ニトロはヴィタの言葉を良く噛み砕いて、心に湧いた疑問を口にした。
「てことは、ヴィタさんが先にここに着いたってこと?」
「いえ、最初からここにいたということです」
「最初?」
「メルトン様の逆襲が始まった、その最初」
「ほう」
 ニトロは腕を組んだ。
「じゃ、見てたんだ」
「見ていました。ニトロ様、楽しかった」
「そりゃどうも」
 笑顔を浮かべて見せるが、どうしてもひきつるのは避けられなかった。
「で? なんですぐに助けてくれなかったのかな」
「黙秘権を行使致します」
「先代のそういうところまで引き継がなくてもいいと思うんだ。ヴィタさん」
 ニトロはため息をついた。とりあえず無用の緊張を強いられたことに関して抗議しておきたいところだったが、それは彼女の主人にするべきだろうと空を見上げる。
 鼓膜を微かに振るわせる高出力エンジンの振動音。
 星もまばらな夜空の中に、黒塗りの高級飛行車スカイカーがこちらに向かってきていた。
「ちょうどのタイミングだ」
 リムジン型の飛行車スカイカーは急速に高度を落とすと、ニトロ達の数m上空で停車した。ホバリングするリムジンのドアが勢いよく開き、その中からスーツ姿の女性が身を乗り出す。
「もうちょっと遊べなかったの?」
 開口一番、彼女の口からこぼれたのは無念だった。恨めしそうにヴィタを見る。
「気絶しないくらいに留めたつもりでしたが、少々計算外のヤワさでした」
 ヴィタが足元の獣人を指差す。ティディアは横たわる大男を不機嫌そうに一瞥して、ため息をついた。
「どうせ獣人のタフさも失うくらい運動不足なんでしょ」
 そして車内に言葉を投げる。運転手かA.I.か、いずれにしろ手の者に通報でもするように命じたのだろう。
 それからもう一度、ぴくりとも動かない獣人を見てティディアは口を尖らせた。
「あ〜あ。せっかくピンチなニトロを助ける女神様になれるところだったのに」
「やっぱりそういうところだったのかい」
 それまで沈黙していたニトロが、突然口を開いた。
 組んでいた腕を解き、宙に停まるリムジンを下げようともしない王女に手招きする。
「その話、膝付き合わせてゆっくり話そうか。ティディアちゃん」
「あ、ちゃん付けなんて嬉しいな」
「聞いていたんだろ? どうせ。早く降りて来い、な?」
 ニトロは満面に笑みを浮かべていた。
 その笑顔は、完璧な笑顔だった。
 一分の隙もなく顔全体で笑顔を作っている。どこにも笑っていない場所などない。表情筋の細胞まで笑っていそうだ。素晴らしい笑顔……あんまり素晴らしすぎて、寒気すら覚える。
 ティディアは、眼下で完璧な笑顔を顔に張り付かせたまま手招きし続けるニトロから目が離せなかった。目を離してはいけないと、何故か思う。無理矢理にでも愛想笑いで応えたかったが、口の端は横に引かれることはあっても上には動かなかった。
(こ、これはまずいことになったわね)
 ニトロの怒りが、洒落にならないレベルに達そうとしている。
 ここは大人しく従っておくべきだろうか。
 しかし、それはリスクが高いことだとティディアはすぐに思い直した。芍薬へのクラッキングが、まだ結末を迎えていない。それいかんによっては本当に最悪の結果を招く。
 ちょっとこれは、割とピンチかもしれなかった。
(逃げるか)
 逃げればニトロの怒りを加速させてしまうだろうが、それより何の手も打たず『最悪の結果』を招いた時のリスクの方が、圧倒的に高い。今なら火に油を注ぐだけで済むかもしれないのに、それをやめて原子炉から冷却材を抜くはめになったらたまらない。
 退いて、体勢を立て直す。
 うまいことクラッキングを終わらせて、芍薬とメルトンの安全を確保しておかねばならない。ニトロのシステムの壊れた箇所を修理するよう手配して、そして全てを元の通りに戻す。
 それからなら、いくらだって怒られよう。万全の態勢で、メルトン引き連れ菓子折り持って、出頭もしよう。
 ティディアは瞳をヴィタに向けた。
 ヴィタの蒼月色に輝く瞳が、数拍の間、消えた。瞼を閉じて『了解』の意志を伝えてきた。
 と、その瞬間だった。
「どこへ行くんだいヴィタさん」
 ニトロの手が、ヴィタの手首を掴んでいた。
 掴まれて初めて、ヴィタは戦慄した。分からなかった。目にも止まらぬ疾さだった。この獣人の血を引く目を持ってしても、動きを捉え切れなかった。
 そして、ニトロの手を振りほどこうと腕を動かした瞬間――
「……痛い」
 ヴィタは、つぶやくように悲鳴を上げた。
 信じられなかった。
 六臂人アスラインの血を引いた怪力が通用しなかった。
 例え獣人化していなくとも大の男を赤子扱いできる力が、完全に凌駕されていた。
 ニトロに掴まれた手首が軋んでいる。これが話に聞く『ニトロの馬鹿力』か。あんまり怒った時にも出現するとは聞いていたが、まさか、これほどとは!
「はーやーくう、降りてきなよティディアちゃーん」
 ヴィタを捕まえたニトロが、もう一方の開いた手で手招きを再開する。ヴィタは逃げられないと悟ったようで、大人しく抵抗する素振りも見せない。
(ここで『見捨てる』――は、悪手ね)
 ティディアは、即座に選択を変えた。
 芍薬がどう出るか、メルトンが大人しく従うか分からないが、早急にクラッキングを終わらせるしかない。それまで、ここで出来る限り時間を稼ぐ。
 ティディアは車内に向けて小声で、しかし通る声で素早く命令を下した。
オング終了。メルトンごねたら実力行使許可。とにかくここに引っ張ってきて」
「拒否」
「あれ?」
 ティディアは目を丸くした。
「え?」
 完全に意表を突かれて、思わず疑念が口をつく。
「なんで?」
「ダカラ拒否ダッテ。ティディアチャン」
 車載スピーカーから流れた、その女性系のA.I.の声に聴き覚えはなかった。
 だが、ティディアは、それが誰のものなのか瞬時に理解していた。
 出しっぱなしにしていた宙映画面エア・モニターを一瞥し、そこに表示されているステータスが、目を離していた一時の間に激変していたことを確認する。
 戦況は一体どう動いたのだろうか。ただ、芍薬が勝った。それだけは確かだった。
「えーっと。
 初めまして、でいいかな? 芍薬ちゃん」
「初メマシテ、バカ姫様。ヨクモヤッテクレタモンダネ」
「ティディア! 早く降りて来い!」
 業を煮やしてニトロが怒鳴った。
 ティディアの頬を冷や汗が伝った。
「主様! 大丈夫カイ!?」
 リムジンから聞こえてきたA.I.の声に、ニトロは驚いた。
「芍薬!?」
「御免ヨ、主様。遅クナッチャッタヨ」
「ああ、無事だったんだ」
 ニトロの笑顔が、ようやく人らしくなった。
 それと同時にヴィタを捕まえている力も驚くほど弱化したが、彼女は逃げるのはよしておこうと思った。下手に動いて癇に障ってしまったらよくない。それは得策ではない。
「いや、いいさ。芍薬、どこもやられてないか?」
「あたしハ平気ダケド、ハードガ幾ツカヤラレタ。
 ソレヨリ、言イツケ破ッテ、メルトンヲ少シバカリ壊シチャッタヨ」
 芍薬がうなだれているのが手に取るように分かる声だった。だが、ニトロはさして気にする風もなく言った。
「少しばかりってことは、修復できるぐらいにしてくれたんだろ?」
「御意」
「ならいいさ」
「本当ニ? 遠慮ナク怒ッテクレテイイヨ、主様」
「それぐらいで済んだなら全く問題ない。どっちも直せばいいんだから。
 とにかくお疲れ様、芍薬。ここまでやられてもメルトンに手加減してくれて、ありがとう」
「ソンナ、勿体ナイ……」
 嬉しそうな、照れくさそうな、芍薬の声。ニトロは笑った。
「それと、金は幾らでもかけられそうだから、修理ついでにシステムを増強しよう。芍薬の好みに合わせるから適当にプランを立てておいてよ」
 その言葉に反応したのはティディアだった。
「あ、それで許してくれる?」
「それじゃ芍薬、降りてきてくれ」
「あれ? ニトロ? 聞いてる?」
「聞いているさー。許すわけないだろー?」
「……また、痛い」
 突然ニトロの握力が悪魔的なものに戻って、ヴィタはつぶやいた。下手に動いていた方がマシだったかもと、ちょっぴり後悔する。
「サテ」
 芍薬がオングストロームを介して支配下に置いた、リムジンの専用A.I.に代わって操縦を行う。
「主様ニタップリ絞ラレテキナ」
「ああ、芍薬ちゃん。そんな殺生な」

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