「俺、必要だったか?」
「説得力ありましたよ。ニトロ君の顔が、最大の脅しでしたから」
「ああ……そう」
 コンピューターを眺めているだけのハラキリを見て、ニトロは怪訝に思った。
「あれ? ウイルスはもう送ったの?」
「送りましたよ。『聞き分けよくて良かった』を実行パスにしていたんです」
「……見事な手際だ」
「ありがとうございます」
 と言って、公園の中へと歩を進める。
「おい、もう大丈夫なのか?」
「警報流れたらメルトン君が死ぬだけです。拙者達は全速離脱すればいい話ですから」
「いやいや、でもひそかに通報されていたら?」
「モニターしています。いやー、メルトン君もなかなか優秀ですね。もう拙者達の動きはセキュリティに追われないようにしてありますし、必要な情報も全部くれました」
 と、ハラキリが手の中の小型コンピューターをニトロに見せた。ディスプレイは四分割され、一つには城の詳細な見取り図が、一つにはセキュリティのリアルタイムステータスが、残り二つには警備の状況が映り変わっている。城の監視カメラの映像を、盗んでいるのだ。
「脱帽だよ、ハラキリには」
「まあ、仕込まれていますから」
「誰に」
「両親に」
「おかしな家族だ」
「我ながらそう思います」
 ハラキリを追ってニトロも公園に入る。王都の中にあって恐ろしいほど濃密な木々の匂い、静けさが全身を包み込む。警報は、鳴らなかった。
 感嘆しながら、ニトロはハラキリについていった。堂々と歩けと言われている。途中、ジョギングをしている人とすれ違った折、こちらを同類だと思ったらしい相手とにこやかに挨拶を交わした。それがなんとなく、ニトロには可笑しかった。
 二人は問題なく公園を進み、堀のそばに辿り着いた。
 堀は本物の木で作られた柵で囲まれ、その前には数多くのベンチが並べられている。
 実に、皆さんここでイチャついてねと言っているようなものである。実に多くの恋人達がイチャついく場所として有名になったのは当然の帰結であろう。夜通しか地下鉄の始発待ちか、日も昇らぬ早朝だというのにベンチは幾つも埋められている。
「人目を忍んで行けるのか?」
 茂みの中に隠れて、暖色の街頭に照らされる堀の前の大通りを見ながら、ニトロはハラキリに不安気な顔を見せた。直前にもベンチがあり、そこにも熱烈に抱き合うカップルがいる。その後ろに王城がそびえているが、この広い堀を泳いでいかねば辿り着けない。
「光学擬態を使います。あれなら何も気に留めないでしょうが、とりあえず足音は静かに」
 戦闘服を『トレーニングモード』から『バトルモード』に戻すハラキリに倣いながら、ニトロは彼から受けた注意事項を思い返した。
 光学擬態。遠目、あるいは静止状態であれば見破られることは少ない。だが動けば人の目に違和を残す。派手に大きく動けば、訓練された者や特殊な視覚を持つ種族には『姿』と認識される。自然界の擬態との違いは――
 それ以降は打ち切り、ニトロは周囲の状況を確認した。大通りを歩いてくるものはあるか。ここから目標地点に行くにはどのルートが最短で、足元はどうなっているか。
(動く時は小さく、ゆっくり、しかし速やかに)
 ニトロは最後に、カップルの自分たちだけの世界に没頭する姿を一瞥し、ハラキリに了解を返した。
 ハラキリがザックから顔覆型フェイスカバータイプのダイバーマスクを取り出し、ニトロに手渡して言う。
「使い方は一般のものと変わりません」
 それからハラキリは次に幾つものレンズがついた球形の装置を数個取り出し、そこらの草陰に転がした。逃亡時に使う囮か何かだと、ニトロは察した。
「拙者の姿はゴーグルに映ります。遅れないよう、ついてきてください」
 言って、ハラキリがダイバーマスクを被り、左袖のコントロールバンドに触れるとその姿が消えた。とはいえ、目を凝らせばそこに人型の何かがいることがぼんやりと判る。それに彼のザックは何事もなく丸見えだった。ニトロから見て『ハラキリがそこにいない場合に見えるはずの光景』が、ハラキリの体をスクリーンに再現されているのだ。正確に言えば姿が消えているというよりも、姿が誤魔化されているといったところだろう。
 と、ハラキリがザックにも細工を施して完全に風景に溶け込んだ。
 ニトロも追ってマスクを被るとゴム地が皮膚の上を這うように伸び動き、頭部全体を覆った。特殊アクリルのゴーグルにハラキリの輪郭がはっきりと縁取られる。それを目に、ニトロは光学擬態を起動した。
「確認したよ」
「では参りましょう」
 ハラキリの輪郭が動き、堀へと向かった。ニトロも静かに歩き出した。二人は身を縮めて慎重に足音を立てないように、しかし素早く歩いて柵に辿り着いた。すぐ脇にあるベンチでは、濃厚な愛が絡み合っていた。
「愛しているよ、ハニー」
「ああ、もっともっと強く抱いて」
 柵をまたぎながらニトロは、六臂人アスラインの女性と、キスしているのか捕らわれているのか分からない男を一瞥した。
(……羨ましいよ)
 妙に深い憧憬を感じながら、ニトロはゆっくりと、わずかな波紋も生まないよう静かに爪先つまさきを水につけた。
 夜の水の冷たさに声を上げそうになるのをこらえながら、ニトロは全身を水の中に沈めた。すぐに戦闘服の機能を働かせて体温の低下を防ぐ。マスクの中に人工えらから新鮮な空気が送られてきた。視界は悪くない。城と公園の光、それにマスクの性能で随分と明るく見える。
 ……と、ゴーグルに、矢印と数字が現れた。ハラキリを追跡しているのだ。数字が示す距離を見ると、彼はかなり先に進んでいる。
 ニトロは置いていかれないように、泳ぎに力を込めた。だが、防水加工がされているとはいえ、靴を履き服を着たまま泳ぐのは不慣れも手伝い難しい。思うように進めず、ふと彼は思い出した。
(そうだった)
 袖口にあるボタンの一つを押す。すると戦闘服がより肌に密着し、靴の先に足ヒレが現れた。これで、ぐんと泳ぎやすくなった。
 ニトロがハラキリに追いついた時、彼は水面下の城壁で作業を行っていた。城内につながる水路の網を取り外しているのだ。
 作業はすぐに終わった。取り外した網を持ち、ハラキリはニトロに先に入るよう示した。ニトロはそれに従い、ハラキリは自分も水路に体を入れると、取り外した網を元通りに直した。
 水路の中はニトロの予想以上に広かった。と、ゴーグルに城の見取り図と現在位置が映った。ハラキリが情報を送ってきたのだ。そこには、城壁の下部で四角い枠の中に閉じ込められた二つの光点がある。これが自分たちならば、ニトロが水路と思っていたこの場所はただ行き止まりの空間であるらしい。
 ニトロが戸惑っていると、ぐいと腕を引かれた。見ると、マスクの額部に蛍火を灯したハラキリが上と背後を指差している。彼の光で、ニトロのゴーグルの暗視機能も力を発揮した。闇が薄まり、石天井に横切る一本の深い溝が見えた。背後には石の扉。
 改めて見取り図を見れば、今いる空間の隣に小さな部屋があった。そこからは螺旋状の通路が城へと昇っている。
 ハラキリが『仕掛け』を見つけて操作すると、天井の溝から壁が降りてきた。それはこの空間を内外に区切る仕切りだった。壁が降りきるとこちらは完全に密閉され、行き場を失った水が少し硬くなったように感じられた。
 と、その水がふいに沈みこんだ。いや、ニトロはそう感じたが、どうやらどこかで排水がされているようだ。体にかかる圧が薄まっていき、次第に下がっていく水位に押されて体も床に押しつけられていく。
 水がなくなるまで待ってから、ハラキリが隣の部屋への重い扉を引き開けた。その先には小間こまがあり、正面奥に階段が見えた。
「……ここは?」
「脱出用の隠し通路、の、一つでしょう」
 長く閉ざされ澱んだ大気を切って、狭く天井も低い螺旋階段へとハラキリが先に立つ。彼はすでに光学擬態を解いていた。
「もう一息です」
 ニトロは袖口のボタンを操作して姿を現すと、靴の足ヒレを消してハラキリに続いた。

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