「飛びます!」
 ハラキリの声。それと同時にニトロは、彼の腰から腕を離した。
 砕け散るガラスからむき出しの顔を腕で守り、そして固い床に身を打ちつけないよう、格闘プログラムに刷り込まれた技術が彼の体を動かした。何度か床の上を転がり、ニトロは腰のホルスターからレーザーガンを引き抜きながら身構えると、煙が入り込んで薄くもやがかった広間を見回した。
 玉座の間。
 この場所を、ニトロは知っている。いや、アデムメデスの民ならば誰でも知っている。国賓が招かれ、時に多大な貢献をした国民が招かれる、この城の中で最も威厳があり最も聖なる空間。無駄な調度品は一切なく、王と王妃の玉座、そして大扉から玉座へと伸びる一筋の赤い絨毯だけが圧倒的な存在感を示す広間。
 だが今、シャンデリアの煌びやかな灯が照らすこの場所、その中心に、靄の中にも黒々とそびえ立つ怪しげな物体があった。
 まさか罠かと緊張したが、一向に何事も起こらない。ではよもや突入先を誤ったかと背後を見れば、破られた大窓の前には王と王妃の玉座が間違いなくある。それなのにどんな警報音一つ鳴り響いていない。この王城で、とんでもない爆発があったというのに、たった一度も。
 やはり罠なのか。
 ニトロの胸に、緊張と当惑が大きな不安を産み落とす。
「ハラキリ?」
「後ろです」
 肩越しに一瞥し確認すると、左手首をストレッチするように触りながらハラキリが油断無く身構えている。その仕草は彼が戦闘服の『録画機能』を起動しているのだと、ニトロは理解していた。
 出際にハラキリが「一応」と前置きして告げたこと。ティディアの『証言』を取るということ。
 ニトロには証言は聞くだけで十分だったから、ハラキリの意図を掴みかねた。それを元に司法にかけようと提案されるのかと思い、そうであればティディアに法は通用しないと『確信』しているから、即座に却下の言を返そうと用意もした。
 だが、ハラキリはニトロの意などとうに汲んでいるとばかりに、「決着後に使います」と言った。どんな結果の後であれ、と。
 それがあまりに素っ気なかったため、思わず証言を取ったら逃げるんじゃないのかと訊ねると、ハラキリはニトロにそうするかと逆に訊いてきた。
 質問しておきながら答えあぐねる依頼人に、ハラキリは笑って「共倒れは御免です」とだけ言った。
 打算的な言葉だと思った。暗にハラキリは、ニトロがどんな選択を取っても構わないと突き放し、自身の勝率が少しでも高い策を選んでいくと示していた。倫理や道徳からすれば殺し合いを止めるのが本来の筋だとニトロは思う。だがハラキリにはそれをして勝率が下がるなら、さらりと切り捨てるという態度があった。
 数日前なら、ハラキリの選択に説教でもしていたかもしれない。それは違うだろうと。いや、きっと選んでしまう道は本来間違いだと言う自分が、今も少し離れた場所でかすれた声を上げようとしている。
 それなのにニトロはハラキリの対応が嬉しくて、不思議な感じがしていた。
 自分が死ぬかもしれない選択に対して冷静に、その後の対処を考えている味方がいることは心強く、同時に、命奪われても願いは叶うだろうと予感すら与えてくれた。
「何も仕掛けてきませんね」
 と、ハラキリが半笑いを浮かべた。少し呆れるように、少し、こうなると感づいていたように。その眼は広間の中央に向いている。
「どうしてです?」
 換気が進み靄が晴れてきていた。広間の大気が澄み、全貌がはっきりと目に入ってくる。
 ニトロは、気になっていた広間の中心にある物体を目にして――膝から崩れ落ちた。
「なんだよ、それ」
 それは祭壇であった。星間に名立たるラミラス星の黒透岩ドニストで作られ、そのガラス質の光沢の中をゆっくりと進む光の粒子を弄ぶように輝く様は、まるで祭壇を巨大な宝玉から削り出されたもののように思わせる。また至る所に施された彫刻は実に細かく、金や銀が施され、職人の魂が込められていることは容易に知れた。
 美しい。
 美しいがしかし、しかし!
 祀られている像は、女装したニトロだった。セーラー服を着た彼は、風でめくれそうになるスカートを押さえていた。『見ちゃだめだぞ、H』みたいな顔をして! ひるがえった上着の下に亡者の顔を無数に貼りつかせ、救いを求める餓鬼の群れを踏み潰している。
「なんなんだそれは!」
 ニトロは、祭壇の前で男と共に、一心不乱に頭を振っている女に叫んだ。
 二人は、そこでようやっと、こちらに気づいた様子だった。
 黒装束の男が先に振り返る。彼はシェルリントン・タワーでティディアがマスメディアに紹介した、恋人のヂョニーであった。
 そして、少し遅れて女が振り返った。
 純白の、ウエディングドレスにも似た装束の裾をひるがえし、女は汗に輝く笑顔を見せた。
「プカマペ様の御使い、モラニョヘ大天使様よ」
「悪夢みてぇな大天使を捏造するなド阿呆! 勝手に人の姿を使いやがって」
「おお! それではこの広間が、プカマペ様が第三の降誕の地としてアリンガナエモン大司祭に約束された場所なのですか!?」
 ニトロは眉間の皺を指で叩いた。
「では貴女様が予言された御使い羊を率いる山羊使い様でございますね!?」
「その通りじゃ。そなたは?」
「私は魂の名を『…パ』と申します愚か者。プカマペ様の愛波動を受けて揮発した脳味噌の化身でございます」
「お前もノるな」
「ぐええええ」
 ニトロは首吊り締めネックハンギングツリーでハラキリを持ち上げ、揮発した脳味噌が入っている骨よ砕けろとばかりに床に叩きつけた。それから一度深呼吸して気を整え、改めて言う。
「なるほど『祈りプレイ』ってことか」
「メルトンちゃんが、ちゃんとこっちに呼んでくれたみたいね」
 今度はティディアも、ふざけた答えを返してこなかった。ニトロの殺意に満ちた眼光に身を震わせて、立ち居振る舞いも優雅に、彼に向き合っていた。
「……知ってたのか。メルトンが乗っ取られたこと」
「いいえ。それぐらい報告を受けなくても分かるわ」
「何?」
「だって、あなた、私の失言に気づいたんでしょう? 警察のデータバンクにハッキングの跡があったって報告は、受けたもの」
「……そうか。あれはわざとか」
 ティディアの顔は恍惚としていた。ニトロの言葉に歓喜の表情に輝いていた。
「なぜそんな回りくどいことをするんです」
 床に寝転んだまま、ハラキリが言った。
「警察から報告があったようですが、うちの撫子のハッキングの形跡は、よほど警戒した上で探さなきゃ見つかりません。警察のサイトなんて、はっきり言ってザルですし。……報告があったんじゃなくて、聞いたんじゃないんですか? ハッキングの跡がなかったか、ちゃんと調べに来てくれたかを確認するために」
 ハラキリはニトロを一瞥した。
「あなたは、まるで彼をどこかに導こうとしているかのようだ」
 ティディアはハラキリを見つめた後、ニトロに目を移した。
「生まれながらに全てを持っていると、退屈なのよ」
 彼女は、微笑んだ。
「本気で、それこそ最後は喧嘩になるくらい本気で遊んでくれる相手もいなくてね。私を満たしてくれる娯楽もスリルもどこにもなくて、つまんなくってさ」
「なるほど」
 よいしょとハラキリは起き上がると、ため息をついた。
「まったく、あなたを殺したい者など他にごまんといるでしょうに」
 その傍らで、ニトロは過去の『言葉』が脳裏に溢れるのを聞いていた。意識が少しぼんやりとする。思考の糸が網のように絡み合い、記憶の洪水、その中から明確な結論が掴み出されていた。
「……俺も解ったよ」
 彼は、言った。
「全部、お前が、俺がこう出ることを期待して計画したことだったんだな」
 うつむき、肩を怒らせ、拳を握り、歯を噛み締めて、声を震わせる。
「お前は……お前を殺しに来る俺と遊びたかっただけか」
「ええ、そうよ」
 ニトロは絶叫した。
そのためだけに殺したのか!
「大当たり〜」
 ニトロはレーザーガンの銃口をティディアに向け、躊躇なく引き金を引いた。
 だが、放たれた赤い光線は、標的の寸前で霧散して消えた。対光学兵器バリアだ。ティディアが得意げに白装束の裾をつまんで広げてみせる。それが自分の着るものと同等なのだと、そして同時に、こちらの装備を彼女が承知していることを、ニトロは悟った。
「どう? どっちのバッテリーが先に切れるか試してみる? それとも古典的に剣で決闘と洒落込んでみる?」
 ティディアに言われるが早いかニトロは歩き出していた。目を血走らせ、犬歯をむきだし。レーザーガンを捨てた手には、光り閃くナイフが握られていた。
「その道を選びますか……」
 少し嘆息混じりに、ハラキリはつぶやいた。背負っていたザックを下ろして中から手榴弾を取り出し、走る。
「ヂョニー、あなたはハラキリを止めなさい」
「承知しました」
 ヂョニーはうなずくと、
「おっ?」
 ニトロとすれ違い、一息で10m近く開いていた間を詰めてきた黒装束の男に、ハラキリは感嘆にも似た吐息をついた。それと同時に力を抜き、腰を深く落として足を止める。彼の頭上を、ヂョニーの拳がかすめていった。

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