飛行車スカイカーを宙に浮かべる反重力飛行装置アンチグラヴ・フライヤーが音を立てて静まっていき、それに比例してリムジンの高度も下がっていった。ホバリングしていた位置から、速やかに、ニトロの目前に降りていく。
 ティディアは悪あがきをしなかった――否、できなかった。
 リムジンの高度が下がるにつれて、ニトロの笑顔率も下がっていった。代わりに上昇していく、鬼の形相率。その傍らで、悲哀に満ちたマリンブルーの瞳が助けを求めるようにティディアを見つめていた。
「地獄の底から這い出てきたような顔のニトロも素敵」
 ティディアがなんとか場を和ませようと、歩み寄ってきた最愛の少年にかけた言葉は意味を成さなかった。
 伸ばされたニトロの手が、ティディアの足首を掴んだ。
「い、痛ーーーーーっ!」
 骨を圧砕されそうなあまりの握力に、ティディアは悲鳴を上げた。
「ま、待った! メルトンちゃんに頼まれただけなのよ。芍薬ちゃんに逆襲したいって、そんでニトロのA.I.に戻れるよう協力してくれって!」
「だからって許すわけないだろー」
 にっこり笑って、ニトロはティディアをリムジンから引きずり出した。
「わ!」
 足を掴まれバランスもへったくれもなく引っ張られ、ティディアは派手に尻から落ちた。臀部をアスファルトに叩きつけられた衝撃が尾てい骨を伝い骨盤へ走るが、しかし足首の痛みがその激痛よりも勝って、痛覚が混乱でも起こしているのか訳の分からない痛みに神経を叩かれティディアの顔が奇妙に歪む。
 泣き笑いのような顔で腰を押さえているティディアの横に、ニトロはヴィタを並ばせた。
「ニトロひど……ぃ」
 ティディアはニトロを見上げて、息を飲んだ。怒気に塗り固められたニトロの恐ろしい形相。夜空に浮かぶ細い赤月がちょうどニトロの頭に重なって、弓なりに尖る両端がまるで血にまみれた角に見える。
 鬼だった。彼は鬼になっていた。
 そして鬼が、あらん限りの声を絞って怒号を上げた。
「二人とも、そこに正座ぁ!!!」

 翌日の新聞のトップ記事は、各社共に同じものだった。
 カルカリ川に沿うサイクリングロード。その硬い地面に正座する王女と謎の女性、そして彼女らに憤怒の顔で説教する少年の姿が、鮮明な写真ででかでかと掲載されていた。
「ティディアちゃんが元気ないのは、このせいなのね」
 母がため息混じりに言うのに、ニトロは
(ちゃん付けはやめてほしいなぁ)
 と、心中でため息を返した。
 壁にかけた大きなプラズマテレビに、王城の地下に造られた植物園を紹介するティディアが映っている。生中継のその中で、彼女はいつものようにオーラを放ち、明るく得意の話術も雄弁にカメラを案内している。
 ただ、歩き方だけはいつもと違った。足が痛いらしく、ひょこひょこと歩いている。
「そうかな」
 ニトロはそれを一瞥して、またノートパソコンのモニターに目を戻した。ノートパソコンは、ホームシステムを統括するメインコンピュータと有線ケーブルでつなげてある。
「そうよぉ。お母さん、鋭いんだから」
 母は息子が初収入でプレゼントしてくれたソファに座り、板晶画面ボードスクリーンに出したゴシップ紙とテレビを見比べながら言う。
 そういえば写真の片隅で寝そべる獣人の大男については、どこも誰も追及していない。ティディア直属の兵に連れていかれたから、もしかすると悪ふざけの一員としか思われていないのだろうか。
「絶対、ニトロに怒られたからへこんじゃったのよ」
「はいはい」
 適当に母の言葉を流しながら、ニトロはホームシステムの設定画面でちょこちょこ動いている、デフォルメされた芍薬の肖像シェイプを眺めていた。
「何があったのか知らないけど、優しくしないと駄目よ?」
「分かったって」
 ニトロはため息混じりに応え、またテレビを見た。
 確かにティディアには、歩き方以外の表面上はいつもと変わらないが、どこか違和感がある。
 その違和感は、明らかに姫は元気がない……とまで言うには不十分なものの、今朝大々的に流れた『サイクリングロード二時間正座事件』と併せてみれば、母が言うまでもなく王女がへこんでいると誰もが気づくだろう。
 そしてあのティディアがそうなることなど、極めて珍しい。
「それで……メルトンの具合、どうかな? 原因判った?」
「うん、判ったよ」
 ニトロが実家にやってきたのは、昼過ぎだった。
 朝方に母から電話があり、『メルトンがボケた』と連絡があった。
 根本的なシステム不良は起こしていないものの、動作が緩慢で、時々データベースとの連動が致命的に悪くなるという。ひどい時は、電子マネーを携帯電話に補充しようとした際に銀行口座の暗証番号すら出てこなかったそうだ。
 もちろん、ニトロはその原因を知っていた。芍薬にメルトンをどう壊したのか、それはちゃんと聞いていた。
「プログラムにバグがあった。どうせ、勝手に妙なサイトにでも行って自爆したんじゃないかな」
 モニターにメルトンの抗議のアイコンが現れた。だが声はない。音声はすでに封じてある。
「自己修復が働いているから、しばらくすれば直るよ。汎用A.I.をサポートに置いていくから、それを使って」
「分かったわ。メルトンは大丈夫なのね?」
「大丈夫だって。修復を助けるソフトも入れておいたから」
 本当はまったく違うものをメルトンに贈ったのだが、当然言わないでおく。
「直るまでメルトンの音声は切れるけど、心配しなくていいから。それと」
 と、ニトロはノートパソコンの画面を母の板晶画面ボードスクリーンに転送するよう芍薬に命じた。
「……あら? これは何?」
 ゴシップ記事の上に表れたパソコンのトップ画面に現れた、見覚えのないアイコンを母が指差す。
「修復中の様子を示すメーターだよ」
 アイコンは砂時計の形をしていて、じっと見ていると砂が上から下へとこぼれていることが分かる。
「一応、表示させておくから。だけど、絶対にいじっちゃ駄目だよ」
 ニトロのモニターに、メルトンの悲鳴が表示された。
 そのアイコンは、メルトンに致命的な打撃を与えるプログラムの実行ボタンだった。
 まあ、クリックしても実効命令は芍薬を経由するようにできているから、メルトンが即座にクラッシュされることはない。
 だが、そのことをメルトンは知らない。実行されれば即死とだけ言ってある。その証拠だと、実行されれば即死なもメルトンの部屋スペースの中に置き放しておいた。
 うちの両親に『絶対〜してはいけない』と言えば、どういう結果が高確率で訪れるか。
 それをよぅく知っているメルトンは、これから数日生きた心地がしないだろう。
 モニターには抗議と悲鳴がうるさいくらい表示されている。
「あ、あのお花、綺麗ね」
 テレビを見ると、チャコールグレイの毛並みをした山猫の獣人が、ティディアに代わって植物園の一角を紹介していた。
(山猫の時の色、本当はあれか)
 わざわざあの姿ということは、新しい執事の真のデビューは別の機会に用意しているのか。
 それにしても、あれがゴシップ写真のティディアの横で一緒に正座している謎の女性とは誰も思わないだろう。
「花って……あの赤いの?」
「そう。いいなぁ、欲しいなぁ」
 ニトロは苦笑した。
 獣人の女はとても熱心にその毒性を語っている。母は美しい花を見るばかりで、その説明を聞いていないようだ。
 もしかしたら、あれはヴィタが育てているのかもしれないな……と思いながら、羨望の眼差しを画面に向ける母に言った。
「多分、手に入らないよ。特別なものみたいだから」
「そうでしょうねぇ、ティディアちゃんのところのものだものねぇ」
 肩を落とす母に、ノートパソコンにつないでいたケーブルを外しながら、ニトロは言った。
「母さん、今日はこれから用ないんでしょ?」
「ええ。仕事も休んじゃったから、暇よ?」
「それじゃあ、どっかに何か食べに行こう。ちょっと臨時収入があったから、奢るよ」
「あら、本当?」
 息子の誘いに、母は顔を輝かせた。
「それじゃあ、着替えてくるわね。ちょっと待っててね」
 嬉しそうに立ち上がり、いそいそとリビングを出て行く。
「ゆっくりでいいよ。俺も今日は時間あるから」
 その背に声をかけ、ニトロは一息つくとメルトンに言った。
「メルトン、母さんの好みに合ったレストランを芍薬に紹介してくれ。最後の仕事になるかもしれないから、力入れて選べよ?」
 ノートパソコンのモニター一杯に、メルトンが泣き顔を現した。口をぱくぱくと動かしているが、やはり何も音にならない。
「『ヒトデナシ』、ダッテ」
 メルトンの大顔のせいでモニターの隅に追いやられた芍薬が、面倒そうに代弁する。
 ニトロはメルトンのカメラに向けて、首を掻っ切るジェスチャーをしてみせた。
「『ゴメンナサイ許シテクダサイ』、ダッテ」
「罰を受け終えたらな」
 ニトロの言葉に、モニター一杯にあったメルトンの顔がしゅんとなり、文字通り消え入るように小さくなっていった。
「『生キテイタラ、マタオ会イシマショウ』、ダッテ」
 そしてとうとうメルトンの顔がぷつんと消えて――
 ニトロと芍薬は目を合わせ、これで十分だとうなずきあった。



 ――その夜。

 ニトロは『あのティディア姫をへこませた』と改めてメディアに大きくクローズアップされ、迷惑な憶測報道のその結果、『ティディア姫の最重要人物』としての存在感をさらに際立たされてしまった。
 思わぬ事態に打ちひしがれる中、ニトロは
「もしかして、これがあいつの狙いだったのか?」
 と思い至り、戦慄したのだが。
 それが真実だったかどうかは、結局、闇の中――

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