「学校かぁ。行っても面倒なだけだしなぁ」
「今ヤ映画スターダモンネ」
 ニトロは再びため息をついた。
「ハラキリはまだだったよね」
「御意。マダ『プロモーション』ニ同行中。帰星予定ハチョウド二週間後」
「ずるいよなー」
 ハラキリは映画公開後の学校での混乱を見越して他星たこくへの映画のプロモーションに行ってしまった。それも出演者としてではなく、監督のマネージャー兼ボディーガードとして。実際には旅行を楽しんでいることだろう。
 もう少しすれば四十五日間の前期長期休暇に入ることがニトロの救いだが、一番大変な時期を回避し、さらにプロモーションへの同行を『王女の命令』として公認欠席にした上で、長期休暇に入ってから帰ってくるよう仕組んだクラスメートのしたたかさを思うと悔しくもある。
 それも一度彼は誘ってくれていたのに、深く考えもせず無下むげに断ってしまった自分の愚かさを思えば、なおさらに。
「今日はもう、このままサボるよ」
「御意」
 芍薬が手元に電話を現し、通話を始めた。受話器からはフキダシが現れて、そこにはホーム保守に必要なだけ残してきた芍薬が話し相手として描き出されている。
 何をしているのかが分かりやすいアクション。自宅から学校へ通知するように手配しているのだ。
 メルトンを育てている時は必要と思っていなかったが、芍薬が来てからは面白いと思うようになった。愛嬌があるし、それに見ていて飽きない。今度家に帰ったら、メルトンにも覚えさせようか。両親も気に入るだろう。
 ふいに、電話をかけている芍薬の顔の横に『気づきの符号』が表れた。
 車が減速を始める。見ると、猫の親子連れが勇敢にも悠々と道路を横切っていた。それがこちらの存在に気づき、慌てて走り出す。
 猫らが道路を渡りきったところで加速が始まり、そこで芍薬は電話を消した。
「イツモ通リ、学校ニハ神経性胃炎デ連絡シタヨ」
「……うん、ありがとう」
 なんとなく、ニトロは胃の辺りをさすった。
 主人の顔が浮かないのを見て、芍薬が明るい声で提案してくる。
「ドライブデモシヨウカ、主様。コノママ海岸高速コバルトラインニデモ出テサ。キット気持チイイヨ」
「いいね、それ。そうしよう。その後は……ルローシャットカフェにでも行こうかな」
「承諾」
 ウィンカーが点き、進路が変わる。車の鼻がちょうど東へ向いて、昇りかけの太陽が正面に来て鋭く目を刺してくる。
 直射光を和らげるために、何を言わずとも芍薬が窓に偏光機能をかけてくれる。
 スピーカーからはニトロ選曲のミュージックボックスが流れ出した。
 快適な光とリズムに身を抱かれて、ニトロはまどろむように瞼を落とした。

 晴れ渡った空の下、コバルトに輝く王座洋スロウンを片手にドライブを楽しんだニトロは、正午も幾ばくか過ぎた頃に目的のカフェがある場所にやってきた。
 ケルゲ公園の程近くをかすめ、シェルリントン・タワーのある王都ジスカルラ一の摩天楼に向けて延びる国道沿い、ちょうど繁華の賑わいが増してきた辺りの裏道に、時代が置き忘れた遺物のように重い腰を据えている小さなビル。
 黒いレンガに外壁を固め、這い登るツタをそのまま身に纏った、いかにも古めかしいビル。
 レンガはひび割れ一見数百年前に建造されたものに見えるが、実際は数年前に建てられた、当時は物珍しいその『演出』に一躍有名なスポットとなったビルだった。
 とはいえビジネスの新旧勝敗立ち代り、栄枯盛衰激しいこの王都で見た目だけで生き残れる寿命などたかが知れたもので、一年もせぬうちにこのビルは外見に相応しく『過去のもの』となった。
 一時期はテナントの7割も消え廃ビルとなりかかったこともあったが、『隠れ家的な』というテーマを再発見してからは存在感を取り戻し、今は小ぢんまりとした飲食店を中心に、人目を気にせず穏やかな時間を過ごせる空間をビル全体で演出している。
 ニトロがここにあるルローシャットカフェを気に入ったのも、そんな『人目を気にせず』という空間演出が第一の理由にあった。
「それじゃ、芍薬も自由にしていて。何かあったら連絡するから」
「承諾。主様、ゴユックリ」
 地下駐車場で車を降りたニトロは、まっすぐ非常階段に向かった。エレベーターは逃げ場がない。それは有名になってすぐ身に染みたことだった。
 ルローシャットカフェは最上階にあった。薄暗い照明と非常灯に浮かぶ陰気臭い非常階段を昇り、ニトロは途中書店のある階に立ち寄った。書店に置かれている見本誌閲覧専用端末を覗き、適当に雑誌と小説を一冊ずつ選んで、そのデータを携帯電話のメモリーに購入ダウンロードする。
 そしてまた非常階段を昇り、最上階に出て、出たすぐ脇にオープンカフェ風の店を開いているルローシャットカフェに入った。フロアは全体が間接照明で薄暗く照らされているから、カフェはさながら黄昏の街角にある風だ。入口脇の置き看板の板晶画面ボードスクリーンが白く浮き出す文字は、今日のお薦めはシフォンケーキだと知らせていた。
「いらっしゃいませ」
 よく見るアルバイトのウェイトレスが、ニトロに気づいて赤のグラデーションに染めた頭を下げた。
「お好きな席へどうぞ」
 場の空気をかき混ぜないよう押さえられた声で店内を示す。店内は十数個の丸いテーブルが並び、その数個にバランスよくばらけて客が座っている。互いに干渉しあわないという宣言をしているようだった。
 ニトロはウェイトレスに軽く会釈して、店内の最外、非常階段口に最も近く、店と外を仕切る小さな柵を背にする席に向かった。
 ウェイトレスはニトロがその付近にいつも座ることを知っていたから、そこへ冷たい水の入ったグラスをすぐに持ってきてくれた。
 彼女には、以前『あのニトロ』かと問われたことがあった。
 だが『あのニトロ』はメディアの中で何割か増しに格好良く撮られているし、友人に『天職は探偵かエキストラ』だと言われたほど目立たぬ風体をしているから、一度否定すると意外にすんなり受け入れてくれた。
「カプチーノと、シフォンケーキ」
 ウェイトレスにメニューを見ることもなく注文して、ニトロはテーブルの脇からケーブルを引き出し、それを携帯電話に接続した。
 テーブルの上に宙映画面エア・モニターが現れ、複数のアイコンが現れる。
 その中から先ほど購入した雑誌を選んで画面に出した。宙映画面エア・モニター質感が変わり、まるで本物の紙のようになる。
「お待たせいたしました」
 『映画』の監督の他星でのインタビュー風景を伝える記事を読んでいる時、ウェイトレスがカプチーノとケーキを持ってきた。できる限り音を立てないようにテーブルに置かれる。カプチーノの泡には三日月に猫が座っているイラストが描かれ、シフォンケーキにはなめらかな生クリームがかかっていた。
「その映画、面白いよね」
 と、ウェイトレスが開かれているページを見て、馴染みの客に気軽な言葉で話しかけた。
 ニトロは条件反射で引きつりそうになる頬をかろうじて抑え、愛想笑いを浮かべた。
「ええ。俺はこの役者が気に入っちゃって」
 映画のワンシーンを切り出した写真の中のハラキリを指差すと、ウェイトレスはその隣に目線をやった。
「わたしはやっぱり主役のニトロ・ポルカトかな」
「あ、ああ、そうですか?」
「最後のアクション、スタントを使わなかったって。凄いよね、あんなに迫力ある戦い。あれを観たらCGは物足りなくなっちゃった」
「俺の友達もそう言ってました。よくやったもんだって」
 いい加減、愛想笑いが決壊しそうだった。これ以上何か誉められたら、本格的にまずい。ただでさえ一度本人かと疑われているのに、ここで照れれば致命的だ。
「それじゃ、ゆっくりしていってね」
 だが幸いにも、ウェイトレスはきりの良いところで会話を終えてくれた。営業用ではない親しみが込められた微笑みを残し、仕事に戻っていく。
「…………」
 ニトロは安堵の吐息を懐に吐き出した。
 手に汗握った。知らずに背筋を強張らせていた力を抜く。
「あらぁ、モテモテじゃーん」
 その時、背後からかけられたその声に、ニトロの背筋は筋繊維をブッ千切らんばかりに硬直した。

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