夜風が気持ちいいカルカリ川沿いのサイクリングロードを、愛用のシティサイクルで軽快に飛ばしていく。
 整地された路面はまっ平ら、タイヤには十分なエア。
 ペダルを踏み込む抵抗は少なく、踏み込む力がそのまま推進力に変わる、心地良さ。
 ハンドルの中央にはモニターがあり、その画面の左上には、テレビの時刻みたいに表示された速度が15/h付近で前後している。
 いい夜だった。
 散歩がてらに自転車こいで、夜気に軽く汗を流すには絶好の晩だった。
「マタ姫サン、メール寄越ソロウトシテキタヨ」
 モニターに映るクールビューティーが、ポニーテールを揺らして肩をすくめた。
「へえ、頑張るな」
「デモチョット不気味ダ」
「なんで?」
「アノ姫サンガ拒否サレテルト知リナガラ、シツコク馬鹿ミタイニメールヲ送ッテクルダケナンテネ」
「考えすぎじゃないかな」
 ニトロは上機嫌だった。
 モニターの中で首を傾げているA.I.、芍薬が家にきてからもう五日。
 ティディアからの強引な接触は芍薬が全て弾いてくれるし、加えて『ニトロ・ポルカト』を狙う盗聴や盗撮も潰してくれるから、これまで気を休ませてくれなかった不安が跡形もなくなくなっていた。
 外出中、人に写真だとかティディアの話だとかをねだられることがないわけではないが、もとより目立つ顔立ち姿格好ではないことが幸いして、声をかけられることは思っていた以上に少ない。
 稀にティディア姫の熱狂的なマニアに強襲を食らうこともあったが、そういうのは近場にいるアンドロイドを芍薬がこっそり乗っ取って撃退してくれた。
 何よりここ数日はティディアが公務で忙しく、彼女が直接アタックをかけてくるおそれがないのが最高だった。それだけで平穏そのものだと言ってもいい。
「芍薬に敵わないって、判ってるんだよ」
 ニトロは芍薬に感謝を込めてそう言ったが、芍薬は不満げな顔を崩さない。その頭の上に渦巻きが現れた。口をへの字に結んで眉を八の字にして、どうしても納得がいかないらしい。
「芍薬は心配性だなぁ」
「心配シテ済ムコトダッタラソレデイインダヨ」
「あまり気を詰めすぎると熱出すよ」
「CPU・全ハード冷却正常。大丈夫」
 ニトロの軽い気兼ねに律儀に応えて、芍薬は主を覗き込むように見た。
「デモネ主様。アノ姫サンガ、ソウ簡単ニ諦ルト思ウカイ?」
「意外にあいつは諦めがいいと思うよ」
「御意。確カニ『手段』ニ対シテハ」
 ニトロは忌々しげに冷笑した。
「まあ……確かに『目的』達成に関しては怨霊も真っ青な執念深さを持ってるけどさ」
「ケドサ?」
「ほら、何日か前だったか、物凄いアタックがあったんだろ?」
「御意」
「それを弾かれたもんだから、今のところは途方にくれているんじゃないかな」
「……ナンダ、主様モ警戒シテハイルンダネ」
「ん?」
「『今のところは』ッテ」
 指摘され、ニトロは空を見た。今日は双子月の片割れ、蒼月が見えない。細々と弓なりに弧を描く赤月は、寂しくて体を縮めているのだろうか。
 ただ太陽と月と母星の位置の兼ね合いでそうなっているだけだと知っているのに、妙に叙情的に考えてしまう。
「まあ、慣れてきたしね……」
 ニトロの目は飛んでいた。光を失い、時空の裏側でも見ているような眼だった。
「ソノ前ニノイローゼニナラナクテ良カッタ」
「いっそなった方が楽だったかもしれない」
 なんだか悲しくなってきた。
 これではせっかくの平穏を満喫できない。いつまたこの日常に奴が乱入してくるのか分からないのだ。せめて今、この気持ちのいい散歩くらいは最後までのんびり終わりたい。
「まあ、芍薬の心配が当たっていてもさ、ティディアは副王都セドカルラで仕事だし、今日は大丈夫だよ」
 ニトロが気を取り直そうとそう言った時、芍薬がおや? という顔をした。
「どうした?」
 主の問いに、芍薬は愉快そうに笑った。
「メルトン、思ッタヨリ早カッタヨ。アクセスシテキタ。『連絡』ジャア、ナイミタイダ」
「あ、そう。まー、あいつも結構諦め悪いからなぁ」
「ドウシヨウ。応対シテ、マタ追イ返ソウカ?」
「そうして。で、ちゃんと実家に専念しろって言っておいて」
「承諾。ソレジャ――ア!!」
 芍薬が緊迫した声を発したが同時、モニターがブラックアウトした。
「芍薬!?」
 驚いてニトロはブレーキを握り締めた。急激にロックされたタイヤが地面を滑り、体が前につんのめる。それ以上姿勢が崩れないように全身が反射的にバランスを取ろうとするのに任せて、ニトロは足を地につけるとモニターを操作した。
 A.I.への接続を何度も試みるが、できない。芍薬が応答しない。
 すると、モニターに何やら文字がぼんやりと浮かび上がってきた。
 一文字、二文字。
 それは一つの単語となり、やがてそれは、一つ二つ三つ四つといつしか無数無限に増殖し――
「逆襲!」
 突然、メルトンの声が大音量で鳴り響いた。
「逆襲! 逆襲! 逆襲!」
 不自然にエコーがかかった声で、メルトンが叫ぶ。モニターに羅列された単語をただただ狂ったように叫ぶ。
 つんざく不快な音に、ニトロは慌ててモニターのスピーカースイッチを切った。
 メルトンの声は消えた。
 しかし、モニターを埋めた『逆襲』の文字は怪しく点滅し続けている。今にも、文字までもが叫び出しそうだった。
 やがて文字の点滅は明滅の間隔を短く光量激しく乱れていき、ついには、モニターは何も映さなくなった。
「――なんだ?」
 何が起こったのかニトロには解らなかった。
 モニターのスイッチ類を操作してみるが、全ての反応がない。触れた手の肌に、モニターの内部にこもる熱が伝わってきた。何かハードが焼きついたのか、完全に壊れていることが窺い知れた。
「どういうことだ?」
 あの芍薬がメルトンにこんな暴挙を許すはずがない。
 では芍薬がメルトンに『負けた』というのか? いや、それはない。いくらなんでも実力に大きな差がある。例えメルトンが能力を上げてきたとしても、そう簡単に芍薬には及ばない。それにもし追いつこうというならば、潤沢な資金と技術を持ったエンジニアか、素晴らしく優秀なA.I.の協力の下で研鑽シミュレーションを積む必要がある。だがそんなコネはメルトンにはない。
「…………潤沢な……」
 資金と技術を持ったエンジニア。
 あるいは、素晴らしく優秀なA.I.。
「いるなぁ。そういうのとコネクション持っている奴」
 ニトロが知る限り、二人。
 一方は芍薬を裏切らない。何しろ、芍薬の親のようなものだし、そもそもメルトンに協力する義理がない。
 ではもう一方は。
「ニトロ・ポルカト……だな?」
 ふいに、前方から声をかけられた。
 モニターを凝視していた目を上げると、十数歩の先にある街灯の下、そこにウィンドブレーカーのフードを目深に被り、顔を隠した者がいつともなく現れていた。
 声から男性だということは判る。大男だった。肩を怒らせ拳を硬く握り締めている。どうやら気楽な気分でそこにいるのではないらしい。
 サイクリングロードを照らす白光の中、フードの陰にある表情は見えない。しかし、異様に力のある瞳は爛々と輝いて、敵意を込めて睨みつけてきていることは容易に知れた。
 見れば袖口から突き出るたくましい前腕が、フェルトのような短い体毛に覆われている。足の後ろには、不機嫌に揺れる尾があった。
 仁王立つ者が獣人ビースターであることを悟り、ニトロは嘆息した。
「あんにゃろう、随分とまあ強力な助っ人を用意してきたもんだ」

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