、思わずツッコミそうになっていた。
 せめて叔母! と叫びたかった喉を無理に止めたものだから、肺に息がえらい勢いで逆流しちゃってやばいくらいに胸が痛い。
 ティディアすら想定外の眼でヴィタを見つめている。しかしさすがに彼女の対応は素早く、眼差しを愉快気に変えたかと思うと、
「お祖母さん、尖耳人エルフカインドとの混血ミックスだから」
 さも、この状況がいつものことでそれを楽しんでいますという様子で、ウェイトレスに微笑みかけた。
 ヒト型の中で最も長寿と知られる尖耳人エルフカインド。それとの混血ならばこの容姿でも不思議はない。
 ヴィタが首を傾げると、チャコールグレイに変えられたロングヘアの中から、尖った耳先がのぞいて見えた。ニトロはそれが『変身能力』を用いて作った擬耳だと知っていたが、知らぬ者が見ればそれは疑いもなく尖耳人エルフカインドの耳だった。
 ウェイトレスは納得すると同時に、ばつが悪そうに誤魔化し笑いを浮かべて持ち場に戻っていった。
「……あのねぇ」
 ニトロは、半眼をヴィタに向けた。
 だがヴィタは涼しい顔に微笑みを乗せている。満足そうに、今もニトロが次にどんな反応を見せるのか期待しているように。
 隣にも鎮座する同じ笑顔を見ると、本当にこの二人には血の繋がりがあるんじゃないかと思えてならない。いや、少なくとも、魂的には絶対家族だ。
「ああ、もういいや」
 ニトロはため息をついて、改めて向かいに座るティディアを見た。
 彼女は地の黒紫色の髪を明るい茶に染め、同色と金色の二種のエクステをつけている。普段セミロングの髪は完全になりを潜め、ロングヘアに化けた頭部は毎日メディアに登場する王女の面影もない。
「大体、なんでここにいるんだよ。まさか尾行してたのか?」
「あら心外。本当に偶然よぉ。
 前にニトロがここが好きだって聞いてたから『お忍び』あそびにきたの。そしたらニトロがいるじゃない。ビックリしちゃった」
 顔も、微妙に違う。基本は押さえているものの、ポイントポイントを絶妙に悪い方向にずらしたメイクが、見事にティディア姫の雰囲気を砕いている。いつもなら高貴だとかデモニックだとかと形容されるものが、今はきっと素朴だとか普通に綺麗だとか、評価辛けりゃ化粧が下手とはっきり言われるだろう。
 実際、顔はティディアのままだ。だが『ぼんやりと似ている』風になっているから、だからこそ逆に『あのティディア姫』だと確かめづらい。まさに化粧の妙技だった。
フィナさん、本当に?」
「はい」
「……本当に?」
「でなければ、姿の前にプランに力を入れているでしょう」
「あー、そう言われるとなあ」
 確かにティディアの変装への力の入れ様は、計画プラン立てて迫ってくる時にはないものだ。
 顔と髪だけでなく、プロポーションまで胸を小さくすることで変えている。布で締め付けているそうなのだが、わりと苦しいと言っていたし事実苦しいはずなのに、それをおくびにも出さない。彼女は根性の使いどころをきっと間違っている。
 そして何よりも凄まじいのは、その『ティディア姫のオーラ』の消しっぷりだ。
 あらゆる方向あらゆる時空に放っているかのようなティディアの自信。
 王族という貴石まで着飾るカリスマ。
 敵のみならず、味方にすら目を素通りさせることは許さないと強迫するクレイジー・プリンセスのエネルギー。
 黙っていても滲み出て、モニター越しにさえ触れてきそうな王女のオーラが、テーブル越しの向こうには見る影もない。
 ティディアが演技上手だとは身に染みているものの、この芸当はいつ見ても……正直、本当に素晴らしい。
 メガネを外し美しい瞳を解放したヴィタの魅力にしっかり呑まれているから、彼女があの王女だとは誰も疑いすらしないだろう。
 考えてみれば、ティディアがここまで『ティディア姫』を消して現れる時は、まともにデートしようと誘う時くらいのもの。
 そういう時はお目付け役にハラキリを巻き込むことはあっても、自分の部下を連れてくることは決してないことだった。
 その点に関してはハラキリも認めていて、「彼女なりのルールでしょう」と、安心していいと言っていた。
(……こりゃ本当に偶然かな)
 ティディアの強運には舌を巻くしかない。
 ちらりと彼女を見れば、どうやらこちらが納得してしまったのを気取けどったらしく、ニヤニヤと笑いかけてきた。
 自分の悪運には、涙を流すばかりだ。
「相変わらず見事な化けっぷりだな」
 ニトロはせめてと皮肉をぶつけたつもりだったが、ティディアには誉め言葉と聞こえたようだ。嬉しそうに顔を輝かせるのが、外からは恋人に誉められた女性と取られそうで恐ろしい。
(それにしても――)
 ティディアの変装は以前に増して磨きがかかったものだ。
 昔は、数週に一回はお忍びがばれて大騒動を起こすお姫様のニュースが流れたものだが、ヴィタが仕えてからは全くその気配もない。
 さすがは『変身』の名人だと、ニトロは、マリンブルーの瞳で主人とこちらをじっと傍観している執事を見た。
 彼女の顔もいつもと違う。鼻筋や眉のラインは全く別人だし、目も平常より切れ長になっている。
 『変身能力』をアナログに扱える彼女ならではの変装だった。変身能力者メタモリアの中でもここまで器用な者はそういまい。多様混血ヴァリアスという環境が、彼女にこの能力を与えたのかもしれない。
(ほんと、便利な人だ)
 ティディアが新しい執事をメディアで紹介した時、そう言っていたのを思い出す。
 ヴィタは付き人としても、付き人のためのコンシェルジュとしてもプロフェッショナルだ。今日のティディアのメイクは彼女の手によるものだろうし、ファッションにもアドバイスをしているだろう。
 顔を変えられるため、ヴィタが傍にいることからティディアの存在が周知されることはない。頼れるボディーガードにも使いぱしりにもなれる。執事としての仕事振りも有能だ。
 もし、唯一ティディアが不満を持つとすれば、ヴィタがあくまで従者の立場を崩さないことかもしれないと、ニトロは思う。
 こちらのことをいじって楽しむことに関しては同志でも、それ以外には主従の関係がある。ヴィタがその点に絶対的な境界を敷いているのは、自分にも解る。
 もちろんそれは当然のことだろうし、ヴィタのプロとしての心構えもあろう。
 だが、ハラキリと馬鹿話をしている時のティディアの顔と比べると、幾分か、ほんのわずかだが、ヴィタに対する翳りを見てしまう。
 それが一体どんな心情のためなのかまでは解らないが――
(……って、俺は何を考えてるんだ)
 何だかティディアを理解し始めているような思考を、慌ててシャットダウンする。
 ちょうどウェイトレスが二人の紅茶を運んできていた。

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