「恥知らず」
その時――
ニトロに届いたのは、爪に引き裂かれる痛みでも殴り飛ばされる衝撃でもなく、とても涼やかな声だった。
思わず閉じていた目を開けば、顔を庇う腕の先に、人があった。
背は自分より少しばかり低いだろうか。だがすらりと伸びた体は実際より高く見え、引き締まった体のラインは女性のそれを描き出している。
「あ……?」
獣人が驚愕の声を漏らしていた。
ニトロも、瞠目するしかなかった。
獣人の大男が振り下ろした太い腕が、ニトロの眼前に立つ女性に片手で受け止められていた。
ふいに獣人が悲鳴を上げた。
見れば女性の手を振り払おうとした瞬間、爪を立てられたらしい。その鋭い爪は獣人の腕にがっちりと食い込み、逃げることを許さない。女性の毛皮に覆われた手の甲に血が伝っている。
――女性も、獣人だった。
だがどの獣を起源とするのかは後ろ姿からは判らなかった。皮製のスーツに包まれた肉体に溢れるしなやかさはネコを思わせるが、長く伸びた――銀に藍を溶かし込んだような、不思議な色の髪がそのイメージの中にない。頭頂にピンと尖る耳はどこかイヌのようだ。
ただ一つ判るのは、尾のないタイプの獣人のようだということだけだった。
「だ、誰だ……貴様」
「あなたに名乗る名はありません」
冷たい声。獣人の男の顔から驚愕と戸惑いが消え、再び怒りが顔を覗かせた。
「邪魔をするな!」
怒声を上げ、自由なもう一方の手で獣人の女に掴みかかろうとするが、それも軽々受け止められる。
信じられない光景だった。一見するだけで両者には大きな体重の差がある。獣人の女は、一体どれほどの怪力を持っているというのだ。
「恥知らず」
また、女性が言った。獣人の男の腕を極めるように絞り上げながら、抑揚まで涼やかに。
「ニトロ様を襲うのならもっと面白く、それができないのなら優美になさい」
「お待ちなすって、何その主張」
言って、はたとニトロは悟った。『面白く』そのキーワードと、自分を様付けで呼ぶことを併せれば、女性の正体は自ずと判る。
「……とりあえず、名前を聞いておこうかな」
ニトロが言うと、女性は彼が自分の正体に勘付いたことを理解したようだった。辞儀をするように軽く膝を折り、そして投げ上げるように獣人の男の腕を解放した。
――その瞬間
あっという間もなく、女性の体が男の懐に鋭く踏み込んでいた。
気がつけば、その鋭利に突き出された肘が、腕を解放されたことに安堵していた男の
「――――っ?」
何が起こったのか理解できない……そんな顔で獣人は白目をむいている。うめき声すら上げることもできず、失神していた。
女性が、肩にのし掛かってきた大男を払い落とすように脇に避ける。すると男は支えを失い崩れ落ちて、その場に鈍い音を立てて倒れ伏した。
女性は大男を一瞥した。彼女はどこか少し、困惑している様子だった。ニトロはそれに疑問を覚えたが、大男が完全に失神していることを確認して彼女が振り返った時、そんな疑問は忘れ去ってしまった。
その獣人の女はネコ科を起源にしていると、そこではっきり判った。
山猫の容姿が顕著に現れていた。丸みを帯びた顔に雄々しさを誇りながら、どこか優しげな気品が彼女には漂う。
立ち姿は落ち着いた大人の雰囲気に包まれ、全身を覆う
中でも、最も目を引くのは蒼月色に輝く瞳だった。
月の光を閉じ込めたブルートパーズ。その美しい真円が、双眸の中できらきらと灯っている。
ニトロは彼女の瞳を、素直に、綺麗だと思った。
「お初にお目にかかります、ニトロ様。先日ティディア姫の執事に任ぜられました、ヴィタと申します。どうぞ、以後お見知りおきを」
改めて、ヴィタと名乗った女性が辞儀をしてくる。礼節を厳しく教え込まれた貴族の令嬢のように、優雅な所作だった。
「よ、よろしく。
えっと、それと、助けてくれてありがとう」
急転した状況に少し戸惑いながらも、ニトロが礼をすると、ヴィタは猫の口で微笑みを作った。彼女の落ち着いた雰囲気に、猫特有の愛嬌も合わさり妙に心をくすぐられて、彼にようやくゆとりが生まれる。
そこでニトロは、ふと思った疑問を口にした。
「その毛色、ネコの獣人には珍しいね。耳の形もちょっと違う気がするし。
その問いに、ヴィタは瞳を興味深そうに光らせた。危機の中にありながら、その違和感に気づいていた少年に感心もする。主が言っていたが、どんな危険の中でも自分の気づかないところで余裕を保っている、というのは、なるほど確かだ。
「よくお気づきになりましたね。毛色と耳は後回しにしていて、間に合わなかったんです」
「間に合わない? 何が?」
「
言うや、ヴィタの容姿が見る間に変化していった。
あまりに意表を突かれて、ニトロはあんぐりと口を開けることしかできなかった。
やがて『変身』が完了すると彼女の姿は狼の風貌となっていた。どうりで、彼女の尖った耳にイヌの印象を受けたはずだ。
ミスリナ――蒼い雪が降る星。その北限に住む銀狼属の獣人は、その蒼雪に染め上げられた神秘の毛並みを纏うという。
それが今、すぐ眼前にいた。
「……
驚嘆に任せて、ニトロはうなった。
その存在は知っていたし、テレビで見たことは何度もある。しかし目の当たりにしたのは、初めてだった。
と、ヴィタが今度は狼の口で笑いかけてきたかと思うと、また姿を変え始めた。
毛皮を作る体毛が全て肌に溶け込むようになくなっていく。先の変身とはまるで別の変身だった。数十秒の後にはヴィタに獣人の名残はなくなり、彼女の容姿は完全に
綺麗な人だった。
年は二十代前半だろう。しゃんと伸ばされた背筋は気品に溢れ、上流階級の教育を受けた令嬢然としている。
狼の影響か気高さを感じさせる顔立ちをしているのに、ネコ科の影響かどこか愛嬌がある。冷徹であるような、飄々としているような、どちらにも取れる掴み所のない涼やかさを持ち、それが愛嬌に反して不思議な雰囲気を作り出していた。
これまでニトロが出会ったことのないタイプの麗人だった。
ミステリアス、と言えばそうかもしれない。瞳と藍銀色の長い髪が先よりも神秘をまして見える。
(あれ?)
よく見ると、耳が目の横にない。どこにあるのかと思えば耳だけは獣人――狼のもので、髪の中へそれは巧く伏し隠されていた。
「なんで――」
「はい」
「耳を寝かせてるの?」
「こうしていると、
「ああ、そう」
何だか、あれが新しい執事に選らんだ理由が解った。
「そりゃ完璧に思われないだろうね。騙されるよ」
「皆様、驚かれます。楽しいですよ」
「うん、あなたがティディア属だってことはもう分かった。
ところで、基本はどの姿?」
「この姿です。母はまるきりアデムメデス人の特徴だけで」
「じゃあ獣人はお父さん?」
「はい、父は山猫の起源が顕著です」
「狼じゃないの?」
「父の母が、山猫とミスリナの銀狼の
「あ、隔世遺伝してるんだね。
……あれ? お母さんも『まるきり』ってことは」
「はい、
なるほどと、ニトロはうなずいた。あの怪力は
「って、
ニトロが目を丸くすると、ヴィタは嬉しそうに微笑んだ。その微笑みは儚げに美しく、確かに、
「じゃあ
「父の父が
「ここまで多いのは初めて会ったよ……」
しかも様々な種族の特徴と能力の良い所取りをしているようだ。こんな例は稀だろう。ティディアもよく、こんな人材を得られたものだ。
「あ、そういやティディアはどこにいる?」
「こちらに向かっています」
「……?」