今にも突進してきそうなティディア・マニア獣人ビースターを目に、ニトロの脳は焼け焦げそうなほど高速で回転していた。
「待った! ティディアを殴ったって『ラジオ』の中継だろ!? あれはツッコミだってドツイタだけだって!」
「ティディアたん!」
「また変わってるじゃねえか! ちゃんだろ、ちゃん!」
「どっちにしたって貴様がティディアたん――」
「ちゃん!!」
「ティディアちゃんを殴ったことには変わりない! 貴様の拳、ティディアちゃん。どれほど痛かったことか……」
 説得と言うには雑すぎるが、とにかく会話を試み時間を稼ぐ。
 そしてありとあらゆる条件を現状に組み合わせ、その中から選ぶべき最適な行動を導き出そうと試みるが、どうしてもうまくいかない。
「そんなに痛がってなかっただろっつーかむしろ喜んでたろあのバ……ティディアちゃん!」
「殴られて悦ぶなんて、ティディアちゃんがSではなくMだとでも言うのか貴様! それは嬉しい!」
「ええい、てめえの趣向なんぞ知ったことかぁぁ」
「しかしだとすれば貴様は衆人環視の中でティディアちゃんとそんな楽しいことをしていたということになる! それは羨ましすぎてまた許せないじゃないか!」
「そんなのただの妬みじゃねぇか!」
「違う! ティディアちゃんの痛みを貴様にも与える大儀がある!」
「何が大儀だっ、て、俺は何を怒らせるようなことを!」
 ハラキリやティディアのように回転の速い頭が欲しかった。あの、複数のことを進めながら別のことを同時に考えられる力が。
「まあ大儀でいいや! それならそれとして、だからってお前が俺を殴る必要はないだろ!? ティディア……ちゃんが俺を殴りゃいい話じゃねぇか!」
「ティディアちゃん、本当はとっても優しいから貴様に殴り返せない……」
「ん? それには断固として反論したい」
「貴様にティディアちゃんの何が解る!」
「解りたくもない!」
「我々は研究し尽くし解るのだ!」
「待てぃ俺の主張は聞こえているか!?」
「だからこそ! 我々、私立ティディア親衛隊が代弁しなくてはならないのだ!」
「――え? いやちょっと『我々』って。他にも仲間がいるの!?」
「今のところは隊長一人!」
「一人!?」
「俺一人!」
「ふざけんなーーーーっ!!」
 大体、ティディアは何をやっているんだ。こういう時にこそちょっかい出してこないでどうする。てか絶対近くに配下を忍ばせているだろ。今が出番だ、さあ手下共よ今がその時だ。それとも何か、本当にクラッキングだけを仕掛けてきたというのか。
(だとしたらちょっかい出してこなかったことを怒る!)
 いや何を考えている自分。ほらなんか獣人さん一歩踏み出しましたよ。のん気に考えている暇があったら逃げ出せ自分。
(いや逃げ切れない)
 そんなことだけ即座に判断できるのが、ニトロは口惜しかった。
 獣人の立ち姿には素晴らしい柔軟性が垣間見える。まさに野性の力を強く引き継ぐ、そのポテンシャルが滲み出ている。
「さあ、覚悟しろニトロ・ポルカト」
 全力で自転車を飛ばせば? 駄目だ、無意味だ。せめてプロレーサーほどの太腿があれば逃げられるかもしれないが、まず自転車が最高速度に乗る前に獣人は追いついてくる。
 一方的な……
「覚悟なんかできるかそんな理屈で」
 一方的な狩りしか、ここにはない。
「理屈ではない、これは私立ティディア親衛隊の総意だ!」
「一人だけならそりゃ総意だろうさ!」
「さあ歯を食いしばれ……顎を砕いてやる」
「流動食は好みじゃないんだけどなあ……」
 もはや何を言っても無駄だろう。時間稼ぎもできそうにない。
 全身に力を漲らせ、獣人がまた一歩踏み出した。
(こうなったら戦うか? 正面きって)
 心の中でハラキリが苦笑いするのが見えた。
 以前の、同じようにティディア・マニアの強襲を受けた時。『映画』の時に身につけた格闘技術、ティディアと渡り合うことができた自信を持って反撃を試みた。
 だが結果は最悪。二対一ということもあったが、何もできなかった。ハラキリの介入がなければ骨の一本くらいは持っていかれたかもしれない。
 その時ハラキリが言った言葉は耳に残っている。生兵法は怪我の元、格闘プログラムの刷り込みは所詮刷り込み、そんな技術はすぐに体も忘れていく。
(ああ、言うこと聞いて護身術でも習っときゃ良かった)
 幸い良い先生は身近にいるのだ。早速明日にでも弟子入りしよう。
(だから先生、何かいい助言をテレパシープリーズ!)
 獣人の足は次々と踏み出すたびに勢いを増し、その勢いを飲み込んで怒気がさらに大きく膨れ上がっていく。
 仇敵を殴り殺さんばかりの意志の塊が、迫っていた。
 爛々と光る眼を血走らせ、唇の隙間から軋むほど噛み締められた白い牙を覗かせて、見るからに渾身と握りこんだ拳を大きく引き絞る。
(――あ、隙だらけ)
 その時、ニトロの脳裡に閃きが走った。
『とりあえず意表を突いてみたらどうですかね』
 凄まじく面倒臭そうな口調で、ハラキリがそう言うのが確かに聞こえた。
「ティディアちゃんに成り代わりぃ!」
 獣人が叫び、バネを巻くように捻った体を弾けさせ……今にも握りこまれた大きな拳が飛んできそうなその瞬間、ニトロはペダルに掛けていた片足を地に下ろし、そのまま爪先立ちに腰を浮かせた。
「天罰覿面!」
 獣人が雄叫びを上げた。もう三歩駆け込んで、耳の後ろにまで引いた拳に体重乗せて打ち出せば――
「チャリンコアタック」
 その時だった。
 ニトロが、自転車を駆け込んでくる獣人にほうった。
「!?」
 獣人の目が大きく見開かれた。
 ニトロと獣人の間で、無人の自転車が頼りなく揺れている。
 刹那の機だった。
 完全にニトロを殴るつもりでいた獣人の体は前にしか進まない。彼にそれを避けることは、できなかった。
「どわあ!」
 えらい勢いで自転車と激突し、獣人は自転車を巻き込みもんどりうって転倒した。その拍子にハンドルか何か突き出た部分が体をついたらしく、くぐもった悲鳴が上がる。
 ニトロは自転車を放るなり横に動いて、獣人の転倒に巻き込まれるのを避けていた。
 そして見事な成果を見ながら、考える。
 これからどうするべきか。逃げるか。少しの猶予はある。サイクリングロードの片脇を固める緑地帯に飛び込んで、やぶを突っ切り何とか人通りのある道に出られれば無事に済むだろう。
 ただ逃げ切れるか、どうか。
『それより後頭部蹴りましょう。全力で』
 脳内ハラキリが笑顔で言った。
『ほら今ならガードもできません。いくら獣人でも頭を綺麗に蹴っ飛ばされたら気絶しますよ』
 自転車のフレームが変に足に絡んで立ち上がれないでいる獣人、確かに今その頭部は無防備で、ボールを蹴るように全力で蹴り飛ばせばニトロの力でも倒せるだろう。
(いやでもそれは人としてどうだろう!)
 だが、ニトロは躊躇した。
 ともすれば大事に至りかねない攻撃を、自分の身が危険であるからといって躊躇いなく行動に移せるほど、ニトロは非情になりきれなかった。
「き、貴様ぁ……」
 そしてその躊躇いは、ニトロにさらなる事態の悪化をもたらした。
 思わぬ反撃と思わぬ打撃を受け、獣人には激しい怒りが満ちていた。
(しまった、逃げとくんだった)
『もしくは蹴っておけば』
(だからそれはどうだろうっ)
『中途半端な反撃は怒りを増すだけですよ』
(今さら言うな! あれ!? ホントにこれテレパシー!?)
 それが本当にテレパシーなのか、追い込まれた脳味噌が聞かせる幻聴なのかを検討する時間はなかった。後悔する時間すらなさそうだった。
 フードが外れて、痛みに歪む憤怒の形相と、我を失った眼光が街灯の下に露となっていた。その容姿をはっきりと目にしてニトロは、泣きたくなっていた。
 どの属が顕著とは言えないまでも、しかし明らかに大型獣の面影がそこにあった。
 だとすれば、筋力は相当なものだろう。級友に虎の獣人がいるが、彼女の腕力にさえ、猿孫人ヒューマンの男子で敵うものは少ない。
(反則だよ……)
 獣人は立ち上がり、ウィンドブレーカーが破れていることに気づいて、顔色にまた怒りを差した。
 そして鼻筋に刻まれた皺を怒気でさらに深くする。まさに獣そのものに咆哮を上げた。
「もう許さん!」
「て、いつ許そうとしてたよ! っあ!」
 思わずツッコンでしまったニトロの顔が、失態にみるみる青ざめていく。
 何をしていると自分を罵倒する。
 足元の火に油を注いだらどうなるというのか。
「ニトロ! ポルカトォォ!」
 そんなの、ひどく火傷するにきまっているじゃないか。

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